上手な魔王のつくり方
琴子は思い切って手を伸ばした。
黄色い果実に触れる前にぐらりと小さな身体が揺れる。
「おっとと。大丈夫か? 魔王サマ」
「う、うん。平気です」
琴子を肩車してくれている龍の青年、ラグスに頷いてみせ、もう一度チャレンジする。今度はしっかりと果実をもぎ取ることが出来た。
琴子は果実の爽やかな香りを胸いっぱいに吸い込み、笑顔になる。
異世界に来て半年。今日も幼い魔王はのんびりと過ごしていた。
始まりは階段だった。急いで降りていたせいで足を踏み外し、頭から落ちた。
そのままだったら怪我をしただろうが、なんと琴子は落ちた拍子に異世界に紛れ込んでしまったのだ。
「落ちたところがここで良かった」
「ん? なんか言ったか?」
「ううん、なんでもないです」
「そうか? 遅くなるとフィルのヤツがうるさいから、そろそろ帰るぞ」
「はい」
琴子を肩車したまま、ラグスは果樹園を大股で歩きだす。その周囲を警戒しながら移動しているのは魔王の近衛である黒い甲冑姿の魔物達だ。最初は悲鳴をあげて怖がった、人ではない恐ろしい造形の彼らにもすっかり慣れてしまった。
「ラグスさん、今日もいい天気ですね」
「ああ、そうだな。眠くなっちまう」
銀髪に蒼い瞳を持つ精悍な青年の姿をしたラグスは琴子の言葉に大あくびをした。それに小さく笑い、琴子はもう一度青い空を見上げた。
――この異世界に来て、琴子は魔物達に大切にされている。魔王として、崇められている。
「ラグスさん」
「なんだ?」
「本当にわたしが、その。魔王様の魂を持っているんでしょうか?」
「なんだ。まだ疑ってんのか。ああ、持ってるぜ。ばっちりわかる。どこにいたって、この魔力はわかるな。間違えっこねえよ。お前さんは、魔王だよ。俺達が何百年も捜し求めていた、な」
「……そう、ですか」
何度聞いても琴子には実感がわかない。琴子のような子供が……それも、別の世界で生まれた、ただの小学生が魔王だなんて。
(それに……わたし、グズで何一つ上手く出来ない駄目な子なのに)
母のヒステリックな怒鳴り声を思い出して身をすくめると、ラグスが訝しげな目を向けた。
「……どうした? 何に怯えてる?」
「あ……う、ううん。じゃなくて、いいえ。なんでもない、です」
たどたどしく否定すれば、いっそうラグスの眉がひそめられる。
「いいか? 魔王サマ。お前さんは、俺達の王だ。何があろうと俺達が守る。だから、どーんと構えてな」
「どーんと、ですか?」
「そう。ネリフィアみたいにでーんとでもいいぞ?」
「ネリフィアさんが聞いたら、怒りますよ」
いつでも色気たっぷりなグラマラス美女な魔族の名前を出され、琴子はくすくすと笑う。その笑顔にラグスがほっとしたように頬を緩めた。今度はやや真面目な声音で言う。
「……まあ、何があっても俺がついてるから、安心していてくれ。な、魔王サマ」
「……はい。ありがとうございます」
琴子は優しい言葉に胸がつまり、涙を堪えながら頷いた。
こんなに大事にされたことは、今までなかった。
琴子は小学五年生の、ごく平凡な子供だった。内気で大人しく、いつもおどおどと人の顔色を窺ってばかりの、ひどく臆病な子供だったが。
それは、彼女の家庭環境に原因があった。
彼女には双子の妹と弟がいる。二つ違いの弟妹に、彼女の母親はすっかり精神的に参ってしまい、そのストレスは大人しい琴子に向かった。
何をやっても叱られ、琴子はすっかり萎縮して育った。その上、見本となる良き姉としての役割も求められ、少しでも上手く出来ないと「出来損ない」と罵られる。一方で双子の弟妹は可愛いがられ、甘やかされて育てられていた。
母の口癖を思い出す。
――お姉ちゃんなのに、なんで出来ないの?
――お姉ちゃんでしょ。我慢しなさい。
いつも、いつも。琴子の番は後回しだった。琴子を一番に大事にしてくれる人なんて、いなかった。
――ここに来るまでは。
「……ラグスさん」
「おう」
「わたし、頑張りますね。皆のために一生懸命、いい魔王になります」
小さな手で拳を握って宣言すると、ラグスは嬉しそうに笑った。
「おう、そりゃ頼もしいな。まあ、頑張ってくれ」
「はい!」
琴子が大きく頷いた時、果樹園の入り口から魔族の青年がやってくるのが見えた。
「魔王様! お帰りが遅いのでお迎えに参りました!」
「あ、フィルさんです」
「ちっ、来やがったか」
琴子はラグスの肩の上で大きく手を振る。優しい魔族達に囲まれて、孤独だった少女はようやく笑顔を取り戻した。
少女は深く決意する。この優しい魔族達を守ることを。
――たとえ、この世界の人間達を敵に回しても。
何万もの魔族を統べる魔王は、ゆっくりと成長してゆく。少しずつ、その身に闇の力を蓄えながら。
人間達が光の勇者として双子の男女を召喚したのは、これより約七年後の事であった。