第三章
第三章
生きてきて初めての事に、悠は緊張していた。
目の前の人を怒らせた記憶がないのに、物凄く怒っている気がするのは気のせいではなさそうだ。
「冬夜にちょっかいかけないでくんない? 迷惑なんだよね」
「……へ?」
名前を出されて、一瞬誰かと考えた。
普段男子とほとんど接点がないのに、名前なんて覚えている存在の方が少ない。記憶を探りながら、ふと思い浮かぶ人物が一人。
「桜君の、事……かな?」
「は? 今更何言ってんの? さんざん付きまとっといてさ」
付きまとっているつもりはないけれど、とても悠が言い返せる相手ではなさそうだ。悠はただただ戸惑うばかりである。
「あんたみたいなダッサイ女に纏わり付かれちゃ、冬夜も迷惑なんだよ。次そういうの見たら、絶対許さないから」
三人掛りで壁に詰め寄られる威圧感の中、悠は両手を握り締め、オロオロしていた。
「あの……で、でも……私……」
そんなつもりはないと、微かな勇気を振り絞り悠が反論しようとした時。緊張感を簡単に破る明るい声が聞こえた。
「おい、見ろよ。まるで漫画みたいな光景みーっけ」
紙パックのジュースを片手に、楽しそうに言う樹と、その隣で無表情に立つ冬夜がいた。
「ゆり、お前、何やってんの?」
「と、冬……夜……こ、これは……」
言い訳を考えているのか、ゆりと呼ばれた女生徒は焦りを隠せずにいた。
「いいんちょー、大丈夫?」
軽い足取りで近寄ってきた樹に言われ、悠は大丈夫と短く答えたが、ゆりと冬夜の空気に困惑するしかなかった。
冬夜はゆりの前に立つ。長身の冬夜が見下ろすかのように鋭い視線をゆりへと向ける。
「お前にこんな事する権利ねぇだろ。仮に付き合ってるとしても、こんな事する女、好きになんてなんねぇよ。しょーもねぇ事してんじゃねぇぞ。ダセェのはお前だろ」
「そう、だけど……でもっ」
反論する言葉を発するゆりを目だけで制止し、冬夜は先ほどより少し雰囲気を柔らかくして続ける。
「委員長が俺につきまとってんじゃなくて、俺が勝手に委員長の事好きなだけだから、委員長は悪くねぇよ」
ゆりに背を向けると、冬夜は来た道を戻っていった。背を向けていても、ゆりが泣いているのだけは分かった。しかし、悠にはどうにもできなかった。
樹に促され、その場から離れる悠の頭には、先ほどの冬夜の言葉がぐるぐると回っていた。
隣を歩く樹は、ストローを軽く咥えながら横目で考え込む悠を見ている。興味があるのかないのか分からない顔で、悠を穴が開くのではないかというくらい見つめていた。
しかし、当の本人は何も気付いてはいないようで、ずっと真剣な顔で考え込んでいる。
「ねぇねぇ、いいんちょーはさぁ、冬夜の事どう思う? 怖い? 格好いい? 可愛い? 嫌い? 好き?」
「えっと、あの、うっ、そのっ……」
物凄い勢いで詰め寄る樹に、悠は圧倒されて何も言えずにいた。何がなんだか分からず、悠の頭はもう爆発寸前だった。先ほどの事といい、冬夜の告白といい、悠にはもう抱えきれなくなっていた。
「えっ!? ちょっと、いいんちょっ、委員長っ!!?」
面白半分も入ってか、樹はいつも以上に調子に乗ってしまった事を後悔した。まさか目の前で目を回して倒れるとは、思っても見なかった。
倒れた悠を抱き上げ、樹は授業開始の鐘が鳴り響く廊下を走り抜け、保健室へと急いだ。
本人は知ってか知らずか、倒れた後、悠は樹に何度も頭を下げまくる姿が色んな生徒に目撃され、悠は少しだけ有名になってしまった。
そして、冬夜とは何故か全く関わる事がなくなってしまった。何とももやもやしながらも、悠は何も出来ないでいた。
もちろん、気にならないと言ったら完全に嘘になる。どちらかといえば、物凄く気になって仕方ない。告白の事があって以来、冬夜を探している自分がいる。見つけたところで何が出来るわけでもないのに。そもそも、直接言われたわけではないので、もしかするとあの場で吐いた嘘なのかもしれない。
