人形の家 前編
Maison de poupée
数分に一組は離婚しているこの御時世、彼女の両親も彼女が中学に入学すると同時に離別した。主だった原因が特にあったわけではない。ただ関係が冷めていったのだった。それは小さな雨粒が岩を時間を掛けて削るように、二人の間に気付かぬうちに亀裂を生んでいった。そしてその亀裂は修復されることもなく、頑強に見えた岩を内部から破壊したのだった。当然の事として、その崩壊は彼女の身にも降りかかった。冷遇する半身を受け継いでいるのが不愉快なのだろうか、徐々に両親は彼女に愛情を示さなくなっただけでなく、関心も薄れていったのだった。
彼女からしてみれば、休日には近くの公園に親子三人で好く出掛けるほど仲の良かった家族が、気が付けば凍てつくような冷え切った関係になっていたのだ。まだ子供だった彼女に出来る事はない。自室に引きこもり、ただ寒々とした時間を過ぎていくのを眺める他なかった。巷に溢れる物語にあるような無邪気に両親へ情を訴えられる程、子供としての純粋な白さはなく、そういう意味では彼女は早熟であったなのかもしれない。
二人を分かつ印が押される一週間前に、彼女は母親に引き取られること、月々の養育費の額、財産分与、今住んでいる一軒家は母親に分与されることが決まった。特に言い争う事もなく淡々と物事が決まっていったのだった。
母親が彼女の事を引き取るに当たってどのような態度を取ったかと言うと、今まで通り特に母親としての愛情は示さず、ただ事務的に処理しているようだった。
そんな母親であった為、彼女には、
「あなたを引き取る事が決まったわ」
と告げただけだった。
彼女は母親の無表情な言葉に無言で頷いただけで、泪の一筋も見せなかった。それがどうしてなのか、彼女自身も理解することは出来なかった。
離婚後、新たに始まった父親のいない彼女の生活は、特に変化があったわけではない。彼女の視界から登場人物が一人消えただけで、流れ行く日常と云うストーリーには何の影響も及ぼさなかった。彼女はその事実を知っても驚くことなく、その日常の物語の役割、母親の娘という役を演じていた。何の疑問も感じることなく。
中学の制服に袖を通した彼女の学校生活は平凡そのものであった。大人しい少女や女の子受けする少女たちと親しくなり、ちょっとしたことで笑い合う関係になっていた。ただその交流は学校内だけで特に放課後まで関係を保つものではなかった。
彼女にとって、学校生活とはその場所のみで営むものであって、それ以外では存在しないものだった。友人と放課後に寄り道することや休日に遊びに出かけることなど皆無であった。彼女の友人たちは彼女のその静かな主張を受け入れてくれて、放課後まで友人関係を強要することはなかった。彼女をそういう気質な人だと友人たちは共通認識を持ったのだった。
彼女は基本物静かな雰囲気があり、大人びだ容姿から中学1年生には見られず、もっと上級生、人によって高校生に見られることがある程だった。そういう雰囲気が大人しい少女たちを惹きつけたのだろう。
また授業態度も真面目で授業もノートをしっかり取り、宿題などの課題も忘れる事もなく完璧にこなしていた。
男子生徒の中に、そんな彼女に好意を持つ者が数人現れた。しかし、この頃の男子に気の利いた口説き文句など言えるはずもなく、好きな女の子にちょっかいを出して気を引くという普遍的な少年時代の法則に従った。そして結果的に彼女に疎まれ嫌われることとなった。悲しいかなこれがその少年たちの哀れな恋の結末であった。
この時彼女自身は全く恋愛には興味がなかった。異性に心ときめくという感情そのものを持ち得ていなかったのだ。友人たちが恋話をするなか冷めた瞳で友人たちを眺めていたのだが、その輪に入るわけでもなく、外れるわけでもなく、微妙な立ち位置を上手く立ち回っていた。
彼女の学校生活は少しばかりの波があったものの、平穏な日々を紡いでいた。
母親は離婚前の専業主婦同様に自宅にいた。母親は彼女の養育費と自身の親からの仕送りで働く必要がない程の収入を得ていたからだ。昨今のシングルマザーから見れば、羨む程の贅沢だろう。ただ離婚の疲れが出たのだろうか、家事は娘に任せきりにして、自身は自室でこもっていた。
