第九話
「君は交通事故に遭遇したんだ」とミヤギが率直に言ってきた。
理解出来なかった。「は?」としか答えられない。
「何を言ってるんだ。僕はこの通り、ピンピンしてるじゃ―」と言いかけたところでハッとする。ここはこの世ではなくて、あの世だって言う事を。「…交通事故で僕は死んだってのか?」とあまり納得が出来ないまま尋ねると、ミヤギは静かに頷いた。
「君にも身に覚えはあるハズだ」
僕は何かを思い出しそうになり、咄嗟に吐き気を催した。何とか吐かずには済んだのだが、ここで思い出しつつあった。今朝…今朝と言うのも変なのだが、僕は早朝に出かけた。出かけた理由までは詳しく憶えていないけど…いや、正確には記憶が遮断しようとして拒絶反応を起こして思い出したくないだけだ。
「…交通事故にこの世界と関わりがあるってのか」僕は呼吸を整えてから言った。
「ある。ちゃんと身体的にはそれを覚えている。だから君は吐き気がするんじゃないか」とミヤギはぴしゃりと言った。
「ツバサ…無理はしなくても良い」と父親が言う。「せっかくこうして会話が出来ているんだ」と続けて言った。
「そういえば」と僕は二人の様子を伺いながら喋りだす。「あの世とこの世と通話が出来るのには何か理由があるの?」と二人に尋ねた。
「そうだな。正確にはあの世…ではない」と父親が衝撃的な事を言い出した。「だけど、絶望的にはなってはいけない。いずれこの世には戻れる」と悲しそうな表情で答えてきた。
「戻れる!?戻る方法があるのか!?」と僕は叫んでしまった。
父親は口を固く閉ざしたので、僕は続けて「なんで何も言ってくれないんだよ!!」と叫んだ。
暫く三人共沈黙した後、ミヤギが「戻る方法は、あるにはある。だけど戻る方法は知らない」と言ってきた。
僕には理解が出来なかった。戻る方法を知らない…?だけど、戻れる方法はある。どこか矛盾しているようにも感じ、僕は自身の両手でミヤギの肩を揺すりながら「知らないなら、何でこんな世界と通信出来てるんだよ!おかしいだろ!」などと叫び続けた。
何で知らないのか。何で分からないのか。僕には二人が分からない事が分からなかった。今父親と話せているのも、ミヤギと会話してるのも、全てがおかしく感じた。黙り続ける二人に、僕は必死に反論を続ける。
「単刀直入に、言おう」とミヤギが言うと父親が、「いかん!それだけは絶対に言ってはならない!」と怒鳴り始めた。何かを隠している事には変わりない。しかし、元の世界に、この世に戻る方法を知らないと言う方が気がかりで、叫び終えたあとは暫く無言のままでいたのだが、そんな事を気にしてる余裕はなかった。
二人は何やら会話をしているのだが、頭に入ってこない。会話が終わったところで、父親も少しは納得したらしく、渋々頷いたりしていたのは覚えているが、二人が何の会話をしていたのかは覚えていない。
父親が何度か自分の名前を連呼してきたので4、5回目ぐらいにしてようやく我に返り、父親の方を振り向くと「ツバサ、落ち着いて聞いてほしい」と自ら話してきた。「君の肉体は、ここにある」と言い続け、モニターの画面が切り替わった。
確かにそこには僕の肉体があった。遺体とも言うべきか。最初、自分自身の肉体ですらどうかも分からなかったのだが、少々痩せこけているとはいえ、僕の顔自身のようにも見えた。まるで寝顔のようだ。今すぐにでも起き上がりそうな気はする。
周囲には見た事もない機械があり、僕は何故か落ち着きを取り戻し、安心した。
「あれは間違いなく君の肉体であり、ここにいる君は魂と呼ばれるものかもしれないし、意識かもしれない」と暫く無言だったミヤギから喋ってきた。
「正直、信じられない」と僕は答える。「肉体が現世にあるって事は、戻れる手段は分からなくても、戻れる術は万が一にも…少なくともあるって事だろう?」不思議と冷静になりながら言った。
ミヤギは頷く事はなかったけれども、気にする事はなかった。しかし、もっと不思議な事はある。
「そういえばミヤギは…」と僕が言いかけると、ミヤギは「僕には肉体がない。気にする事はない」と答えてきたので察してしまった。
ミヤギはここで生まれてきたと言ってきたのはもう肉体がないって言う偽りだったのかもしれない。
「君は天使か何かなのか?」と尋ねると、ミヤギが「そうかもしれないね」と微笑みながら答えてきた。
最初あんなに不信感しかなかった相手が、今となっては心の支えとなっている。縁とは不思議なものだ。僕はこれほど信頼出来るような相手に巡り合えたのかと安心した。
数分後、父親の方に画面が切り替わる。
「戻れる手段は分からないだろうと、少なくとも戻る術はあるハズだ」と切り替わった途端に父親が話してきたので、僕とミヤギは思わず笑ってしまいそうになった。父親は頭の上にクエスチョンマークでもあるように首を傾げた。
