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意地が悪く、わがまま。頭がよく、自分が不利にならないような立ち回りと数多くの嫌がらせ。周りにいる令嬢や令息は泣かされ、辞めさせられた使用人は数える方が難しい。
それが、トレイシー・マグリダという人物だ。
現に、私の周りにいる使用人も川を流れる水のように、すぐにお嬢様の側を去ってしまっていた。トレイシー様専属の侍女をまとめる侍女長とそれからよっぽどお金がなく困っている人くらいしか、長く勤めている人はいない。
どんな主人でも、公爵家は公爵家だ。
そこらへんの家のお給金とは桁が違う。
裏を返せば、そうまでしないとトレイシー様のお世話をする人を繋ぎ止めておくことが出来ないのだ。いや、どんな人物だよ。と、まあ、思わずツッコミを入れたくなるが、それが世間様の認識だ。
だからこそ、今の少しシュンとしたお嬢様の姿は、かなり珍しい。ましてや、小さく使用人にお礼を言うなんて、本当にありえないことだった。
そして、そのあり得ない出来事の発生に立ち会うのが、原作の中でも重要な人物、セリウス様だった。
お嬢様が腰を下ろした机の対角に座り、本日のランチである魚のムニエルを上品に口に運んでいる。紺色の柔らかそうな髪に、人懐っこそうなタレ目。原作のキャラデザインで見た姿そのままだ。
お嬢様のしおらしい姿に驚いているらしく、しばらく動きが止まっている。シュンとしたお嬢様を目撃するなんて、タイミングのいい人だ。まあ、ここに席を用意したのは私なんだけど。
それもこれも、全ては、原作___'悪役令嬢物語 バッドエンドを回避します'の話の通りにことを進めるためだ。
__いわゆる、前世の記憶とやらを私が取り戻したのは、お嬢様がまさしく'前世の記憶'を取り戻すために倒れた時のことだった。
原作'悪役令嬢物語'で、トレイシー様が前世の記憶を取り戻すシーンにたまたま私は居合わせた。お嬢様の13歳のお誕生日をお祝いするパーティーでのことだった。
華々しい最初の登場で、階段を降りている最中に足を踏み外したお嬢様。後ろをついて歩いていた私は、助けようと手を伸ばし、あろうことか一緒に階段を転げ落ちてしまったのだ。
まあ、階段といっても残り数段程度のところで、大事にはならなかったものの、怪我のショックというやつか、その瞬間に私の頭の中で前世の記憶がフラッシュバックしたのだ。
そして気付いた。
私がいるこの世界は、トレイシー様がひょんなことから前世の記憶を取り戻し、悪役令嬢としてバッドエンドを回避するために奮闘するあの物語、'悪役令嬢物語'の世界の中だということに。
いや、もうなんていうかね。
全身に痛みを感じながらも、溢れ出る記憶に対して本当に戦慄した。全てを思い出した時、最初に出てきた感想は、そういうパターンもあるのか、だったからね。
まあそんな私のどうでもいい感想は置いとくとして、原作を思い出した手前、この世界で起きることは事前にある程度知っている。
だからこそ、このお嬢様のシュンとした態度がどういう心境のものによるもなのかも知っているわけだ。決してセリウス様のように、しおらしいお嬢様を見て動揺したりはしない。
お嬢様はただ、悪役令嬢として追放されてしまわぬよう、健気なあざとい女に生まれ変わろうとしているだけなのだ。
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