二、鏡に映る花
『大好きだよ、美月。俺、美月とずっと一緒に居たい』
『そうね、そうなれたらいいわね』
俺は今、夢を見ている。
それがはっきりとわかるのは、目の前に彼女が立っているからだ。昔通っていた高校の制服を着て、俺の言葉に嬉しそうに微笑んでくれる。俺が大好きだった、優しい笑顔で。
幸せな時間はだけど、永遠には続かない。場面はどんどん変わり、最後にはあの桜の木の下へと辿り着く。
『ごめんね、咲良』
何度も見た悪夢だ。顔を背け、去り行く彼女の背に、俺は何度となく手を伸ばす。今日こそは、と必死になって追いかける。
あと少しで手が届く。その瞬間――。
「おい、起きろ。デスクで寝るな」
「……編集長。おはよーございます」
ペシリと後頭部を叩かれて、夢から覚めた。今日も届かなかった、と心が沈む。たかが夢だけど、夢だからこそ届いて欲しかった。
中堅どころの出版社に就職して早3年。この春の人事異動で俺は文学系の専門誌の編集部へ配属された。主に大学の教授先生たちの論文が載るような、論文誌だ。
それまでいた漫画雑誌の編集部とは勝手がまるで違うが、忙しさはそう大差ない。締め切りを破られる頻度も、同様に。
昨日もそのせいで家に帰れず、デスクで寝落ちして悪夢を見る羽目になってしまった。
「で、届いたのか? 原稿。そのために待ってたんだろ?」
「届きませんでしたー。待ち損ですよ」
俺は机に身をうつぶせたまま応えた。昨日の電話で『今日中には絶対送るから!』と約束した、締め切り破り常習犯の声が耳の奥に蘇る。
それを信じて編集部のパソコンの前に張り付いていたのに、結局メールの一通も来なかった。
大学の先生が約束破っていいのかよ。嘘つきめ。
「査読もしてもらわにゃあかんしな……。よし、なんとかして今日中にもぎ取ってこい。そしたら今日は家に帰っていい」
「いいんですか? わかりました!」
帰っていい。その言葉に少し元気が出た。家に帰れる。なんて魅力的な言葉なんだろう。
悪夢の余韻も、デスクで寝落ちしたことで逆に溜まった疲労も、いっぺんに吹っ飛んだ。
俺はもはや覚えてしまった先生の携帯番号へと電話を掛ける。
そういえばあの人は朝に弱かった。もう起きているだろうか。起きていなかったとしても、出てくれるまで掛けるだけだけど。
「はい、杉元です」
俺の心配に反して、わずか数コールで眠たげな男の声が電話口から聞こえてきた。どうやら今日の俺はツイてるらしい。
このまま原稿も回収できればいいんだけど。
「おはようございます。杉元先生、吉野です」
「ああ、さくらちゃんか。おはよう」
「……先生、その呼び方はやめてください」
「なんで? 吉野咲良。いい名前じゃん」
さくら。滅多に呼ばれない下の名前は、俺のコンプレックスだ。春生まれだから、と両親が付けた女のような名前。それに、桜には苦い思い出もある。
「もういいです……。それより先生、原稿できてます?」
「ああ、うん。出来てるよ。朝ごはん終わったら送るね」
「今! すぐ! 送ってください! 電話繋げたまま待ってますから!」
呑気な相手の声に、寝不足の頭がイライラする。俺は家に帰りたいんだ。
「えぇ……俺朝ごはんはゆっくり食べたい派なんだけど……」
「知ってますよ。年下の彼女さんが作ってくれる美味しい朝ごはんなんですよね? だからこそです。嫌がらせです。リア充爆発しろ、じゃなかった。すいません。まあ、でもこうすれば今度からは早めに原稿上げる気になるでしょう?」
「彼女じゃないよ、婚約者。俺リア充でも何でもないし、ひどくない? まあいいや、仕方ないな。ちょっとまってて」
ため息と共に、電話口から声が遠ざかる。原稿は無事回収できそうだ、と俺は安堵した。この後のスケジュールを考えても、本当に今日がギリギリのデッドラインだったのだ。
やっぱり今日は、ツイてる。
ほどなくして、俺のメールボックスに杉元先生からメールが届いた。念のため添付されていたファイルを開いて中身をざっと確認する。
大丈夫そうだ。データの破損もなく、字数も規定通り。
「届いた?」
「ええ、届きました。今度からはもっと早くお願いします」
「ふぁい」
何かを口に含んでいるのか、もごもごと返事が返って来た。
……いいなぁ、手作りの朝ごはん。実家を出てから、食べられる機会はぐんと減った。
「さくらちゃんも恋人に作ってもらえばいいじゃん。朝ごはん」
「え? ああ、残念ながらそんな相手いません」
心の呟きがうっかり漏れてしまったのか、そんなことを言われてしまった。少し前まで彼女はいたが、丁度盛大に振られたばかりだ。
それこそ、本当に数日前に。
仕方ないだろうな、と大して傷つきもしなかった。きっとそれも振られた原因の1つだ。
『ごめんね、咲良』
たとえ何人彼女が出来ようと、ふとした瞬間にあの面影を思い出してしまう。俺に別れを告げる瞬間の、痛みをこらえるような彼女の顔。
別れることが、不本意だと言いたげな。
馬鹿な男が、再会を願ってしまうような。そんな顔が、ずっと消えずに残っている。
そんな俺が他の女性と長続きするはずもない。
水に浮かんだ美しい月のように俺の手をすり抜けてしまった彼女のことを、未だに忘れられない俺なんかが。
「そうだ。今度俺にも会わせてくださいよ。先生の婚約者さん」
「絶対やだ。さくらちゃんに会わせたら盗られそう、俺の未来の奥さん」
「まさか、盗りませんよ」
俺より10近くも年上の癖に、彼の声は大人げなく必死だった。それまで眠そうだった声が、泡を喰ったように焦り出す。
その様子が微笑ましくて、羨ましい。きっと彼女のことを心底大事にしているのだろう。
『愛してるよ、美月』
不意にあの頃の暖かい感情が蘇ってきた。
誰よりも大事だった。ずっと隣にいて欲しかった。どこにも行かないで欲しかった。
そしてそれは、必ず叶うのだと信じていた。
……一体俺は、どこで間違えてしまったのだろう。
もしもう一度会えたなら、今度は間違わない。二度と離さない。たとえそのせいで、何を失っても。
「だから、会わせてください」
「……しょうがないな。今度聞いてみるよ」
きっと会うことなんて、もう二度とないだろうけれど。
だからこんな決意を固めたところで、何の意味も無いのだ。
とりあえず、書き出し祭りで公開したものを加筆して1話、2話として公開してみました!
鋭意、書き溜め中です…!五月末には連載に関して何らかの告知をtwitterでするつもりですのでよろしくおねがいします!!