要領の好い彼女はすぐに家事を覚え、今やパラサイトしている連中よりも手際の良く家事をこなしている。
彼女は学校帰りによくスーパーマーケットに立ち寄って食品や日用雑貨を購入していた。お金は母親からキャッシュカードを預かっており、必要な分だけ預金から下ろしていた。無駄使いしないのは彼女が母親から信頼されているというよりは彼女の性格によるものの方が大きく寄与していた。
ある水曜日の放課後、彼女は行きなれたスーパーマーケットに立ち寄り夕飯の買物をしていた。昨日で食料をほぼ使い切っており、冷蔵庫には卵が数個と数種の調味料あるだけだった。彼女は食料を無駄にするのが生理的に受け付けなかった。その為、必要最低限の食品を買い込むことが習慣化していた。その分、買い出しの回数は増えるのだが、食料を腐さらせる不愉快さに比べれば大した労力ではなかった。
6枚切りの食パンとスパゲッティの乾麺とカルボナーラのスープスパの素、トマトとレタス、玉ねぎ、ブロッコリーを買物かごに入れた。これを今日の夕食と明日の朝食に割り当てるのである。彼女にしてはかなり手の抜いた調理であった。毎日手の込んだ料理するには意外と疲れるものだし、時々手を抜くのは精神衛生にも良い。
夕食の準備を終えると、茹で上がったカルボナーラスパゲッティと軽く焼いた食パン、野菜サラダをトレイに載せ、母親の部屋に運んだ。
トン、トン、トンとノックをして部屋からの返事を聞くまでもなくドアを開ける。
「お母さん、夕ご飯、ここに置いておくね」
<ありがとう>
彼女はその言葉を聞いて、小さく頭を下げながら部屋を出た。
ダイニングに着くと彼女は自分の分の夕食を準備し、テーブルに三脚並べられたチェアのひとつに座り、小さな声で、
「頂きます」
と呟いた。その声は小さくともキッチンの隅々まで響いたのだった。
色恋沙汰に興味を示さなかった彼女であったが、そこはやはりお年頃と言うだけの事はあり、ある事件をきっかけに彼女の心は変わっていく。
彼女は数学が得意だった。それを声に出す事はなかったが、自分は誰よりも数学が出来るという自負があった。なのに一学期の期末テストで一問どうしても解けない問題があった。この問題は数学の教諭が「解けるものなら解いてみろ」と意地悪半分、腕試し半分で出題されたものだった。残念な事に、彼女はこの問題が解く事が出来ず時間切れとなった。彼女は自分が解けないのだから誰も解けないと思っていたが、意外な事にその問題を解いた生徒が一名だけだがいた。彼女より背が低く、まだ小学生でも通用するような可愛らしい少年だった。
他人から見れば些末な問題なのかもしれない。しかし彼女の自尊心は大きく傷ついた。彼女は自分が解けなかった問題を解いた少年の存在が許せなかった。しかもその少年は彼女よりテストの点数が低いのだ。ケアレスミスで点数を落とすという情けないことなどやっている。そんな間抜けに負けたという気持ちが抑えきれなかった。
ここ数日、彼女の視界にその少年が入り込むと無性に苛立った。それだけではない、やたら自分の視界に入ってくるのである。そのうち彼女はその少年が故意に自分の視界に入ってきていると疑う程だった。しかし少年は自然体そのもので、不自然さは全く感じ取れなかった。だからと言って不愉快であることには変わりはない。
少年を見る彼女の瞳は、明らかに憎悪の色が濃く浮かんでいたが、それも数日でその心持ちは変化していった。
不思議な事に、彼女自身その変化にまるで気が付かなかったのである。
「憎しみはその対象者に執着し、心をその人物で満たす行為である」この「憎しみ」を「愛情」に変えても文章は成立し、その状態を的確に表現しているのである。ただ心のベクトルの方向が違うだけで本質である心情のスカラーは等価であり、故に憎しみの感情は切っ掛けがあれば容易に愛情に転化しやすくなる。当然の事になるが、対になる愛情から憎しみへの転化も容易である。「可愛さ余って憎さ百倍」という諺があるが、まさにこの事例となる。
