第56回 戦後80年の夏に、広島、長崎の原爆は必要だったのか?について、誤解を恐れずに自分の考えを書いてみた。
まえがきは割愛させていただきます。
●’25/8/13(水)
ご存じの通り、今年で戦後80年。つまり、広島、長崎に原爆が投下されて80年となった。
実は、私の出身は香川県であり、四国の小学校が行く修学旅行は広島が一般的であり、私も例に漏れることなく、その修学旅行で原爆ドームや原爆資料館に行くこととなった。
そして、中学時代。
私の通っていた中学では修学旅行は元々京都に行くのが常であったが、先生が飽きたらしく(という噂であった)、行き先が私の学年だけ九州となり、その時に長崎の原爆資料館に行った。
皮膚が焼けただれた人の写真、階段に残った黒い染み、曲がった瓶、皮膚が剥がれ全身出血して歩く人(蝋人形)。
今でも記憶に残っている。
広島に行った時、私はまだ小学生だったこともあり、大変失礼な話かもしれないが、あまりの非現実さに何かお化けを見ているような感情を抱いたのを覚えている。
1945年、戦場が沖縄にまで達し、まさに本土決戦に突入しようとしていた。
”一億玉砕”というスローガンの通り、あの時、日本は最後の一人までという決意のものに戦っており、完全に常軌を逸していたと思う。
そして、あの爆弾が投下された。
広島では20万人以上が、長崎では7万人以上が死傷し、さらにもっと多くの人がその後亡くなり、被爆による後遺症で今なお苦しんでおられる方もいる。
被爆者の方の体験談を今年もテレビのドキュメンタリーを通じて聞いた。
被爆者の方の中には体験談を話すと過去を思い出し、耐えられないほど気持ちが沈んでしまうということで、話すことを辞めてしまった方もいるとのこと。
話すことを躊躇うほどの経験。それがどれほどのものか計り知れない。
そして、実際に話をされる内容は本当にこの世で起きたこととは思えないほど残酷で、無力感を感じるものであった。
私が聞いた話を記憶しているだけ書き記したいと思う。
教室の中にいた10歳の男の子。
爆発した瞬間、黄色い光に包まれ、周囲が真っ白になった。
咄嗟に、教えられていた通り、目と耳を手で塞ぐ。
そのすぐ後、全身の皮膚が焼かれるような熱を感じ、次の瞬間、壁が崩れ、男の子は吹き飛ばされ、校舎の瓦礫の下敷きとなった。
ただ、校舎の瓦礫のおかげで死ぬことはなかった。
何かをどけようと手を持ち上げようとしたが、持ち上がらなかった。
見ると身体中にガラスの破片が突き刺さり、血だらけになっていた。
何とか外に出ると、そこは全てが破壊され、人がゴロゴロと転がっている。動かない。
そこで、被爆者の方の言葉が止まる。
あまりの衝撃で今でも心を締め付けるのだろう。
その後も顔や身体の左半分に残ったケロイドや後遺症に苦しんだが、何とか生き抜いた。
そして、子供ができ、子供が10歳くらいになった時、子供が父親に問いかける。
「お父ちゃんの顔はなんでそんななん?」
自分の子供は周囲の子に差別的なことを言われたのかもしれないと言っていた。
私はその後の被爆者の子供に返した言葉に絶句した。
「子供の頃に悪いことして罰をもらったんだ。」
この人には全く罪はないのに、なぜこんな風に返したのか。
もしかすると生きていることに罪を感じているのではないかと。
他の女性の話。
爆発直後、全てがなぎ倒され、自分も倒れ、気がつくと大やけどの状態で病院にいた。
家族は妹以外全員死んでおり、生き残った妹も被爆の症状に苦しみ、加えてケロイドによる差別に気を病み、半年後自殺した。
この方は被爆体験をずっと何1000回も話しているとのこと。
また、そのドキュメントでは、最近被爆者の方が一人また一人と亡くなり、話が出来る方がいなくなりつつあるとのこと。
そこで、体験談を聞いた学生が語り継ぐことをしているとの話であった。
しかし、テレビからであっても感じる、圧倒的な差。
実際の被爆者の方の体験談には何か息が詰まるような闇を感じるが、学生のそれからはあまり感じなかった。
語り継ごうとする学生の方も素晴らしい活動だと思う。
でも思わず、感じてしまった。こうやって風化していくのだろうなと。
よく耳にする話だが、日本は一億玉砕の覚悟であったため、あのまま戦争を続けていたら、原爆で亡くなる人よりももっと多くの人がなくなっていたはず。
だから原爆は仕方なかった。
という理屈。
頭では理解できる。確かにその通りなのだろう。
でも、私の中の思いはそうではないと言っている。
例えば都市の横の山に落とし、その威力を見せつけ、降伏させるように促す。
こうしても良かったのではないか?
そして、”仕方なかった”に対して反論を考える自分もいる。
広島にはウラン型爆弾を、長崎にはプルトニウム型を落としていることを見ると、明らかに新型爆弾の威力を試したかったとしか見えないではないかと。
ただ、よく聞く話として、グアム、サイパンでの地上戦で、日本兵が住民に成り済まし、降伏をするように見せかけて、突然アメリカ兵を銃撃することがあった。
それ以降の戦闘では住民が出てきてもアメリカ兵は撃つしかなくなったとのこと。
そういうこともあり、日本人は狂っていると思われていたらしい。
確かに日本では当時”鬼畜米英”というスローガンを掲げていたこともあり、そう映るのも無理はなかったのだろう。
その恨みはうまくプロパガンダにも使われ、当時のアメリカ人の心に染み付いたのだろう。
イスラエルの一部の人々がガザの人々を人間と思っていないように、当時のアメリカ人にも日本人を人間と思ってない人がいたのだろう。逆もまた然りではあっただろうが。
だから、あの爆弾を都市に落とせたのかもしれない。
恐ろしい話ではあるが、それすらも何となく頭では理解できてしまう。
だが、あの被爆者の話を聞くと、とてもじゃないが、それは容認できるものではない。
あれは間違いなく無差別大量殺戮であった。
そんなことがあって良いはずがない。
そう言うと、反対側の人にこう言われるのだろう。
ふざけているつもりはないが、それはユニコーンガンダムのある台詞に近いもの。
「見ろ。お前は戦争を終わらせたいだけだと言いながら、連邦の立場に立って考えている。」
これは日本人だからこその考えなのか。
そして、別の視点として、こんなことを書くと批判が届くかもしれないが、誤解を恐れずに書くならば、もし広島、長崎がなかったなら、キューバ危機の時に世界は滅んでいたのかもしれない。
皮肉にも、今現在、核抑止が成り立っているのは、あの2発があったからこそだと思う。
だから、必要だったとは絶対に口が裂けても言えないが。
そして、もう1つ。日本人が反核を唱えなくなった時、その時が再びあの爆弾が使われる時な気もする。
人から争いの火種がなくなる日が先か、世界を滅ぼすキノコ雲が立ちのぼるのが先か。
最近、後者の日がどんどん近づいてきているような気がしてならない。
戦後80年だからではなく、戦争が終わった夏くらい、世界はなぜ争うのかを真剣に考えても良いのかもしれない。
はっきりとした結論はないが、これが皆さんの戦争についての思考に少しでも繋がったのであれば、書いた意味があったのだろうと思う。
あとがきは割愛させていただきます。
読んでいただき、誠にありがとうございました。