2 日常の崩壊する音が聞こえる
「姉さん、洗い終わったよ」
「ああ、ありがとう。じゃあ、干すの手伝ってくれるかしら? ロープを高く張りすぎたみたいで、届かないの」
家中のシーツというシーツを寝台から剥がしたわたし達は、マリアが洗ってわたしがそれを干していっていた。家中の、と言ってもせいぜい三、四枚だけれど。
「あ。ロープ張ったの私だ」
「もう! 干すのはわたしなんだから、もうちょっと低く張ってよ」
わたしの身長は女性の平均……より少し低い。対してマリアは、女性にしてはとても高い。マリアが普通に張ったロープに、わたしが届くはずがない。
「はは……ごめん、うっかりしていたよ。許してくれ」
「許すもなにも……張り直してよ。それで解決するんだから」
「畏まりました、お嬢様」
マリアは頭をさらっと撫でてから、作業に取り掛かる。……だから、お嬢様ならシーツなんて干さないでしょ。さっきもそれ言ってたけど。
そのあとは先生の作ってくれていた朝食を食べて、わたし達は家を出た。わたしもマリアも、行き先は村長の屋敷だ。屋敷と言ってもわたし達の家より二、三部屋多いくらいなのだけれど。
少し歩いた頃、マリアがふとこう呟いた。
「ところで姉さん、花嫁修行は順調かな?」
「なあに、急に、って、花嫁修行じゃないわ! 手に職を付けてるだけよ……わたしは畑に出ることはできないし」
花嫁、という単語に反応してしまう。わたしは十六になったばかり。この村でも仲の良い家同士なら、もう結婚が決まってる同い年の子もいるのだ。まだそうのは先だと思っているけれど、なんとなく焦り出している、気がする。
ただでさえ、わたしは一度寝込んだら長引いてしまうし、力もない。『うちに来るかい?』と言ってくださった人もいるけれど、迷惑をかけてしまうのが分かっていて頷けない。それに相手を知ってはいるけれど、ただの友人で、そういう相手として見ることが出来ないでいる。
「将来、姉さんはどうしたいの?」
「えっと……このまま、マリアや先生と一緒に居たいな」
「そう言ってくれるのは嬉しいな、けど、それでいいのかな?」
「質問の意図がわからないわ」
「いや、そのさ、結婚が良い事だとはいわないが。それでもほんとに姉さんは鈍いなぁと思ってね」
「? どういうこと?」
「いや、分からないならいいんだよ、姉さん。姉さんはそのままでいてね……男子のアピールをうまく躱してるとは思ってたけど……恐るべし天然」
何かを呟いているようだったけれど、聞き取ることが出来なかった。視線で問いかけると、何でもないというように首を振られたので、きっと大したことはないのだろうと追及をやめた。
* * *
全く、姉さんの鈍感さには困り者だ。この村の同年代の少年共は、みんな姉さんを狙っているのに。それに全く気付いていなかったとは。しかも、気付いていないのに回避は華麗に。
姉さんは綺麗すぎる。だから、その異質さにみんな惹かれる。妙な首飾りで金髪を隠してはいるが、それでも淑やかさというか、気品は消えない。本当に、姉さんはただの村娘かと疑いたくなる。ただの村娘ではないのは私なのにな。
そうつらつらと考え、姉さんと別れた私は村長の部屋、仕事場に来ていた。机と本棚、質素だが堅実な造りで、木の表面は擦り切れて光っていた。
立派な机の前に、小柄な老人が長閑な日の光に当たって座っていた。豊かな顎髭を風にそよがせて、のんびりと茶を飲んでいた。
「おはようございます、村長」
「ああ、おはよう。マリア」
村長の名前はシューリ。孫のポポラと同じく、見るものを安心させる雰囲気を放っている。
「すまないのぉ、家にまで書類を持ち帰らせてしもうて」
「いえ、構いません。村長に任せる方が不安ですから」
「それを言われるとのぉ……これでも努力しているんじゃが」
村長の手伝いを始めてからまだ一、二年だが、今では私の方が書類の処理能力は上である。だいぶ、書類整理にも慣れてきたところだ。