「お父さん、同意見だよ」と僕は言った。父親も不安そうだったが頷いて、どうやって戻るのか方法を探す事にした。少なくとも希望がある。余計な事は考えるな。僕はそれに向かって前進あるのみだ。
月日が流れた。ここでの生活は大分慣れてきた。この世とあの世との時間の流れは違うらしく、僕には数週間の出来事も、父親側には数か月の時もあれば数日の出来事でもある。雨は一度も降らない。物は腐らず、生物はいない。不思議な空間。最初、父親も興味津々にこういった会話をしていたのだが、やがて父親も学者として学会の発表があるからと、モニター越しで通話するのも日が経つにつれて減っていった。
最初は三日に一日、五日に一日、そして一週間に一日で落ち着く事となった。モニター越しで通話するのは父親と二人だけで、他の家族である母親達とは通話するような事はなかった。
父親から会話の始めに必ずと言っても良いほど僕自身の気持ち、感情などを細かに聞いてきたのは確かだ。
ミヤギとのいわゆる同棲生活にも慣れてきた。完璧な人だった。僕は家事や学などを一から全て教わっていった。
不思議と苦にはならなかったのだが、いつまでこんな生活を続けるのだろうかと言うジレンマ。僕は時々、見る悪夢の事もミヤギに話したりもした。その悪夢は、本当に真っ暗闇で、目の瞼を動かす事も、身動きすらできない。金縛りのようで、まるで現実の肉体に魂が戻りつつあるかもしれない、そんな気がした。
「その時の悪夢は脳だけが寝ている状態なのかもね」とミヤギが言ってきた事もある。
確かに、そうかもしれないが、夢の中ぐらい自由に動き回りたいものだ。空を飛ぶ夢も、走り回る夢も、見たい。この悪夢ぐらいしか記憶にない事が、僕にはなんだか悲しかった。そんなある日の事だ。
ふと目を覚ますと、ミヤギがいなくなっていた。それはあまりにも突然の出来事であり、僕はどこかへ出かけてるのだろうと言う程度にしか最初は思えなかった。
しかし、何日経過してもミヤギが戻ってくる事はなかった。父親と通話するまではあと三日間もある。それまでは戻ってくるだろうかと思ったが、一日経過しても戻ってくるような事はなかった。もしかしてミヤギは生き返ったんじゃないだろうかと言う推測が頭の中を過ぎった。ここはいわゆるあの世だ。ビルの所に生まれたと言っていたのも、この世界にきた際に一番最初にビルの中にいたのではないか、と言う考えもあったので、そうに違いないと思った。いや、そう思いたかった。
父親とは何らかの接触はあったらしいので、これからはモニター越しで通話をしてくるようになるかもしれない。そうも期待した。いざ一人になってしまうのは心細い自分がなんだか情けなくて、自分だけが戻れないのがなんだか悔しくて、複雑な気持ちだった。
どうするべきなのか。僕は考えた。どうすれば戻れるのか。父親と通話するまであと二日もある。
かといって、こちらからは通話する手段はない。電源をつけたところで父親がいるとも限らない。僕はその辺をブラブラしてみる事にした。運転の方法もある程度はミヤギ直々に習っていたので、出来なくはない。僕は実家の方に戻る事にした。実に数十年振りに里帰りすると言う感じだ。朝から出かけたので昼過ぎ頃に着いた。僕はあの交差点に差し掛かったところで、頭痛に襲われた。
「これは逃げだ…。逃げないぞ」と僕はその交差点を通ろうとする。意識を失ったのか、いきなり目の前が真っ暗になった。いつもも悪夢だ。
自ら意識は自由に動かせる。悪夢が明晰夢とか嫌なものだ。かといって、身体は自在にコントロールは出来ないし、幽霊とかそういった類いが襲ってくるような事は一切ない。僕はこの悪夢から抜け出すよりも、頭痛について思い出そうとした。不思議と頭痛はしなかった。むしろ、鮮明になってあの日の記憶が甦ってきた。事故に遭遇したあの日、僕は朝早くマウンテンバイクに乗っていた。日課であったと言う事をこの日に至るまで忘れていたのだ。
出かけた矢先、あの交差点で僕は交通事故に遭遇した。意識が薄れていく中、車が去っていく音が聞こえた。そしてちょっとした衝突したような、爆音のような音が聞こえてきた。僕を轢き逃げした車がどこかに衝突したのだろうか。ざまあみろと思った。それから意識を失っていたのか、僕は今の居る世界で目を覚ました。
不思議なほど、記憶が甦ってくる。拒否反応も何もない。僕は先ず運転手を憎んだ。運転手を憎んだところで、いきなり光が差し込んできた。瞳孔が開いているのだろうか。眩し過ぎて目の方に手をやったのだが、気が付くと僕はどこかの病室の中にいた。僕は途端に無意識でありながらも大きな深呼吸をした。
ミヤギが送ってくれたのだろうかと思い、辺りを見回す。人の気配がしない。窓の外を見ると雨が降っていた。