第28回 最近、少し話題の”Inequality、Equality、Equity、Justice”について語ってみた。
まえがきは割愛させていただきます。
本編が短いので、そちらでお楽しみください。
●’24/1/14(日)
最近、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の著書「これからの『正義』の話をしよう」という内容が(再び?)取り上げられているのを見る。
こういった絵を見たことはないだろうか?
リンゴの木が描かれていて、少し左に木が傾いている。リンゴは木の左側にばかり実っていて、両側の下に子供が描かれている。左側の子供にはリンゴが落ちてきているが、右側の子供にはリンゴが落ちて来ていない。そして、そこに”Inequality”(不平等)と書かれている絵である。
また、もう一枚の絵はこうである。
同じように左に傾き、左側ばかりに実がなっているリンゴの木があり、左側の子供はリンゴの実に届くように梯子がかかっている。その梯子に登った子供がリンゴを取っている。右側にも同じ高さの梯子がかかっているが、木が左側に傾いているため、右側はリンゴの位置が少し高くなっている。故に右側の子供はその梯子に登ってもリンゴに届かない。そもそも右側にはリンゴがほとんどないため、リンゴを得られない。
その絵には、”Equality”(平等)と書かれている。
もう一枚は同じ左側に傾き、左側ばかりに実がなっているリンゴの木に対して、左側の子供はリンゴの実に届くように梯子がかかっていて、右側の子供には左側の子供よりも高い梯子がかかっている。右側の子供もリンゴに届いている。だが、そもそも右側にリンゴがあまりないので、どちらが多く得られるかは明白である。
その絵には、”Equity”(公平)と書かれている。
そして、最後の一枚。リンゴの木が添え木でまっすぐに立てられ、両側に同じようにリンゴが実っている。その木に両側の子供が同じ高さの梯子でリンゴを掴んでいる。
その絵には、”Justice”(正義)と書かれている。
この4つの単語にはこのように補足が書かれている。
”Inequality”=同じ機会が与えられていないこと。
”Equality”=配られたツール、支援が平等であること。
”Equity”=不平等を特定し、対処するためのカスタムツールが与えられていること。
”Justice”=ツール、機会の両方に平等にアクセス可能であること。
マイケル・サンデル教授が”Justice”と言う言葉を使ったのは、”公正”という意味を持ちつつ、”正義”ということも訴えかけたかったのだろうということは容易に想像が付く。
そして、まさに今現在の社会が二極化されてきていて、持つ者と持たざる者の差が極端になり、乗り越えられない障壁となっているように感じる。
今やアメリカ、中国、韓国などは富裕層が子供の教育費にお金をかけ、受験などの対策にコーディネーターを付ける時代になってきている。私のヒヤリングした結果が正しければ、冗談抜きで、学校とは別に塾など追加で教育にかけるお金は、月平均で50万円を裕に越えるようだ。
私は、アメリカにはそういうイメージがなかったが、カリフォルニアやニューヨークなど都会では今やそういう時代だそうだ。
コーディネーターは、入りたい学校の入試出題傾向を調べ上げ、出題されるだろう問題を解かせる。論文であれば、その大学の合格者の論文内容の傾向も調査し、書き方を事細かに指示してくれるらしい。
コーディネーターを付けると付けないとでは当然合格率に大きな差が生まれるのだそうだ。
日本ももうじきそうなるのだろう。
もう強烈な”Inequality”時代。
日本語で言うなら”親ガチャ”時代である。
英語で言うなら”You born with a silver spoon in your mouth”(お前は銀のスプーンをくわえて生まれたんだ)である。
大人の世界でこの障壁を越えられないはある程度仕方がないのだが、子供の段階でそれはちょっと可哀想だと感じる。親にそこまでの経済力がない=自分の力以外の部分で、すでに大きい壁があると感じると、やる気を失わせる原因にもなりうる。現に今や日本でも”親ガチャ”と言って、諦める人が多いと聞く。
だが、私は思うのである。
社会のために、本当にこれで良いのだろうか?
ボンボンが偉くなって、変わらない階層を繰り返す。これで良いのか?
(最近、お金持ちのお子のことをボンボンなんて言わないのかもしれないが。(笑))
もちろん自分が富裕層であれば、我が子を守るために、私も子供にお金をかけたくなる気持ちになるのだろう。
しかし、私は出自が貧困層寄りなので、いやはっきり言おう、貧困層だった。なので、親に無理を言って中学の時に1年間くらい公文に通っただけで、それ以外の塾には通っていない。田舎だったので、ほとんど塾がなかったというのもあるが、そんな状況で育った。なので、実は塾にお金をかける気持ちが理解できない。もちろん、ひがみもかなり入ってて、そんな逆転劇が起きない世界はマズイだろうと思っている。(笑)
しかも、ひがみもあってか、ボンボンのイメージは教えてもらったことだけ、はみ出さずにやるというイメージ、また変なドラマのせいで悪いことをしても親に隠してもらうとかのイメージすらある。そんなやつらが社会を作って良くなるはずがない!
もう完全にひがみ以外の何者でもない。(笑)
だが、本当に思っているのは、もっと素晴らしい功績を残せる人が貧困層にもいて、ちゃんと教育受けなかったから、世に出てないだけで、ちゃんと教えてあげたら、とんでもないシンギュラリティを産み出す逸材がいるのではと思う。
前にも書いたかもしれないが、私は、人類は一刻も早くこの星の外で安定して生きられる技術力を、長寿を、身に付けるべきと思っているので、そう思ったりもする。
で、この”Inequality”時代を是正する方法を考えてみた。
いろいろ考えたが、もうこれは教育方法を変えるしかないのだろう。
赤ちゃんが生まれて、3才くらいまでは親元で育て、その間の英才教育は禁止。その後、すぐに寄宿舎に入れて、みんな同じ英才教育を受ける。算数、国語、外国語、運動、美術、音楽などなど。そこで才能を見つけ、本人の意向も汲み取りながら教育を進める。
もちろん、これを行うのは国。
こう書くと、とんでもなく国に都合の良い教育がされるのではと思われるかもしれない。だが、そこは民主主義の力で何とか抑える必要があるのかなと思っている。教育方針などが選挙公約に上がり、それを公正に国民がジャッジする必要が出てくる。選挙に行く必要が出てくる。
だが、どこかの国のように民主主義と言いつつ、権威主義に片寄っていると、それはとんでもなく国に都合の良い人ができあがってしまうのだろう。
皆さんはどう思われるだろうか。
そんなことしたら、カフカのような世界になってしまわないのか?とか、こうすれば”Inequality”時代を是正できるのでは?など、もしご意見があれば教えていただきたい。
何かむちゃくちゃ書いているが、まあ”かってきままに”書いてるなと思っていただけると幸いです。
あと、最近、ここに書いているような内容を元に、詩を書いている。それも近日公開しようかなと思っているので、もし興味ある方は公開したら見てみていただけると嬉しいです。
あとがきは割愛させていただきます。
本編が短いので、そちらでお楽しみください。