『伍ノ柱 ✿ 刻隔域 de 邂逅』
「私は… 一体…… 」
緋子が気付くと、先程よりもしっかりと自身を感じられる実体感のある身体。
しかしながら、その身は未だ宙を浮いており、やはり面妖な世界からは逃れられていないようだ。
周囲の様子も、先程まで飛び回っていた室内ではありそうなものの、そこにいる家族たちは皆ぴたりと動きを止め固まっており、また全体の色彩も灰茶白黒に置き換わってしまっていて、凡そ生気というものがが感じられない。
そして更に気付くと、自分の両掌がそれぞれ何かを掴んでいる感触を、身体全体に拡がった意識が 多少曖昧ながらも知覚する。
「私が掴んでいるのは… 手?」
緋子がぼんやりとそこまで認知すると同時、己が手の先にある… いや、居る者たちの姿が、やや朧気ではあるものの 徐々に視覚として捉えられてくる。
どうやら右手の先に見えるのは、普段見慣れた大きな黒猫の姿。
その、真ん丸目で にゃあとした表情の黒揚羽は此方を向き… 何故だか自分と手を繋いだ状態で宙に浮かんでいる。
そして左手側には、同じく自分と手を繋ぐ銀髪紅眼の少女の姿。
「えーっと… これはどういう…… 」
緋子は未だ思考が纏まらず、全てが疑問符に満ち満ちた状態ではあるものの ――
しかしどういう訳か、先程まで苛まれていた異様な程の焦燥感や昂ぶりだけは、まるで嘘のように弛緩・沈静化していた。
それ故か、右掌に握る黒揚羽の爪や肉球、そしてそれらを包み覆う細い猫毛の感触までをも鋭敏に感じ取り、更には指先で それらをころころと弄り確かめてみる余裕すらもあった。
また左掌に握る少女の、まるで磁器のように冷たく滑らかで、そして華奢な手肌の感触や、そこからすっと伸びる指先の長く尖った爪の硬さまでをも、冷静に知覚することが出来る。
三人… いや、この二人と一匹は、ふぅわりと宙に浮いた状態で仲良く手を繋ぎ、どうやら時計回りにゆっくりと回転しているようであった。
「えーっと、あの… これって一体、何なのでしょう…? そして貴女はどなた?」
緋子は、まずは左側に居る少女に声を掛けてみる。
それはそうだ。
よく解らない状況を尋ねる相手として、眼や髪の色が相当に変わってはいるものの、取り敢えず人間であるらしい見知らぬ少女には訊きたいことが幾らでも出てきそうであるし ――
また逆に、それを差し置いて馴染みの猫に声を掛けるというのも、余程の人見知りか変わり者の所業であろう。
そして、その問いに対し返ってきた返答は ――
「ぼくは… ねこですけどにゃ?」
「いや、まさかの右側からお返事が!? 今、あ・な・た・が 喋るんですの!?」
ただでさえ異様不可解なこの状況下、更に自分の飼い猫が喋り始めたことにより、既に拗れに拗れまくっている混迷が尚のこと、深みに嵌まっていくばかりの緋子なのである。
だがしかし ――
「驚かせてすまぬ ―― 」
… と、始めに期待した左方向からの返答が返ってきたことで、これまで全てにおいて自らの予想や思惑を悉く裏切られ続けてきた緋子は、何故か必要以上に大きく安堵していた。
しかしだ ――
一応は人の言葉が通じると思われた彼女の答えは、緋子に更なる疑問を呈してくる。
「 ―― 其方とは此れが漸くの『初めまして』じゃのぅ。 我れはパドマ・バティ・ヴリコラカスと申す者。 所謂… 吸血魔族じゃ」
真白な肌と長く美しい銀髪、そして燃えるような真紅の瞳を持つ少女は、このような不可思議極まりない状況と空間の中、些かの臆する素振りもない、むしろ自信に満ちた訳知り顔で挨拶を交わしてきた。
それに対して緋子は ――
「えーっと… はい?」
… と、何とかそう応えはしたものの、違和感があり過ぎて頭の中で またもや整理がつかない。
そしてつい先程、どうやら『喋る』らしい新仕様を披露した猫の黒揚羽も、緋子と同じ疑問を抱いている…… のかどうかは不明ながら、その金色の丸い目を更に大きく開け、小首をくっと傾げて少女を見ているようだ。
しかしながら、向こうから挨拶と自己紹介をしてきているのであるから、それを無碍にする訳にもいかない。
礼に悖るは皇国華族として、また淑女としての恥辱ではないか。
「あ… これは大変失礼を致しました。 ご機嫌よう… 私は蓮御門 緋子と… 申し… ます……。 ぁ… と……… え? あら?」
緋子は努めて落ち着き払った表情と声音となるよう意識し、お辞儀の際には所作にも美麗さを損なわぬよう心掛けたのであるが ――
如何せん、洋装であれば両手で軽く持ち上げるべきスカートの裾もなく、また和装であれば皺や撚れを払うべき上前や袴の布地もない。
