人形の家 後編
日曜日の午後2時になった。玄関の呼び鈴が鳴る。彼女はスリッパの音を立てて玄関まで駆け寄り、カチャリと玄関の扉を開けた。
「お父さん、お帰りなさい」
「ああ、母さんは居ないよな」
「お母さんは仕事よ」
「そうか……、上がらせてもらっていいかな?」
「当然よ、自分の家なのよ」
「そうだな……」
二人はリビングに向かった。父親は数か月ほど離れていた昔の我が家を思い出の欠片を探すように視線を忙しく動かしていた。彼にとっては今さらここに戻る気など微塵もないが、それは捨ててしまったモノを惜しむ気持ちで、即ちその心のうちは現金で守銭奴的な行動だった。さらに、今の彼にとっては養育費の金銭的負担は重く、娘の様子を見て、それが適切に使用されている事を確認することにより自身の気持ちを整理したかったのだ。
彼にとって今の娘はただの足を引っ張る重石以外何ものでもなかった。
居間に着くと彼女はキッチンに向かい、父親の好きな珈琲を煎れてきた。客人用のカップとミルク、角砂糖を置いた。
「気が利くな、ありがとう」
父親は珈琲好きではあるが、珈琲の独特な香と味覚を嗜むにはあまりに甘党であった。カップにミルクを大量に入れ角砂糖を三つ放り込み、無作法にかき混ぜた。濃茶色の液体が薄茶色に変化するのを見届けてから父親はカップに口を付けた。
彼女は父親が珈琲を飲み干すのをじっと見つめていたのだった。そして彼女は父親に見られないように下を向きながら、左の口角を上げニヤリと笑った。
月曜日。
彼女が教室に入ると、いつものように友人が声を掛けてきた。
「おはよう。英語の宿題やってきた?」
「おはよ。やってきたわよ」
すると友人は突然仏様を拝むようにしながら、
「宿題見せて!!」
と言った後、悪びれた様子もなく、
「すっかり忘れてたの」
彼女は眉一つ動かさず、
「いいわよ」
鞄の中から英語のノートを取り出すと友人に渡した。
「これ貸しよ」
「うん、うん。今度、午後ティ奢るわ」
と調子のよい事を言いながら自席に踊るように駆けていった。
彼女は肩をすくめ、調子の良い友人の背中を眺めた。その時、自身の背中に突き刺さる視線を感じた。振り返ると、あの少年がこちらを見ていた。二人の視線が合うと同時に二人は視線を外した。彼女は思わず下唇を噛み拳を握った。面白い事に、この時初めて彼女は自分がこの少年に気がある事を自覚した。今まで、もっと自覚できる機会はあったはずなのに、何気なく目が合って視線を逸らし時に気付くとは恋の不可解さを解くのは簡単ではなさそうだ。
こんな弱々しいガキ臭い少年に恋するなんてと怒りにも似た気持ちが、惹かれている気持ちを押しのけてムクムクと湧き上がるものの、彼女の心の半分さえ満たすことが出来なくなっていた。もし彼女の相反する気持ちを天秤をかけたなら、どちらに傾くは言わずもがなである。
そして彼女は傾いた自分の気持ちが抑えられなくなりトイレに逃げた。
鏡で自分の顔を見ると、これでもかと思う程真っ赤になっていた。右手を左頬に当てた。少し熱を持っている。ふと、少年の顔を思い浮かべてしまう。
彼女は鏡に映る自分の顔を睨み付けながら血が出るほど唇を再び噛んだ。
そんな彼女ではあったが、気が付けば少年の事を考えてばかりの一週間が過ぎていった。そして、彼女はひとつの事に気付いた。
「そう、彼をわたしの家に呼べば好い」と。
放課後、彼女は少年を校門の処で待っていた。朝、少年に対してクラスでグルーピングされているSNSのIDを利用して、「放課後、校門で待っている」とメッセージを送っていた。彼女は校舎を背にして立ちながら、門から出てくる人の顔を横目で伺っていた。本人は待ち人などおらずただ立っているように見せかけいたが、周りからは待ち人が来ずと、ヤキモキしている少女そのものだった。当然、乙女たちの何組かは彼女の様子に気づいて、
「いいわね」
