第十話 錬金術師と氷の女王(後編)
ステとソフィーは氷になった海の上を歩いて行く。
氷の上は滑るが少し歩くと、慣れた。
ソフィーと会話し率直に疑問をぶつける。
「ねえ、氷の女王なんていると思う?」
ソフィーは真面目な顔で教えてくれた。
「氷の女王の話は私の村にもあったわ。この海の向こうには、氷で覆われた大陸があるの。その大陸の支配者として氷の女王が存在する、ってね」
「海の傍で暮らす人間にはメジャーな昔話なんだな。俺はちっとも知らなかった」
「でも、私は今回の件に氷の女王は無関係だと思うわ」
ソフィーも氷の女王の存在を信じていないのかな?
「どうして、無関係だと思うの?」
「漁村の冬は確かに厳しいわ。でもね、冬がないと春がないの。春がないと産卵がない。命が廻らないと、漁師は生きていけないわ。自然の循環を氷の女王が歪めるなんて、思えない」
季節は廻り、命は循環するか。ソフィーの世界観では、適切な冬はまた必要なものなんだな。
ステは嫌な気配を感じた。氷が揺れ始める。
転倒しないように踏ん張る。
大きな音がして氷が割れる。氷に幅二十mの裂け目ができた。
裂け目から全長五m、体重が六tにもなる、黒いトドが現れた。
トドは大きな牙を震わせる。
魔物か。ソフィーを護らないと。ステはソフィーを庇おうとする。
だが、ステが動くより早く、ソフィーが動いた。ソフィーが思いっきり銛を投げる。
ソフィーの銛が勢いよくトドの体に命中する。トドは弾け跳び、黒い靄になる。
やるな、ソフィー。ソフィーは俺が守る必要がないね。
ソフィーがロープを手繰り寄せて銛を回収する。
だが、トドの襲撃は一頭で終わらなかった。
裂けた氷の隙間から次々と真黒なトドが出てくる。
ステは足場が悪いので、攻撃手段に魔法を選んだ。
氷を溶かさないように、エネルギー球体の魔法でトドを仕留めて行く。
ソフィーも銛を投げては回収しを繰り返して戦う。
三十頭は仕留めただろうか。だが、まだトドは氷の裂け目から出て来る。
「駄目だ。きりがない」
ステの頭の中に女性の声が響く。
「冒険の書が起動しました。次元修復を使用しますか? 使用には使用者の魔力を使います」
「やってくれ。このままじゃ、埒が明かない」
急激に体から力が奪われていく感覚がした。強い倦怠感を覚えて、思わず膝を突いた。
何だ? 体から一気に力が奪われた。今、襲われたら危険だ。
ステの視界が霞む。
冷たい風が吹くと氷の裂け目が塞がった。裂け目が塞がるとトドの出現が止んだ。
「大丈夫、ステ?」
心配顔でソフィーがステの肩に手を掛ける。
「何とかね。ちょっと魔力切れを起こしただけさ」
ステはふらふらしながら立ち上がった。
冒険の書のサポートは強力だけど、気軽には使えないな。下手に使うと、危機的状況を乗り越えられない。
空から雪が降ってきた。すると、どこからから鈴の音が聞こえてきた。
ステは新たな敵襲に警戒した。ソフィーの顔にも警戒感が滲んでいた。
耳を澄ませば、前方から鈴の音が近づいて来る。
身構えると橇が現れた。橇には手が付いた雪達磨が八体、乗っていた。
雪達磨たちの身長は百七十㎝。丸い雪の塊が三段に重なっていた。顔は炭でできた目鼻を持ち、手には槍が握られている。
雪達磨たちは赤い帽子を被っていたが、一人だけ背の高い立派な帽子を被った雪達磨がいた。
新手の敵かと警戒した。
先頭にいた立派な帽子を被った雪達磨が男の声で警告を発する。
「む、人間か。ここは氷の女王が治める領土である。即刻に立ち去れ」
襲っては来ないで警告? 敵ではないのか。
ステは確認する。
「ちょっと待ってくれ。この、でっかい氷の塊が領土だと、主張するのか?」
立派な帽子の雪達磨は胸を張って主張する。
「そうだ。この氷塊は我らの領土から流れ出たもの。つまり我らが領土だ」
「なら、この氷塊は要らない。だから、氷の国に持って帰ってくれよ」
立派な帽子の雪達磨が素っ気なく言い放つ。
「それは、できない。できるとすれば我が女王だけだ」
「そんなの無茶苦茶だよ。こっちは氷のせいで困っているんだ」
ソフィーがすかさず懇願する。
「この氷が人間の村に流れ着いたせいで、多くの漁師が困っています。きっと、何者かが氷の国と人間の村を苦しめるためにやっているんです」
立派な帽子の雪達磨がじろりとソフィーを睨む。