彼女はいま純粋に少年に興味を持っていた。だが、それが淡い恋の感情だとは認める事が出来なかった。彼女には少年に負けたという事実から離れる事が出来ずにいた為である。それでも時間ともにその憎しみ染まった感情も無自覚に薄れていった。
心は自分の意志とは関係なく移ろい易いものである。そして心の変化は自分自身が一番気が付かないものかもしれない。彼女が日記でもつけていたなら、自分の心の流れや変化に気付く機会を持てたかもしれない。
そんなある日、少年は彼女がじっと自分の事を見ているのに気付いた。
「何か、用かな?」
少し困ったように問い掛ける少年に、
「別に……」
彼女はそう答えたが、胸の高鳴りを自覚した。それが気に入らなかった彼女はくるりと顔を背け、口をツンとさせた。その頬が朱に染まったことは言うまでもない。
胸をドキドキさせたまま帰宅した彼女は、そのまま駆けるように自室に飛込み、ネコパンチで枕を数発殴った。けれども少しも気が晴れず、益々イライラがつのる。
「もうっ」
枕を持ち上げ顔を埋めた。
その時、彼女のスマホが鳴った。コール音からすると、どうやら電話のようだ。怪訝な顔をしながら彼女が電話に出る。
「もしもし」
「私だ」
「お父さん!?」
「ああ、元気にしていたか?」
「うん、お父さんは?」
「ああ、元気だ。今度の日曜日、母さんに内緒で会えないか? たまには娘の顔を見たい」
嬉しそうに語った父親の言葉が気紛れであることを彼女はあっさり見抜いていた。
「お母さんに内緒で?」
父親は通話しているのにも関わらず声を潜めた。
「そうだ、内緒でだ」
「今度の日曜日、お母さんは仕事で深夜までいないよ」
「そうか、なら問題ないな。なら、どこかで待ち合わせしよう」
安心したような声が彼女の耳に響いた。
「家に来たらいいじゃない。お母さんは居ないし、ここはお父さんの家でもあるのでしょう?」
「いいのか?」
「うん、来て」
「じゃ、日曜日の午後二時に行く。絶対、母さんには内緒だぞ」
「解ってるって、じゃあ日曜日の午後二時ね、それじゃあ切るね」
「あぁ」
スマホのアプリを落とした。
それから彼女はキッチンで夕食の準備を整え、母親の許に食事を持っていった。クリームシチューとガーリックパン、温野菜がトレイに載っている。
コンコン。
「入るわよ」
暗い部屋に足を踏み入れる。
「お母さん、ここに夕ご飯を置いておくわね」
<何か、好い事でもあったの?>
「どうして?」
<声が弾んでいるわ>
「気のせいよ」
<そう?>
「そうよ」
彼女は部屋の扉をバタンと閉めた。複雑な表情をしながら下唇を噛んだ。何となく、その時、彼女は「家に来るのが父親でなく少年だったらなぁ」と、ふと考えてしまったのだ。やはりそれが気に食わない上にむしゃくしゃする。こんな時はお風呂にでも入ってさっぱりしようと思い、お風呂に湯を張る為に洗面所兼お風呂場へ足を向けたのだった。
さぶんとお湯に浸かると、彼女は不快な気分が身体から流れ出していく感覚を覚えた。
「お風呂はいいな」
揺れる水面を見ながら独り言ちてみる。その言葉が反響しエコーが掛かったようになる。すると不思議な事に少年の声が頭に響き、彼の顔が水面に浮かび上がる。「こんなところまで」一人リラックス出来るこの場所まであの少年が現れた事に対して、思わず怒りの熱情が沸点に達した。少年を思い浮かべた水面を思い切り叩いた。
ばしゃんと豪快な音と共に、跳ね返った水しぶきが彼女の顔に盛大に覆った。自業自得である。
「もうっ」
彼女は怒声を上げたが、反響した自分の声までが自分の行為をまるで小馬鹿にしているように聞こえた。言いようがない怒りをぶつけるように、
「最悪」
と再び怒声をあげた。
翌朝、教室に向かう廊下で彼女は少年に会った。彼女は思わず顔を伏せた。そんな彼女の思いとは裏腹に、少年は彼女の姿を認め、小さな声で、
「おはよう」
と挨拶をした。
当然、彼女は少年の言葉を無視して、スタスタと彼を置いて歩いてしまった。しかしその胸の内は、いつもの如く心臓がバクバクと激しく鼓動を打っていた。
一方、残された少年は「何か、気に障ることをしたのかなぁ」と反省する事しきりだった。