一、水に浮かぶ月
さらりと風が頬を撫ぜたような気がして、目を覚ました。
晩春から初夏に差し掛かる時期とはいえ、朝はまだまだ肌寒い。寝坊助な同居人が風邪をひいてしまわないように、窓を閉めようと身を起こしたところで違和感に気付いた。
「窓、閉めてあるじゃん……」
風が吹いたのは、私の夢の中だけだったみたいだ。
どんな夢だったっけ、と思い出しながら体を伸ばす。
まだつぼみが多い桜の木の下。チェックのスカート。それから、彼の傷ついたような、泣き出しそうな顔。それだけ思い出せれば充分だった。
「……また、あの夢」
勢いよく天井に向けて伸ばした自分の腕から力が抜けて、布団の上に落ちる。途端に夢の光景が脳裏にまざまざと蘇り、胸が締め付けられたように痛んだ。
あれはまだ私が恋をしていた時の、そしてそれが儚く散った日の夢だ。
『ごめんね、咲良』
あんなに悲しい別れだったのに、胸が張り裂けそうに辛かったのに。夢の中で見るあの頃の思い出は、美しくて愛おしい。
『大好きだよ、美月。俺、美月とずっと一緒に居たい』
『そうね、そうなれたらいいわね』
彼は誰よりも私を大切にしてくれた。愛してくれた、好きだと言ってくれた。それがたまらなく嬉しかった。
最初で最後の、恋だった。間違いなく。
だから私は戻りたいと願ってしまう。最後には辛い思いをすると知っているのに。
子供の口約束なんて、叶いっこないってわかっているのに。彼と別れなかった未来を何度も何度も夢見てしまう。
「鏡に映る、花」
あの夢を見る度に、そんな言葉が心に浮かぶ。
鏡に映る花は華やかで美しく、人々の目を楽しませてくれる。けれど、本物には決して触れられない。伸ばした手が、指ができることは、冷たい鏡の表面をなぞることだけだ。
手に入らない。触れることも出来ない。それでも、手を伸ばしたくてたまらなくなる。そんな夢を見ることは、私にとってとても美しく、残酷な仕打ちだった。
暖かなベッドを抜け出して、小さく息を吐く。あの夢を見ると、自分がひどくズルい人間のように思えてしまう。週半ばの水曜日だと言うのに、憂鬱な目覚め方をしてしまった。
「……っん、みつきぃ」
のそのそと服を着替えたところで、ベッドの中から眠そうに私の名を呼ぶ声がした。
「倫さん、今日は早起きでき……るわけないか」
期待を込めて振り返ってみたけれど、ベッド上の布団の塊が起き上がる気配は無い。
布団の塊の中心にいるのは婚約者の倫さん。彼はそれこそ病的なまでに早起きが苦手だ。私より先に起きられたためしがない。
ついさっき私を呼んだのも、どうやら寝言だったらしい。仕方のない人だ。
布団の端から覗く髪をそっと梳いてから、寝室を出る。
朝の洗顔と、化粧と、朝食と。自分の用を一通り済ませると、彼の分の朝食とお弁当の用意に取り掛かる。
栄養のバランスを考えつつ、慌ただしい朝や忙しいお昼休みでも食べやすい簡単なものを。大の大人に対して過保護すぎるような気もするけれど、そうしないと面倒くさがりの彼はご飯を抜いてしまうのだ。
『一食や二食抜いたくらいで死なないよ』と当の本人は笑うけれど、そうでなくとも線の細い見た目をした彼のことだ。心配にはなる。
「できた」
お弁当を綺麗に詰めたところで、家の固定電話が鳴った。こんな朝から、しかも家の電話にだなんて珍しい。誰からだろう。
「はい。えっと、杉元です」
急いで受話器を取る。少しの戸惑いを含んで唇から滑り落ちたのは、まだ私のものではない新しい名前だ。
「朝早くにすいません。飯田です。あれ? 杉元先生は?」
「あぁ、杉元ならまだ寝てますけど。伝言しましょうか?」
電話口で焦った声を上げるのは、私より3つか4つくらい年下の大学生くらいの男の子。どうやら倫さんの教え子らしい。
家の電話が鳴ったのにも、それで合点がいった。倫さんが携帯の番号を教えるのは、親しい間柄の人だけだから。自分のテリトリーに踏み込まれるようで嫌らしい。偏屈な人だ。
「あ、じゃあお願いします。今日のゼミなんですけど、就活の面接被っちゃって行けそうになくて。欠席します、すいません。って伝えといてください。」
「はい。わかりました。頑張ってね」
「はい! ありがとうございます。朝早くからすいませんでした」
受話器を置いて、簡単にメモを残す。就活、懐かしい響きだ。
「今の、誰?」
過去を懐かしんでいたら、眠そうな声と共に背中が重くなった。倫さんが起きてきたらしい。
「飯田くん。今日のゼミ、就活の面接があるから休むって」
「いいだ? ああ、そう。にしても朝早すぎでしょ」
私の背中にへばりついて、彼は肩甲骨の辺りに頭をぐりぐりと擦り付けた。
仕草としては可愛いけれど、それを今年で35になる大の大人がやっていると思うと滑稽さが先に立つ。
「きちんと連絡してくれたんだからいいじゃない」
「よくない。俺より先に美月の声を聞くなんて許せん」
「そう思うなら早く起きてください」
おどけて少し強い口調で言えば、彼は黙ってしまった。早起きが苦手なことを、少しは気にしているみたいだ。
気にしているのなら、早く起きれるように工夫をすればいいのに。それが出来ないところが、彼の欠点であり、可愛いところだ。
「それにしても、美月が『杉元』って名乗るのなんかいいね。嬉しい」
「そう?」
「うん。美月、大好き」
彼はいつも、本当の恋人のように私を扱う。互いの親同士が決めたこの婚約に、愛や恋は存在しないだろうに。
それに私はどう言葉を返したらいいのかわからない。彼を愛しているのか、それすらも。「私も好き」と返せたらいいのに。なぜだか喉に詰まってうまく言葉にならなくなる。
「ありがとう、倫さん。私、そろそろ私行くね。ちゃんとご飯食べてね」
「うん、行ってらっしゃい。気をつけてね、美月」
『ねぇ、咲良。大好きよ』
夢の中の彼には、自信を持って言えたのに。
どうしてだろう。倫さんには「ありがとう」を告げるだけが精一杯だ。
間違いなく私は幸せなのに。どうして私は今でも彼を忘れられないのだろう。どうしてこんなにも胸が痛むのだろう。
二度と会えない彼のことを、何度も思い出したところで何の意味も無いのに。
わかっているのに、やめられないのだ。