第九話 錬金術師と氷の女王(前編)
セオと別れて仕事を探した。
畑を荒らす獣の駆除や農作業の手伝いはある。
どれをやってもよかった。だが、ピンと来る仕事はなかった。
他の仕事を見ていると、漁村のアンチョビ村の仕事があった。
依頼人は錬金術師のヨシア。
募集している種類が「色々できる人」になっていたので、ちょっと興味を引いた。
受付に行って紹介状を発行してもらう。
「アンチョビ村の仕事を受けたいんです」
受付嬢は素っ気なく尋ねる。
「ステくんは錬金術の知識があるの?」
「実家の父に教えてもらったので、少しはありますよ」
「そうなら、行ってちょうだい。報酬は少ないけど、変わった体験ができるかもしれないわよ。ただ、ヨシアさんは変わった人だから、合わないと大変かもしれないけど」
変わり者か。何事も修行だからな。いいか、色々な人と繋がる縁もある。
「大変なのはかまいません、上手くやれるよう努力します」
紹介状を発行してもらい、オリーブの街から転移門でアンチョビ村まで行く。
アンチョビ村に着いて、村人に訊くと、ヨシアの家はすぐにわかった。
ヨシアの家は千㎡の大きな倉庫を併設した二百五十㎡の二階建ての家だった。
家に近付くと、生臭い匂いがしていた。
何だろう? 魚が腐ったような臭いがするな。
倉庫のほうで人の気配がするので顔を出す。
倉庫では三人の夫人が働いていた。
「冒険者ギルドから派遣されて来ました。ステといいます」
「ちょっと待ってな。もうすぐ、仕事が一区切り着くから」
婦人たちは樽の上に置かれたレバーを回して何かを圧搾していた。
「よければ、俺が手伝いましょうか? 力に自信があります」
「私の名はイザベラよ。流しで手を綺麗に洗って、作業着を上から着ておくれ。ヨシアさんは清潔、清潔って五月蠅いからね」
言われた通りに手を洗い、棚にあった作業着に着替える。
圧搾機の横に行きレバーを回す。桶の下の蛇口から黒色の液体が染み出す。
イザベラが感心した。
「本当に力のある子だねえ。搾り汁が見る見る出て来るよ」
ステは強烈な匂いに顔を歪めた。
「これは何の汁なんですか? かなり匂いがきついようですが」
「何でも、島国で作られる、魚醤って呼ばれる調味料なんだと」
これが調味料か。匂いはかなりきついな。
ステは魚醤を搾り終えた。搾り粕が樽から取り出される。
他にも樽が奥にあるので尋ねる。
「あの樽の中の物も、搾るんですか?」
「ああ、あっちはまだ発酵が進んでないからそのままだよ。さあ、そろそろ魚が漁港から届く頃さ」
「なら、そっちも手伝わさせてください」
ガラガラと大八車が表に止まる音がする。
「魚を届けに来ました」
元気のよい女性の声がした。
聞き覚えのある声だと思ったら、ソフィーだった。
「ソフィーか、久しぶり。アンチョビ村に働きに来ていたのか」
ソフィーは明るい顔で教えてくれた。
「そうよ。漁港で旅の路銀を稼ぐために働いているの」
「そうなんだ。お互い頑張ろう」
ソフィーは大八車から樽を二つ降ろして帰って行った。
樽の中身はカタクチイワシだった。
倉庫内では大きい釜に火が掛けられ、カタクチイワシが煮られる。
煮たカタクチイワシに塩と、謎の白い粉を振り掛ける。
謎の粉が気になったので、夫人に尋ねる。
「この白い粉って、何ですか? 塩とは違うようですが」
「私もよく知らないけどね。ヨシアさんが作った発酵促進剤なんだと。これで完成に半年掛かる魚醤が、三十日でできるんだよ」
随分と短くなるんだな。凄い発明品だ。
「そんな便利な物が、世の中にはあるんですね」
「そうさ。ヨシアさんは自からを指して天才だと評価するけど、本当なのかもね」
「錬金術師の天才か凄い人なんでしょうね」
カタクチイワシを樽に詰め込むと、休憩になった。
休憩場所でアンチョビ入りの握り飯を食べていると、一人の老人がやって来る。
老人は小太りで、頭は禿げ上がっていた。老人は白い眉が印象的で白い服を着ていた。
むすっとした顔で、老人はステを見る。
「見慣れない人間が、儂の工房におるな」
食事を中断して挨拶する。
「初めまして。冒険者ギルドから派遣されてきた、ステといいます」
イザベラが老人を紹介する。
「こちらが、この工房のオーナーのヨシアさんよ」
ヨシアがイザベラに確認する。
「どうだ? 魚醤はきちんとできたか」
イザベラが小皿に魚醤を垂らして、ヨシアに差し出す。
ヨシアは指に魚醤を漬けて、満足げに頷く。
「うむ、美味い。これなら商品化できるな。実験は成功だ」
午後、倉庫で洗い物を済ませる。
仕事が終わったのか、イザベラとご夫人がたは帰っていった。
ヨシアはステに命令する。
「よし、特別に研究室の中を見せてやろう。従いてこい」
「ありがとうございます。勉強になります」
ヨシアの家の中には八十㎡の研究室があった。
研究室の中には、フラスコやビーカーのほか、滅菌機や顕微鏡がある。
器具の洗浄器具もあった。
ヨシアが真剣な顔で注意する。
「迂闊に触って壊すなよ。どれも、高価な品だからな」
「ヨシアさんは微生物が専門なんですね」
ヨシアの顔が険しくなる。
