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四、花を折りたし

 編集長から「帰っていい」の許可を得て戻った久方ぶりの我が家は、どこかよそよそしく俺を出迎えた。


「ただいまー、っと」


一人暮らしを始めて随分たつからか、独り言がおおくなった。帰宅の挨拶をしたところで、真っ暗な部屋からは返ってくる声なんてありはしないのに。


 がらんとした部屋にため息をひとつ。連勤続きだったから自宅に帰れたことは素直に嬉しいけれど、人の気配がない部屋はどこか寂しい。


 寂しいのは嫌いだ。彼女に置いて行かれた、あの日から。


 長いこと閉め切っていたカーテンを引き開けると、まだ高い位置にある太陽が狭い部屋を明るく照らし出す。

 

 男の一人暮らしだ。置いてある家具なんて限られる。


 食卓代わりに使っているローテーブルも、同じ位置にしか座らないから毛並みがそこだけヘタレてしまったラグマットも、全部学生時代からずっと使っているものだ。

 唯一ベッドだけは就職の時にいい物に買い替えたけれど。どれもこれも愛着があって捨てられない。


 中でも一番のお気に入りは本棚だ。壁を埋める、天井から床まで届く大きな本棚。この部屋に引越してくる時に持ち込むのに一番苦労した。

棚にぎっしり詰まっている本たちも一緒に、だったからその時のことは思い出したくもない程だ。


 今は電子書籍なんていう便利なものもある。かさばらないし重くないしずっと楽だと知っているけれど、どうしても紙の本を買いたくなってしまう。


 この部屋に引越して来てからも本は増え続けて、入りきらない本が床に山脈を成している。床が抜けないのが不思議なくらいに。


 昔の俺がこの部屋を見たらなんて言うだろう。まだ制服を着ていた頃の俺は、本よりもゲームが好きで、ゲームよりもサッカーや野球をして体を動かすのが好きだった。


『あのね、この作家さんが好きなの』


 本が好きだったのは、どちらかといえば彼女の方だった。


『少し切なくて、どこか悲しい話なんだけど。最後には主人公の女の子が前を向いて歩いてくの』

 

全然ハッピーエンドなんかじゃないんだけどね。咲良も読んでみてよ。

 そうだな、気が向いたら読んでみるよ。


 そんな会話をした事を思い出したのは、彼女が俺の元から去ってからだ。


 大学の教科書を探しに行った本屋で、たまたま彼女が好きだった本を見つけて。読むと約束して、結局読まなかったことを思い出した。


 寂しさと懐かしさから本を買って帰って、読んでから後悔した。

 もっと早く読むべきだった。彼女が何をいいと思い、何で笑い、何で泣いたのか。もっときちんと聞けばよかった。


 美月の面影を追い求めるように、彼女の好きだった作家の本を読み漁った。そこからだんだんと他の作家の本へと波及していき、いつしか本棚の棚が無くなるほどに増えた。


 本はいい。自分とは違う人生を体験できる。幸せな恋も、ハラハラするようなサスペンスも。


『ごめんね、咲良』


 切ないだけの俺の人生よりも、物語はよほど魅力的だった。


 本を読んでいる時だけは、全てを忘れられた。

 

 どうして彼女は俺の元から去ったのか、とか。

 俺の何が悪かったんだろう、とか。

 彼女はどこにいるんだろう、とか。


 延々と続く答えの無い問いからも。ことあるごとに見る、彼女が去っていくあの悪夢からも。逃れることが出来た。


 物語のおかげで、俺は人生に絶望せずに済んだ。それは決して大げさじゃない。


「それにしても、疲れたな」


 編集者という仕事は、思っていたよりもずっと大変だ。いい物語やいい論文を書く作家は個性的な人が多いし、気分屋だったりする。


 そうした彼らの機嫌を損ねないように。けれども原稿を落として記事に穴を空けないように。綱渡りのような日々は精神的に辛いところもある。


 そうして苦労して作った論文誌はだけど、実は不採算の部類に入る。

 大学の研究者はよく読んでくれているらしいけれど、一般の読者には受けが悪いそうだ。


 俺だって、入社するまでこんな雑誌があることなんて知りもしなかった。だから確かに、それは仕方ないことだと思うけれど。


 折角作った雑誌が、そんな風に言われるのはすごく寂しい。いまだって帰れない程忙しいのに、あんまり報われていないような気さえしている。


「はやく異動できたらいいのになぁ」


 着替えもせずにベッドに寝転がりながら、ぼんやりと考えた。俺が本当にやりたかったのは、雑誌じゃなくて単行本の編集だ。


 昔美月が好きだと言っていたあの本のような。どん底の俺を救ってくれたような。そんな本の編集に携わりたい。


 そして願わくは、その本が彼女の目に触れてくれたらいい。


 俺が作ったと知らなくていい。むしろ知らない方がいい。

 けれど、その本で彼女が泣いたり笑ったりして欲しい。お気に入りの本の1冊として、長く手元に置いて欲しい。


 せめて会えないのなら、そのくらいの願いが叶ってもいいと思うのだ。


「ともかく、今の仕事頑張らないと」


 誰もいない部屋で、誰に聞かせるわけでもない決意を口にしながらごろりと寝返りをうった。

 やっぱり徹夜続きはよくない。眠くて何もする気が起きない。


 ひと眠りして、シャワーを浴びよう。全てのことはそれからだ。


 俺は全てを放棄して、瞼を閉じた。忘れていた重力を思い出したように体が重くなって、力が抜ける。


 今日はよく眠れそうだ。


 少し眠ったら、溜まった本をどうにかして部屋の掃除をしよう。ちょっとだけ凝った料理を作って、のんびり食べよう。


 ほんの小さな幸せ。それらを積み上げるように、日々を送る。それが俺の最善だと、本気で信じている。


 彼女が隣にいない時点で、本当の意味で幸せになどなれる訳もないのだから。


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