五、月の兎
どことなく沈んだ気分でロッカーの扉に鍵をかけた。今日も納得のいく結果が出なかった。それどころか、薬品の配合を間違えてしまって、試薬をいくらか無駄にしてしまった。
『まだ、うまく行きませんか』
今日の終業ミーティングで厳しい顔をしていた営業担当の人の顔を思い出すと、身のすくむような気持がした。
『紙の上の理論と実際は違いますから……』
『それでも、理論は上手く行っているんですよね? なら問題ないはずです』
早く結果を出してください。
言葉の裏、急かされているのだと知っている。どうにもできないのに、どうにかしなければならないという気分になる。
目線が自然と足元に落ちる。
鞄を肩に掛け直したところで、幽かな振動が鞄から伝わって来た。
メッセージアプリの通知バイブレーションだ。手で鞄の中を探ってスマホを引っ張り出すと、画面を表示させた。
『今日は何時に帰ってくるの? 遅くなるなら迎えに行こうか?』
メッセージを送ってきたのは倫さんだった。研究が長引いて遅くなることも多い私を心配してよく連絡をしてくれる。
『今日はもう帰るよ。大丈夫、ありがとう』
『了解』
短い了承の言葉と一緒に、可愛い犬のスタンプが送られて来た。
犬の顔があまりにも能天気で、思わずクスリと笑ってしまった。
「あら、栗原ちゃん。婚約者から連絡でも来たのかしら?」
「佐藤さん、お疲れ様です。そんなに変な顔してました? 私」
ロッカールームの扉が開く微かな音に顔を上げると、まだ白衣姿の佐藤さんが面白がった笑みを浮かべて立っていた。
なんとなく恥ずかしくなって、スマホの画面を隠すように胸に引き寄せる。
「ううん、なんか恋する乙女みたいな顔。……いいわねぇ、そういう相手がいるのって」
「そんなんじゃないですよ」
倫さんに恋をしているか、と聞かれるとわからないけれど、こうして誰かが私を心配してくれることは単純に嬉しいと思う。
「ほら、遅くなると彼が心配するわよ。早く帰りなさい」
「じゃあ、お言葉に甘えて。お先失礼します」
「今度彼に会わせてね」
背中に掛けられた彼女の言葉に、『いつか機会があれば』なんて曖昧な返答を返しながら、ロッカールームの扉に手を掛けた。
いつか、機会があれば。私が胸を張って倫さんを『婚約者だ』と言える日が来たら。
扉を開けると、おいしそうな匂いがした。
「おかえり、美月。今日は生姜焼きだよ」
玄関の扉が開く音が聞こえたのか、エプロン姿の倫さんがキッチンから顔を覗かせた。そのまま短い廊下を歩いて、靴を脱ぎかけた私と向かい合う。
「ただいま、倫さん。……料理作れるなら、朝ごはんも自分で作ってよね。いつも言ってるけど」
「だって朝は眠いんだもん。それに誰かが食べてくれないと作る気しない、っていつも言ってるよね?」
お疲れ様。冷めちゃうから早くおいで。
そう言って私の頭を撫でてまたキッチンへと戻って行く。私を子供扱いするような仕草がよく似合う。朝とは全く違う。あんなに子供っぽい仕草で私に甘えてきたのに。
ズルい人だ。
化粧を落として、部屋着に着替えて。オフモードに切り替えてから食卓に着くと、タイミングを計ったように生姜焼きが乗ったお皿が私の前に置かれた。
ご飯と味噌汁と一緒に湯気を立てるそれは、とてもおいしそうだ。
「おいしそーう! いただきます!」
「召し上がれ」
夕ご飯くらいは一緒に食べよう。
一緒に住むようになってしばらくしてからそう提案したのは、倫さんの方だった。
以来、私がどんなに遅くなっても、自分の論文執筆がどんなに忙しくても、彼は私と一緒に夕ご飯を食べてくれる。
食卓で話すのは、お互いの職場のこと。テレビで見たニュース、最近の天気。要するに当たり障りのない、世間話だ。
大学教授と企業研究者。似ているようで職場環境は随分違くって、だからこそなんでも相談できるし楽しく話ができる。
「そういえば、論文の締切は大丈夫だったの?」
不意に、ここしばらく彼がかかりきりになっていた論文のことを思い出した。
彼は大学で学生を教えるのとは別に、何度か雑誌に論文を載せている。彼がかかりきりになっていた論文も、昔からお世話になっている論文誌に載せるものだと聞いていた。
「ああ、うん。今日の朝にさくらちゃんに送ったから大丈夫」
「……今日の朝? 昨日中に出さないとだめだって言ってなかったっけ?」
「……さぁね」
ああ、もう。彼は都合が悪くなるとすぐに目を逸らす。この様子だとまた担当編集の『さくらちゃん』に迷惑をかけてしまったらしい。
名前しか知らないけれど、倫さんの話しぶりからすると『さくらちゃん』はどうやら私と同年代であるらしい。なんとなく親近感がわくと同時に、申し訳なくなる。
私と同世代で、名前からして女性である『さくらちゃん』がこんなダメな大人に振り回されているなんて。
「可哀想に、『さくらちゃん』。ねぇ、今度紹介してよ。いつも倫さんが振り回してるお詫びがしたいし」
「お詫びって。まあいいや。さくらちゃんも美月に会ってみたいって言ってたし。機会があればちゃんと紹介するよ」
『機会があれば』
彼のその言葉に、ロッカールームで佐藤さんに言った自分の言葉を思い出す。
私が胸を張って彼を紹介できないのは、恋よりも夢を取った自分の狡さが後ろ暗いから。
じゃあ、彼はどうしてだろう。『機会があれば』なんて曖昧な返答をする理由は。一体どこにあるのだろう。
聞いてみたい、と思ってみても。自分の狡さを自覚しているからそれすらも出来なくて。
私ができることは、月の上でありもしない餅をつく兎のように、穏やかに彼との日々を過ごすことだけだ。