と彼女に聞こえるように声を立てた。そんな乙女たちの憧憬半分、皮肉半分の言葉など彼女の耳には全く届くことはなかったが。
それから五分ほど、彼女の体感時間では半時間程経過して少年は現れた。
「遅いわ」
彼女は冷たく言い放った。
「ごめん」
少年はペコペコ頭を下げ、本当に済まなさそうに謝った。
「行くわよ」
彼女は少年に背を向け歩き出した。彼女の背を追う少年はカルガモ親子の仔ガモのようだった。
「どこへ?」
「わたしの家よ」
彼女は相変わらず少年に背を向けたままだった。
「えっ」
一瞬、少年は足を止めてしまい、それから慌てて彼女を追った。
「家に?」
「そうよ。あなたに見て欲しいものがあるの? 黙って附いてきて」
「う、うん」
少年は納得いかないような返事をしたが、彼女の家に行く理由を彼女に問い出させるような雰囲気ではなかった。
二人は無言で彼女の家路をだた歩き続けるのだった。無言の行進が15分ほど続き、佐野王子址と書かれた石標を過ぎると、
「ここよ」
彼女が突然少年の方に振り向いた。
少年は彼女の家の前に立つと緊張した面持ちになった。思わず唾を呑み込み、足が地面に縫い付けられたように動かなくなった。思春期の気弱な少年には、同級の女子の家に上がるのは荷が重いのは致し方がない。それを笑うのも、責めるのも酷と言うものだろう。
「どうしたの?」
彼女が少年に問い掛ける。
少年は自分の動揺を隠すように口籠りながら、
「うん、何でもない」
「そう」
彼女はそれだけ言うと、彼の方に一切見向きもせずスタスタと歩き、玄関の鍵を大きな音たてながら開け、それから乱暴に玄関のドアを開いた。
「入って」
彼女はぶっきらぼうに言い放つと、
「うん」
少年は彼女に届くか届かないくらい小さく声で応えた。それから、見るからにおそるおそるといった感じで玄関に入っていく。
「おじゃまします」
どこかよそよそしい少年の声が響いた。
二人は玄関を上がり、彼女は少年をリビングへと連れて行った。
「飲み物は、珈琲、紅茶、それとも緑茶?」
「あ、あの珈琲を……」
「そう、そこのソファに座って待っていて」
そう言い残すと、くるりと踵を返してキッチンへあっさりと消えていった。一方、残された少年は、
「失礼します」
誰もいない部屋で、自分に言い聞かせるように小さな声で口ごもりながら呟きソファーに座った。
それから数分、少年は本来なら座り心地の良いソファーに居心地が悪そうに座り続けていた。
トレイにカップを二つ載せ彼女は少年の許に来た。そして有無を言わせない口調で、
「珈琲」
「うん、ありがとう」
少年は優しく微笑んだ。その笑顔を見て、彼女は一瞬手が震えカップの中味を零しそうになった。そんな動揺を億尾も出さず、彼の前にカップとステックの砂糖とカップミルク、ソーサにスプーンを置いた。
少年は再び、
「ありがとう」
と申し訳なさそうに言った。
一方、彼女はそそくさと自分のカップをテーブルに置き、少年の真向いの席をそこが自分の指定席のように勢いよく腰を落とし、珈琲に口を付けた。そして銅像のように固まっている少年に、
「冷めないうちに、どうぞ」
「頂くよ」
少年は慌てて砂糖もミルクも入れずにカップに口を付けた。「苦い……」自分が子供舌の甘党なのを忘れていたのだ。それくらい緊張していたということである。
彼女は少年がカップに口を付けるのをじっと見ていた。それから少年がいかにも苦そうな顔をしたので、思わず声を出さず笑ってしまった。
「砂糖もミルクも使って」
「うん」
少年は砂糖とミルクを入れて再びカップに口を付け、珈琲を一口飲み干した。すると、急に激しい眩暈と耐え難い苦痛に襲われ、少年の意識は途切れた。
彼女は両親に少年を紹介する。
両親と少年の会話は弾んだ。それを彼女は嬉しそうに見ている。いつまでも絶えることない彼女一人の笑い声。
彼女は仕合せという言葉が今ここにあることを実感した。
了
参考資料、Wiki「解離性障害」