『參ノ柱 ✿ 無理筋 de 狼狽』
「えと、母さまぁ? 取り敢えずさ… 言われたとおりに黒揚羽のやつを連れてきたんだけど… 」
「う゛にあゃーーーぁ」
普段とは随分と掛け離れた機敏な言動を見せている煕子に若干 狼狽え気味の丹子が、離れから猫の黒揚羽を抱き抱えて戻って来る。
黒揚羽は、この春で2歳になる雑種の黒猫なのであるが、サイベリアンの血でも入っているのか毛足がやや長く、また顎や胸のあたりに銀毛が混じった体色をしていた。
これから自分の身に何が起こるのかなど知る由もない黒揚羽は、丹子に抱えられたまま呑気に辺りを見回している。
「ありがとう丹ちゃん。 それじゃあ、黒ちゃんをそこの寝座に寝かせてちょうだい♪」
煕子はそう言うと、その周囲に置かれている式盤等の道具類を整えたり、また もう一対の寝座の上で半身を起こしている、緋子の姿をしたパドマと細かな段取りの確認を行なったりするなど、普段とは全く印象の違う てきぱきとした動きで、着々と儀式の準備を整えつつあった。
但し、少しは落ち着きも取り戻しつつあるようで、口調は先刻よりも幾分元に戻ってきており柔らかい。
そしてその間… 今宵の儀式一連の本来の主催であり、この家の当主でもある 陰陽頭・蓮御門 晴親はというと ――
こちらはもう、すっかり蚊帳の外である。
煕子を中心に、丹子や使用人たちの手によって見る間に整えられていくこの場の様子を、ただただ呆然と見守るばかりであった。
「なぁ、煕子ぉ…。 儂は一体、その… 何をすればええのんやろか…?」
何とも居たたまれず、晴親がそう遠慮がちに問い掛けてみると… 煕子は普段と変わらぬ口調でそれに応え、先程作成を依頼した『形代』の出来などを確認した後、更にまた幾つかの指示を出してくれた。
そして ――
「で、あとはぁ…… そぉそ! 晴親さんにはねぇ、あたくしが執り行う儀式とはまた別に、大事な術を同時に施してほしいのぉ。 まずはそれを説明しておかなくっちゃねぇ♪」
そう言うと煕子は、晴親をはじめとした他の皆も集め、これから行う儀式全体の段取りを説明し始める。
曰く、『現魂移体之儀 … 並行貳式 次第』――
其ノ壱 … 緋子の身体から、緋子自身の魂を開放
其ノ貳 … 同時に黒揚羽の身体から、黒揚羽の魂を開放
其ノ參 … 黒揚羽の身体を依り代とし、緋子の魂を入魂
其ノ肆 … 晴親が作る形代に、黒揚羽の魂を入魂
この次第中の『壱と參』は煕子が、そして『貳と肆』は晴親が、それぞれ執り行うこととなる。
しかしながら恐らく、その難易度は相当に高く困難で… これだけの混んだ行程を踏み、かつ 並行して行われる典儀には、ほんの寸刻のずれも許されない。
古今、これ程までに煩労極まりない儀式は、古の神道にも陰陽道にも、史上例がないであろう。
これらの内容を聞いた一同… 特に晴親と丹子は、より一層 緊張の色を濃くし戦慄するが ――
しかしやらねば、長女である緋子の魂魄は自身の身体の中で、強大なパドマの魂圧によって押し潰されるか、もしくは体外に押し出されて そのまま終いとなってしまう筈である。
そしてまた、もうそれまでに幾何の猶予もない。
「まぁ… やるしかねぇんだよなぁ……。 ん~… よし! んで、姉貴が助かる見込みはどれくらいなんだ?」
何とか腹を据えた様子の丹子が、そう煕子に向かって問う。
「それがねぇ… 正直、やってみなくちゃ判らないの…。 だってねぇ? まず言えることはぁ… これ程の儀式、本来であれば あたくしたちの持つ呪法や力なんかでは、絶対に不可能なものなのよぉ… 」
… と、煕子の口からは、開口一番で絶望的な状況が語られる。
「ほなら煕子ぉ… そんなん、一体どないするつもりなんや…?」
晴親は、これから執り行われる儀式の内容そのものについては何とか理解出来ているものの、それを成し遂げるための絵面が全く見えてこず ――