「 …… って、私…… やっぱりまだ裸のまま!!?」
幼い頃より… まぁ、あんな珍妙な両親たちからであるとはいえ、一応は名門の公卿華族令嬢として 一通りの礼儀作法をその身に叩き込まれてきてはいるのであるが ――
しかしさすがに、初対面の相手に対して一糸纏わぬ裸の状態で、一体どのように礼を尽くせば良いと言うのか。
そのような事、緋子には… いやこの場合 誰にだって皆目見当がつかないのである。
しかしながら恐らく、『それに気付いて素っ頓狂な声を上げる』などという失態は、これまで緋子に礼儀作法を教えてくれた幾人かの教師や先達たちも、大いに顔を顰めるところであろう… いや、もう既に遅いが。
ここはもう全ての事々に一度目を瞑り、何事も『我れ関せず』の眼目にて、挨拶続行の一択である。
緋子はそう決めたのだ。
「えー… こほん、これは大変失礼を。 私は蓮御門子爵家の長女で緋子と申しま… 」
すると横合いから、無慈悲かつ無邪気な声で ――
「ねぇ ひいさまぁ… はだかでよくへいぜんとごあいさつ つづけられましたのにゃあ」
… と、事も有ろうに飼い猫から、すかさず的確な突っ込みを受ける。
「ぐ… 黒揚羽さん…… そんな無垢な瞳で、私を見ないでちょうだい…… 」
苦渋・赤面・汗顔・悶絶の緋子。
しかしそれを見て銀髪紅眼の少女は ――
「く、くく… ああ、いや…。 外の連中といい、其方ら一族の者らは、やはり面白いわ。 それに『ひいさま』か… ふむ、それも縁かのぅ… 」
… と、どういう訳か如何にも感慨深げである。
「はぁ…… もう形振り構ってなどいられませんわ。 多少 不躾ではありますが… ねぇ貴女、これは一体どういう状況であるのか… もしもご存じなのでしたら、私にも教えてくださいませんこと?」
緋子はもう半ば観念し、そう単刀直入に訊いた。
困惑し、悩み、足掻き、振り回され… そして挙句に独りで空回るのは、もう御免である。
「ふむ… 其方が諸々の状況を疾く把握したいという気持ちは佳う解るがのぅ… じゃが今は何ぶん刻がない。 まずは我れを信じて身を委ね、取り敢えず此処から抜け出そうではないか。 向こうに戻ったら、その時にはゆるりと丁寧に話してやろう程に」
そう言うと少女は、緋子と黒揚羽の顔を、上目遣い気味の悪戯っぽい表情で交互に覗き込む。
初めて出会った面妖な出で立ち少女に、しかも斯様な状況下で いきなり『信じろ』などと言われても、本来であればとても応じられる話ではないのだが ――
しかしながら、どうやら他の選択肢は一切なさそうなのであった。
それにこの少女とは何故か、深い繋がり… 奇縁? いや、何と言うかこう、もっと近しい感じで別の… そう、強い『結び付き』のようなものが、この時の緋子には確かに感じられたのである。
そんなあやふやな、謂わば直感だけの希薄に過ぎる根拠ではあったが、緋子は意を決して この身を任せてみることにした。
「はぁ…… 解りましたわ。 それでは取り敢えず、貴女を信じてみることと致しま… 」
「わかりましたのにゃー おねがいしますのにゃー♪」
「おぉ、そうかそうか。 お主はなかなかに賢くて素直じゃのぅ… それに豪胆じゃ。 佳いぞ好いぞ、戻ったら大いに愛でてやろう。 慶し、では行くか!」
「はいにゃー♪」
「な!? え…… いや、ちょ… 待っ……!!?」
… と、意思表明の台詞さえも猫に持って行かれた緋子が、覚悟を決められるような暇もなく ――
少女は ぱっと両手を彼らから離すと、その掌を それぞれの眼前にふぅわりと翳す。
するとその刹那… 目の前に現れたのは、ゆっくりと回転し白翠色に光輝く、直径二尺程の魔法陣。
そこには何やら呪らしき文言が数多刻まれていたのであるが ――
それは、陰陽頭家に生まれて多少はこの方面に明るい緋子でも、全く見たことのない文字・文様・形状・そして輝きのものであった。
それが彼らの眼前にどんどんと近付いていき… そしてその頭上で角度を水平に変え、そのまま彼らの身体を頭の先から足先に向かって舐めるように降り始める。
その様子を外から窺い見ると、丸い輝きが彼らの身体を通り過ぎたところから随時 消え去っていくように見えていたのであるが、緋子や黒揚羽たち自身には、それはよく分からない。
そして、彼らが二つの魔方陣に呑み込まれ終えたところで 少女はそれらを消し去ると、右手を上げて ぱちりと指を鳴らした。
すると彼女の姿も消え… また同時に、これまで灰茶白黒だった室内には、色彩と共に生気なども戻ったようである。
そしてここからまた、止まっていた刻が再び進み始める。