「どうして、教えていないのに、儂の専門が微生物だとわかった」
「ここにある器具を見ればわかりますよ。それに、俺の家にも顕微鏡がありましたから」
ヨシアは軽く驚いた。
「ステは錬金術師か魔術師の家庭の出身か? 家は知識人なのか?」
「いいえ、俺の家は代々、百姓です」
「お父さんは教育に熱心なのだな。お父さんに感謝しなさい。教育は世を照らす光だ」
何か難しい話をする人だな。
ヨシアはステに席を勧める。魔法の冷蔵庫をヨシアは開ける。
白い物体が入った二百五十㏄のガラス容器を取り出す。
容器の中には白いプティングのような物体が入っていた。
ヨシアはスプーンを付けてステと自分用に用意する。
「食べてみたまえ。感想を聞きたい」
蓋を開けて、匂いを嗅ぐ。嫌な臭いはしない。
スプーンで一口を掬って口に入れる。甘酸っぱい味がした。
「上質なヨーグルトですね。厳選した乳酸菌を使い、温度と酸度を適度に調整して作っている。だから雑菌が入らず、きちんと固まる。匂いも、悪くない」
ステの答えにヨシアは満足していた。
「気に入ってくれると、嬉しいよ。私の半生は微生物との戦いだった。時には負け、時には勝ち、いや、負けのほうが多かったな。そんな人生だな」
ステは素直な気持ちでヨシアを称賛した。
ヨーグルト一つ取ったって、ここまで美味しい物は簡単にはできない。
「魚醤だって、このヨーグルトだって、立派な作品ですよ」
「微生物に勝とうとしてはいけない。いかに共生して行くかが大事だ」
その後もヨシアとはチーズやワインなど発酵食品の話をする。
ヨシアは機嫌よく、また楽しそうに、発酵食品を語った。
ヨシアさんて、発酵乳製品が好きなんだな。
夜になって眠る。夜は初夏なのに、大変、寒く感じた。朝起きてもとても寒かった。
あれ、アンチョビ村って、こんなに寒い村だったっけ。
部屋の温度計を確認すると、室温は四℃しかなかった。
ヨシアの家にイザベラがやって来る。イザベラが青い顔をしていた。
「大変だよ。浜が凍っちまったよ」
イザベラの言葉には驚いた。
「これから夏ですよ。夏なのに浜が凍ったら、この先、どうなるんです?」
「わからないよ。朝起きたら氷で浜が閉ざされていたんだよ。漁に舟が出られなくなっていて、漁師は大騒ぎさ」
ヨシアがコートを着て出てきた。
イザベラが浜の異変をヨシアにも知らせる。
ヨシアは驚いた。
「何だと? それは奇妙奇天烈な大事件だ」
イザベラが懇願する。
「ヨシア先生の知識で何とかならないかね」
「う、うん」とヨシアは弱っていた。
錬金術師だからといって、何でもできるわけではない。特にヨシア先生は専門が発酵乳製品だから、異常気象を相談されても困るか。
先生を助けるのも、俺の仕事だ。
「ヨシア先生が許可してくれるなら、俺が原因を調べてみましょうか」
イザベラが藁にも縋る顔で、ヨシアを見る。
「いいだろう。儂もどうにかできないか対策を検討する。ステくんは浜で起きた異常を独自に調査してくれ」
ステは背筋をぴっと伸ばして答える。
「わかりました。できる限りのことを、してみます」
獅子王刈を背負って浜に走っていく。イザベラが教えてくれた通りの光景があった。
浜にはびっしり氷が流れ着いていた。氷を蹴ってみたが、上に乗れるほど厚い。
これは酷いな。辺り一面が氷原になっている。
ソフィーが漁師たちと一緒に焚き火に当たっていたので、事情を尋ねる。
「大変な事態になったね。昨日まで何ともなかったのかい?」
ソフィーが困惑顔で教えてくれた。
「朝に漁に出ようとしたら、これよ。舟も氷に閉じ込められて、出られなくなったわ」
「アンチョビ村って、冬は海が凍るのかい?」
「漁師さんの話では、冬に一時的に海が凍って、漁ができなくなるって聞いたわ。でも、まだ初夏よ。海が凍るほど寒くなる事態はないわよ」
「何か原因があると思う。昨日、海で変わった事件はなかったの?」
「ないわ。昨日は普通にカタクチイワシが獲れていたもの」
漁師の一人が震えながら語る。
「氷の女王だよ。氷の女王が出たんだよ」
別の漁師が怒る。
「氷の女王なんて昔話だよ。いるわけがない」
何だ? 何か事件解決の手懸かりか。何もない状況ではちょっと気になるぞ。
「よかったら、その昔話を聞かせてくれませんか?」
漁師は暗い顔で語った。
「この海の果てには、氷の大陸があるんだ。氷の大陸には、氷の女王が治める国がある。氷の女王は漁師に生贄を求める。漁師が生贄を拒絶すると、氷で浜を閉ざすんだ」
氷原となった海を見ると、海はどこまでも続いていそうだった。
氷が大陸まで続いているとは思えない。この氷の海がどこまで続いているかを確かめれば、解決の糸口が掴めるかもしれない。
「よし、寒さ対策をして、この氷原がどこまで続いているか、確かめに行ってみよう」
ソフィーが真剣な顔で同行を申し出た。
「待って。私も行くわ」
ソフィーは強い。それに、海の知識もある。俺が一人で行くより、いいかもしれない。
「わかった。一緒に行けるところまで行ってみよう。何か、わかるかもしれない」
防寒具を借りる。氷は厚く人が乗ってもびくともしなかった。