七、月を見上げた日
とっっっっってもおひさしぶりです。お元気ですか。忘れられていないといいですが……。
こんな細々と、特に進展も見えない小説を読んでくれる方はまだいるのでしょうか。びくびくしながらちまちまと続きを書いています。
これからも細々とちまちまと進めていきたいと思っていますので、気長に、寛大な心で、お付き合いいただければと思います。よろしくおねがいします。
「それって、浮気なんじゃないの?」
「はぁ、浮気」
クッションがへたれ、少々座り心地の悪いソファに腰かけながら、佐藤さんの怖い顔を見つめた私は心の中で『ドーナツはお預けか』とちょっと残念に思っていた。
佐藤さんが膝の上で力一杯握りしめている紙袋。それはこの辺りじゃ有名なドーナツ専門店の物。
『疲れたときは甘い物だよ』と佐藤さんが差し入れに買って来てくれたものだ。
山場を迎え、家になかなか帰れなくなった仕事の合間に、ちょっとした休憩をしようと思って休憩スペースにコーヒーを持ってきたのが、事の発端だった。
「最近彼氏はどうしてるの?」
「え? ……ああ、元気にしてるみたいですよ。今日なんか、家に人を招いてもいいか、ってお伺いが来てましたし」
なんて、軽いノリで白状したのが悪かったみたいで。
冒頭の詰問に戻ってしまうのだ。
「でもでもでも、いつもお世話になってる編集者さんだって言ってましたよ? 迷惑かけっぱなしだからお詫びするんだーって」
「いやいやいや、だって彼氏さんの担当編集者って 『さくらちゃん』 でしょ? 女の人じゃん。しかも名前からして若い女の子じゃん! 部屋に上げる? 浮気よ! う! わ! き!」
「ちょっと佐藤さん。声大きいですって」
休憩スペースには私たちだけ。ほかに人影はないとは言え、きちんと壁で区切られたわけではないここでは声が響いて仕方ない。
普段働いているラボと休憩スペースはエレベーターホールを挟んで廊下の両端に位置していて、声が届くことは考えにくかった。だけど、こんな静かな深夜ではどこまでも響いてしまいそうだ。
「ごめんごめん……でもさ、ほんとに大丈夫なの?」
紙袋の口を握りしめていた手を緩めながら、佐藤さんは心配そうに呟いた。
「彼氏さんのことを信頼してるから、なんでしょうけど。栗原ちゃんって、彼氏さんのことになるとどこか他人事みたいな話し方をするから、ちょっと心配になるのよ」
どきりとした。他人事、確かにそうかもしれない。
倫さんとの出会いも、婚約も。私の意思はどこにも無かった。初めて会ったのでさえ、親同士が決めた見合いの席だったのだから。
『初めまして。杉元倫です』
『……はじめまして』
大人の男の人。私とは違う世界に生きる人。倫さんに対する第一印象はそれだけだった。
思い返してみても、随分と他人事だ。私はまだ高校に入学したばかりで、十も年上の男の人と面と向かって話をする機会なんてそれが初めてだったのだ。
『こら、美月。きちんとご挨拶なさい』
『いいんですよ、栗原さん。賢そうな、いいお嬢さんじゃないか。なぁ、倫』
初めて会った倫さんとどんな話をしたのか。彼がどんな顔をしていたのか。私は覚えていない。
ただ、お互いの両親が上機嫌に話していたことだけはぼんやりと覚えている。
『美月。彼が貴女の旦那さんよ』
そう、母から聞かされた時でさえ、どこか遠い世界の出来事のようで。
条件反射のように首を縦に振ることしか、私は出来なかった。母の言葉の重みを考えるようになったのは、もっとずっと後。咲良と出会ってからだった。
倫さんとの出会いにも、倫さんとの今にも、そして将来にも。私の意思は何処にもない。
その思いが心の奥底にあるからこそ、佐藤さんには他人事のように見えるのだろう。
「そんなこと、無いですけど。……年が随分離れてますからね。あんまり恋人っていう感覚が無いのかもしれません」
「家族みたいな?」
ようやく紙袋の存在を思い出したらしい佐藤さんが、ガサゴソと音を立てて袋の口を開いた。おいしそうなドーナツが見え隠れして、私のことを誘惑する。
「家族、そうかもしれませんね。ドキドキするというより、落ち着くんです」
「落ち着くって……、栗原ちゃん今いくつ? 駄目よ、若いのに。もっとドキドキするような恋をしなくちゃ」
「今年で26歳ですけど……。確かに、ドキドキするような恋はそんなにしたことないかも。私も佐藤さんみたいに沢山合コンとか行ってみたかったです」
「そうよー、楽しいわよ。合コン。今度一緒に行く?」
ああ、でもそんなことしたら婚約者さんに怒られちゃうか。ごめんごめん。
ドーナツを私に差し出した佐藤さんは、おどけた様に笑った。彼女の優しい笑顔を曇らせないように『そうですね』と微笑みながら、粉砂糖がたっぷりかかったそれを受け取る。
「むしろ怒ったところを見てみたい気もします」
「そんなに穏やかなの? 栗原ちゃんの婚約者さんは。ああ、でも優しい大人の男って素敵ね」
いいなぁ、そんな恋をしてみたい。
ドーナツを誰か素敵な男の人に見立てているのか、うっとりと佐藤さんはつぶやく。
そんな彼女の様子をどこか眩しく思う。
恋も、愛も、私と倫さんの間には存在しない。
『夢を諦めるか、彼を諦めるか。両方は駄目よ、1つだけ選びなさい』
母の言葉を思い出す。私はその言葉に押されるまま、夢のために彼を諦めた。倫さんと話す度、姿を見る度、選ばなかった未来を想ってしまう。
『ごめんね、咲良』
私はズルくて、罪深い。自分のエゴで、彼を切り捨てたのに。それでもまだ、未練がましく思っている。目の前にいる倫さんを、置き去りにして。
だから例え倫さんが浮気をしても、私にそれを糾弾する権利はない。ただ家が決めたレールに乗って、彼と入籍し、仮初めの家庭を築いていくだけだ。
沈む気持ちがため息となって外に出る前に、私は手にしたドーナツを一口齧った。口の中にほろりと甘さがほどけて、私の心をじんわりと温める。
自分の罪を自覚した私にとっては、そんなドーナツの甘さでさえ、過ぎた幸せのように思えてならなかった。