「そうか、そうだよね、絶対そうだ」
不良と言われながら怖がられてもいるけれど、その反面、人気がないわけではない。
どちらかといえば、友人が多い部類の人間ではある冬夜は、もちろん女子にも人気があった。そんなモテる冬夜が、地味で何のとりえもない自分に惚れるとはどうしても思えなかった。
自分に言い聞かせるかのようにそう呟き、悠は図書室へ入った。
つもりだった。
本を持たない方の腕を誰かが掴んでいた。
「ちょっと、話し……したいんだけど……」
控え目に言った言葉とは違い、腕を掴む力は強い。真剣な顔の冬夜の願いを断る事も出来ず、悠は静かに頷いた。
無言のまま廊下を通って冬夜の後を付いて行くが、明らかに歩幅が違う筈なのに、歩き辛さを全く感じない。
正直、冬夜の事は怖く思った事もあるし、優しいイメージも持ってはいなかった。どちらかといえば、人に、女に興味を持っているようには見えなくて、だからこそ悠も必要以上に関わる事もなかった。
そんな冬夜が自分を助けたり、優しくされると、あの告白が嘘だとはどうしても思えなくなり、変に意識してしまう。
校舎内にある人気のない空き教室に促されて足を踏み入れる。
向き合うような状態で立ち、不思議な沈黙の中、冬夜の顔を見ると、何か言いよどんでいる様で難しい顔をしている。
「……大丈夫?」
一歩近付いて、顔を覗き込む悠に、冬夜は少し身体をビクつかせ、目を見開いた。そして、大きくため息を吐き、しゃがみ込んだ。
「えっ!? ど、どうしたのっ!? 桜くっ……」
同じように座り込み、冬夜の腕に手を置いた。すると、ガシガシと頭を掻き、自分の腕にあった悠の手を握る。
「やべぇ……やっぱマジで好きだわ」
「え?」
「委員長、俺の彼女になってよ」
しゃがんだまま顔だけを悠に向け、握っている手に少しだけ力を込めた。
悠は固まっていた。まさか本気でそんな事を言われるとは思ってもいなかったうえ、目の前の男のこんな愛おしそうな表情を見た事がなく、それが全て自分に向いていると思うだけで、顔の熱が上がるのが分かった。
どうしていいのか分からず、恥ずかしくなって立ち上がろうとするが、それを冬夜は許さなかった。
「逃げないで、頼むから……」
縋る様に言われた悠が、その願いを蹴ってまでその場を離れる事はできなかった。
「俺、こういうの初めてでさ、困らせてんのも分かってるし、俺もどうしていいかわかんねぇんだけど……」
困ったように苦笑する冬夜を、悠は少し微笑ましく思えた。自分も恋愛に関しては得意な方ではないが、まさかモテていて女に不自由していない冬夜のような人間が、恋愛初心者とはどうしても思えない。しかし、目の前にいる冬夜は間違いなく自分の中の恋心に苦戦しているようだった。
「やっぱ、ダメ……だよな。俺、真面目じゃねぇし、お世辞にも素行がいいとも言えねぇし。つりあわねぇって分かってるけど……でも、好きなんだ……」
少し苦しそうに言う冬夜に、悠は自然と口が開いていた。
「桜、君はいい人だよっ! こんな私にも優しくしてくれるし……。あの、でも、私、付き合うとか、よく……分からなくて……桜君の事も嫌いじゃないけど……えと、そういう意味で好き……かは、分からない……。桜君の事も、よく知らないし」
必死で言葉を紡ぐ悠に、冬夜は立ち上がり少し悠に近付く。
「じゃ、これから知ってって、俺の事」
優しい声が降ってくる。下げていた頭を上げると、そこには冬夜の微笑みがあった。見た事のない表情をまた一つ見た気がした。
「お友達っ!」
「……ん?」
「とりあえず、お友達、じゃ……ダメ、かな?」
冬夜を上目遣いで見る悠に、冬夜は目を丸くしたが、すぐに笑顔を見せた。
「ま、いいか。じゃ、とりあえず、よろしくな、更科さん」
白い歯を見せて無邪気に笑った冬夜に、悠の鼓動が少し大きな音を立てたのだった。
続