しかも、この一連の次第の半分を己自身で遣り遂げねばならないということに とにかく不安を募らせ、今にも押し潰されそうな顔をしている。
「あらあら晴親さん… そんな顔をしなぁいの♪ 大丈夫よぉ… 不安なのはぁ、あたくしたちだって同(お~んな)じなんだから… ね?」
… と、煕子は夫である晴親に対し、努めて明るく… と言うより、まるで子供でもあやす時のような優しい笑顔を作りながら、出来得る限りの励ましと鼓舞の声を掛ける。
そう… 何としても、晴親にはここで折れ 挫けてもらっては困るのだ。
その意味で、煕子が今見せている微笑みは多分に作為的であり、かつ非情である。
「晴親さんもみんなも、よぉく聞いて? これからあたくしたちが行おうとしている儀式に、本来 最も足りていない要素… それはね、『魔素の量』なの。 でもそこはほらぁ、今はその方面でまさに規格外のパドマさんがいるからぁ… たぶん大丈夫♪ ですからパドマさん… どうかご協力、お願い致します… 」
煕子はそう言うと、その ふぅわりとした話し口調とは裏腹に真剣な眼差しで、緋子の姿をしたパドマの顔を じっと見遣り… そして深々と頭を下げた。
それに対してパドマも ――
「ああ、承知した。 我れに出来ることがあれば、鋭意助力させてもらうとしよう」
… と、煕子の思いを聢と汲んで請け合う。
その言を得た煕子は 大いに安心した様子で頷くと、更に顔をパドマに近付け ――
「ねぇ、緋ちゃ~ん、聞こえてるぅ? これからぁ… あなたを助け出して、なぁんと黒揚羽ちゃんの身体に移ってもらいますからねぇ~、頑張ってぇ♪」
… と、パドマのその翡翠色に輝く右眼に向かって ――
ひいては、その奥から事の次第を眺めているであろう緋子に向かって、半ば『形だけ』の声掛けをする。
「 …? 煕子殿、先程も言うたがのぅ…。 中に居る緋子殿に、この光景までは見えておろうが… 恐らく話の方は全く聴こえておらんと思うぞ?」
そうパドマが念を押すが、煕子の方は事も無げに返す。
「ええ、いいのいいの。 一応は本人にちゃ~んと声を掛けておかないとぉ… あとで言い訳が立たないでしょぉ? それだ~け♪」
「あっははは! いゃいや母さま、『それだ~け♪』って。 姉貴のやつ、出てきたらすんげぇー怒るぞぉ? だって、よりにもよって猫に… ぶふぅ!」
… と、どうやらこの二人は もうすっかり腹を括った様子で、その喋り口調や行動にも 少しく余裕が出てきている。
パドマはそんな彼らを見て ――
「ふふ… 人間族どもと言うても、なかなかどうして大したものじゃ」
などと独り言ち、そして思わず苦笑する。
「うむ、分かった。 では、緋子殿の魂魄を無事 この身体より一度開放し、その猫… 黒揚羽とやらの中に入魂り出すところまでは、我れの力で必ずや何とかすると約束しよう。 あとはじゃ… 晴親殿よ、その際には黒揚羽の魂が確と抜けた状態になっておるよう、宜しく頼むぞ」
パドマはそのように助力を請け合うと、部屋の隅で急ぎ形代の用意をしている晴親に向かって声を掛けた。
それを受けて漸く晴親も ――
「やれやれ… 此処に居る女子衆方の性根は、一体どないになっとるのや…。 はぁ~あ… しゃあないのぅ! こんなん、儂の力量でどうにか出来る気ぃが全くせんのやが… ま、気張るしかないわ!」
… と、何とか吹っ切れた様子を見せる。
そうして時は満ち、先程まで儀式の設えを手伝わされていた使用人たちが室外へと下げられ、いよいよ この稀代の儀式が開始されたのであった。
◇
まずは煕子が、実家である吉幡多家に伝わる呪法を基にして組んだ祝詞を唱え始めると同時、パドマが緋子の身体の右手を一度目線の高さにまで すぅっと上げ ――
そのまま、その手の甲を白翠色に輝く右眼の前に翳すと その刹那… 鮮やかな翡翠色の閃光が、まるで勢いよく湧き上がる泉のように、四方へと攪乱れ迸った。
そして ――
「皆、良いか! 緋子殿の魂魄が、この右の眼より躰外へと出るぞ!」