「何か証拠でもあるのか?」
「先ほど氷が割れて黒いトドの魔物が出現しました」
雪達磨の兵隊が氷を調べる。
「フロストン隊長。その者たちの主張は正しいかと思われます。氷に魔物の痕跡があります」
「何だと?」とフロストンが氷を調べる。
フロストンは塞がった裂け目に顔を近づける。
「確かに、魔物の痕跡だ。いいだろう。氷の女王にお伺いを立ててやる」
フロストンが呪文を唱えると、空中に直径一mの丸い氷の鏡が現れる。
フロストンが鏡に話し掛ける。
「女王陛下。我らの領土が少々厄介な事件に巻き込まれました。魔物により領土の一部が切り離され人間の村に流れ着きました」
氷の冠を被った、白い肌の女性が鏡に映し出される。
氷の女王は冷たく命令する。
「それは厄介だな。もうよい。切り離された領土は捨てよ。魔物に汚されたのなら、持ち帰る必要はない」
何だって? 氷をこのままここに置かれたら漁ができないぞ。
ステが抗議する前にソフィーが頼む。
「待ってください。こんなに大きく厚い氷の塊を放置されたなら、漁師が困ります」
フロストンはむっとした顔で怒った。
「貴様、女王に向かって無礼であろう」
氷の女王は、さして気にした様子はなかった。
「良いわ。それで、この氷の塊を消すとして、妾に何か得があるのか?」
メリットを提示できたら氷を消してくれるのか。なら、お願いに徹するに限るな。俺とソフィーで魔物は退治できても、この大きな氷塊は移動させられない。
ステは取り引きを持ち掛けた。
「氷を融かしてくれたら、美味しいお菓子を献上するよ」
氷の女王が興味を示した。
「菓子の献上とな。面白い。いいだろう。妾が認めるに値する菓子を献上できたなら、氷を融かしてやろう」
ソフィーはステの言葉を心配していた。
「ステ、いいの? そんな約束をして? 大丈夫なの?」
「心配するな。宛てはある」
ステは村に帰るとヨシアに尋ねた。
「ヨシア先生。アイスクリームって食べた経験がありますか」
ヨシアが怪訝な顔で訊き返す。
「氷菓のことか? あるけどどうした?」
「ヨーグルトをアイスクリームにできますか」
「ステが指し示す物はヨーグルト味のアイスクリームか? それともフローズン・ヨーグルトか?」
「フローズン・ヨーグルトです」
ヨシアが困惑顔で疑問を投げ掛ける。
「できる。だけど、今、フローズン・ヨーグルトなんて作っている場合かな?」
「ヨシア先生のフローズン・ヨーグルトがあれば、氷が融かせるんです」
ヨシアは不可解だとばかりに顔を歪める。
「何だ? それはどういう理論だ? 訳がわからん」
ステは雪の女王との経緯を話した。
事情を知ったがヨシアの顔は渋い。
「話はわかった。だが、私のフローズン・ヨーグルトで、氷の女王を満足させられるかな?」
一年中ずっと氷に閉ざされた国では、掻き氷や冷凍果物はできても、ヨーグルトはできない。
氷の女王なので、アイスクリームは食べた経験あるかもしれない。だが、美味しいフローズン・ヨーグルトなら、食べた経験がないだろう。
「先生はもっと自分に自信を持ってください。先生の半生は微生物と共にあったんでしょう。なら、できるはずです」
「わかった。吸熱の魔法を使えば、フローズン・ヨーグルトはできるだろう」
吸熱の魔法で固めたフローズン・ヨーグルトを持って、ソフィーと氷原に向かう。
雪達磨たちにフローズン・ヨーグルトを渡す。
「毒見だから」とフロストンがフローズン・ヨーグルトを食べる。
隊長は感心した。
「ほう。美味いな。温度も硬さもちょうどいい。これなら、女王陛下も喜ぶかもしれん。お前たちは家に帰って待つがよい」
「やったね、ステ」
ソフィーは素直に喜んだ。
言われた通りに氷原から立ち去る。
翌朝、起きると、大気はひんやりとしていた。だが、寒いほどではなかった。
気になったので浜に行く。浜を閉ざした氷が全て消えていた。
ヨシアの家に戻ると、イザベラが朝食を作りに来る。
イザベラがヨシアに礼を述べる。
「さすが、ヨシア先生だ。あの氷を一晩に融かしてしまうとは思わなかったよ」
ヨシアがステを複雑な顔で見た。ステは笑顔で頷く。
ヨシアはちょっぴりばかり気取った顔で自慢する。
「いつも、いつも、上手く行くとは限らん。今回はたまたま上手く行った。それだけじゃよ」