「何、大した負担にはなっていませんよ。それに、村長は奥さんも孫もいるでしょう。ゆっくりしてもらいたいんですよ」
「それを言うと、マリアにも姉がいるじゃろうにのぉ。ほっほっ、まあここはお言葉に甘えておくかのう」
「はい、今日も始めましょう」
そのあとは二人で無言で手を動かし、気付けば昼前。今日を変わらず書類が多くて、今日も持ち帰りコースかと先が憂鬱になる。
「相変わらず早いのぉ……村長であるわしの立つ瀬がないわい」
「そう言われましても……まだまだですよ。大まかな決定は村長の方が早い」
「ほっほっほ。なに、年の功じゃよ。マリアも直ぐに出来るようになる。わしよりも早くにのぅ」
「それまで見習わせていただきます」
「ふぉっふぉっふぉ」
私が仰々しく頭を下げると、笑っていた村長はふと真面目な顔になった。
「のう、マリアよ」
「何ですか?」
「儂には後継がおらんじゃろう?」
村長の娘婿は亡くなっているし、孫は一人娘だけだ。
「そうですね……まあ、孫が婿を取ればよいかと」
「そうなんじゃがのう……それよりものぅ、マリア、お主が跡を継がんか? この村の中で、一番適任だと思うんじゃ」
一瞬、村長が何を言っているのかが分からなかった。指者という役目があるこの国でも、女性が役職につくというのはほぼ認められない。言葉を咀嚼して、ようやくその通りの意味と気付いてから、私は口を開いた。
「……私は女ですよ」
「ほっほっほっ。こんな田舎の村の村長じゃ。女であろうと何も言われんよ。それに、マリアにはそんな声をものともしない強さもあるじゃろう? 」
「……ありがとうございます、そう言っていただけるなんて。しかし……」
「何、今決断せずともいい。そうじゃな、心の片隅にでも置いておいてくれたらいいんじゃよ。一生の事だからの」
「……はい」
「一日の初めに、こんな話をしてすまんのぉ。ま、気負わずに今日の仕事を、いつも通りにこなしてくれ」
そう言われても、あまりにも衝撃的過ぎて、いつも通りに集中できる筈がない。作業の速度が落ちて、夕方になっても消えない書類を見て我に帰った。いつの間に夕方になったんだよ。
今日もか、と思いながら鞄に書類を入れて、席を立った。いつもは真面目に捌いて持ち帰りなので、今日の量に関してはお察しだ。実際よりも鞄が重く感じる、けれど早く家に帰れるのはありがたい事だ。本当はもっと仕事があるのに、女手三人だからと早く帰らせてもらっている。
「村長、私は帰らせていただきます。今日も書類を持って帰りますが。急ぎの分はそこに積んであるのだけなので、確認お願いします」
「ああ、分かったよ。マリア、気を付けて帰りなさい」
「はい」
お辞儀をして、ドアノブに手をかける。と、その瞬間にノックの音が聞こえて、慌てて扉の前から離れた。
「どうぞ」
恐る恐る扉を開けて入ってきたのは、姉さんだった。いままで、姉さんがここに来たことはない。男性の仕事場だからと遠慮しているのだろう。なのに、急にどうしたのだろううか。
「おや、姉さん。どうしたんだい?」
「あの……マリアに会いたい人がいるって。丁度、お仕事が終わった頃かしら?」
おずおずと姉さんがそう言う。上目遣いで可愛い。
会いたい人……誰だろうか。私はしばらく考え込んだ。これが姉さんも知っている人なら『会いたい人が』なんていう曖昧な言い方をしないだろうし。
「ほう、客人か」
村長も会話に入ってきた。村長の家に尋ねてくるのは、普通村長に用事があるからだろうに、姉さんは私を呼びに来たからだ。
「はい村長。マリアに会う為に来られたようです」
「私に用事ねぇ? 誰だろう……と、行けばわかる事だね。行こうか、姉さん」
「ええ」
最後に軽く村長にお辞儀をしてから、足早に部屋を出た。その先で、日常が消えるとも知らずに。
2020.8.15 改訂