三、真昼の月
なりたい職業に就けば、それだけで幸せに生きられるのだと思っていた。
たとえ心から愛した人と別れることになっても。望まない結婚をする事になっても。自分の人生を生きられるのだと。
「今日はうまく行くかなぁ」
「どうですかねぇ、いろいろ試してはいますけど」
「ダメな時って、どうやってもダメよね」
「ま、そんな時もありますよ」
朝のロッカールーム。同じ研究室で働く佐藤さんと並んで身支度を整えながら、もうずっとかかりきりの研究に思いを馳せた。
私の職業は『研究者』だ。既にある製品の改良改善や新商品を生み出すために、毎日色々な実験を繰り返している。
昔から、顕微鏡を覗いたり実験をしたりすることが好きだった。事実をひとつひとつ積み上げて、結果に辿り着くことが楽しかった。
いつからか私は研究者になるのが夢になって、大人になった今、企業に属する研究者として夢を叶えた。
なのにどうしてか、時々空しい気分に襲われる。幸せだ、と胸を張って言えない自分がいる。
それはこの閑散としたロッカールームのせいかもしれない。
窓が無く光の差さない、薄暗い小部屋。壁一面に並んだロッカーの中、名前が入っているのは数えるほどだ。
世間では「リケジョ」だなんだと騒がれていても、実際に企業の研究職に就こうと考える人は少ない。
今の会社だってそう。化粧品会社だから少しはマシかと思ったけれど、働く研究員の大半は男性が占めている。
女の肩身の狭さを厭でも味わってしまうこのロッカールームが、私は何となく苦手だった。
「そういえば、昨日も合コンでドン引きされちゃって」
「どんな話をしたんですか」
「どうやったら完全犯罪が成立するかって話」
「そりゃそうですよ」
ぼんやりと私が憂鬱な物思いに耽っているあいだに、話題は佐藤さんの合コン話に移っていた。
あっけらかんと話す彼女に、思わず笑ってしまう。同時に、合コンにまで来て完全犯罪の話を聞かされてしまった男性陣に少しの同情。
佐藤さんはこの手の話が好きだ。推理小説やドラマが好きで、よく見ては手口を客観的に分析するのが好きなのだという。
合コンでくらい、やめておけばいいのに。
「合コンって、男性の話に相槌うって『すごーい』とか言ってればいいんじゃないですか?」
「かもねぇ。でも私、男に媚び売るのって嫌いなの」
「でしょうね」
すらりとした長身と、長い手足。きりりとした涼しげな目元も、彼女のクールなイメージを加速させる。外見もそうだけど、誰に対しても物おじせずはっきりと物が言える性格も、同性の私からすれば憧れの対象だ。
傍目から見ても美人な佐藤さんだから、私はいつも不思議に思う。
どうしてそんなに、合コンへ足繁く通うのか。
「佐藤さんなら合コンなんて行かなくても引く手あまたでしょうに」
「それ、婚約者がいる栗原ちゃんが言っても何の慰めにもならないって知ってた?」
袖を通した白衣の襟を正しながら佐藤さんが冗談めかして私に掛けた声に、言葉が詰まった。
首から掛けようとしていたIDカードを取り落として、拾おうとするのにうまくつかめない。
倫さんと婚約したのは、私が望んだことじゃなかった。夢を叶えるために、仕方なく受け入れた事だった。
『何かを得たいのなら、何かを諦めるのね』
遠い昔に聞いた、母の言葉を思い出す。
『夢を諦めるか、彼を諦めるか。両方は駄目よ、1つだけ選びなさい』
私が望んだ訳では無かった。だけどこの日々は、私が選んだものだった。だってこうでもしないと、私は夢を叶えられなかった。
母に、家に抗う術を知らなかった私は。夢のために、恋を諦めた。
だから、今の境遇を羨まれても嬉しくない。あの時の母とのやり取りを思い出して、息が止まるような思いを味わうだけだ。
「ああ、ごめんごめん。そんな顔させたかったわけじゃないの。はい、IDカード」
私が動揺したのを見て、佐藤さんは慌てた様子でIDカードを拾い上げた。
思うように動かない身体をどうにか叱咤して、ぎこちない動作でそれを受け取る。
ありがとう、と小さな声になってしまう自分が厭になる。
自分の選んだ結果なのだから、いい加減受け入れなくては。いい大人なのに、なんて諦めが悪いんだろう。
「でも、やっぱりこの年になると焦るのよ」
「この年って……佐藤さん全然綺麗じゃないですか。それに焦るような年でもないでしょう?」
「ありがとう。でもやっぱり両親を安心させてあげたいじゃない。私だって、アラサーだし。研究職なんていう、男っ気の無い職に就いちゃったし」
ロッカーの扉をパタンと閉めて、佐藤さんは寂しそうな顔をした。
「本当はさ、両親には結構反対されたの。大学院に進むのも、ここに就職するのも。『婚期が遅れる』『嫁の貰い手がいなくなる』って。それでもわがままを押し通して、私は夢をかなえさせてもらえた。だからせめて両親が元気なうちに、安心させてあげたくて」
でも駄目ね、全然うまく行かない。
そう言って彼女はヘラリと笑ってみせた。努めて明るく見せようとする彼女の笑みが、かえって寂しそうに見えて切なくなる。
『女は結婚したら仕事を辞めて家庭に入るべき』
『なるべく早く結婚して、子供を産むべき』
そんなことが声高に叫ばれていた時代はもう遠い昔になった。頑張れば女だって男と同じ様に働けるし、上を目指せるようになった。
だけど、どうしたってこの手の話題と無縁ではいられない。
特に、子供を産むとなると女にはタイムリミットがある。それに間に合わせようと思ったら、一番仕事が楽しい時に離脱しなくちゃならない。
仕事を続けること。女としての幸せを手にすること。2つを両立させるのはとても難しくて、だからこそ私たちは常に選択を迫られる。
男だったら。そう思う日が無いとは言い切れない。
たったひとつ。ほんのちょっと。XとYの違いというだけで。私たちはこんなにも遣る瀬無い思いを抱えて生きる羽目になっている。
誰も悪くない。だからこそ性質が悪い。
「栗原ちゃんが、そんな顔する事ないのよ」
さっきとは違う、どこまでも優しい笑みを浮かべた佐藤さんが私の顔を覗き込んだ。
「私、どんな顔してます?」
「なんか、痛そうな顔」
痛いの痛いの飛んでいけ―。
小さく呟いてよしよし、と頭を撫でられた。もうそんな歳ではないのに、と思いながらどこか嬉しくなる。
「落ち込んでなんかいられないね。今日こそいい結果が出るように頑張りましょ」
「そうですね」
扉を開けて、研究室へと廊下を歩きだした佐藤さんの背を追いながら、私はひっそりと息を吐いた。
女だから、なんて言い訳だ。
自分の選んだ道を受け入れられない自分の弱さが、一番性質が悪い。
私は、幸せだ。幸せなはずなのだ。
今以上、なんてありはしない。