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09...水孕むドレス

「善く国を治めてくださること?」


 エレオノーラはきょとんと首を傾げ、次の瞬間にはくすくすと笑った。


「『好き』の意味が違うわ、エリザ様。私が聞いているのは、『王様』への賛辞じゃなくってよ」


 エリザとて、それは重々承知している。

 その上であえて言ったのだ。そういう意味の『好き』ではないのだと。敬愛はしても恋慕の情はないと遠回しに伝えたつもりだったのが……どうやら理解してもらえなかったらしい。 


「どうしたの、エリザ様。焦らさないで早く教えてちょうだい」

「ええと……」


 さて、どうしたものか――うっすらと眉を寄せて苦悩する。

 きらきら輝く表情のエレオノーラを見る限り、この場をやり過ごすにはレオンハルトを褒めておくのがベターだろう。

 だけどそれが難しいのよね、とエリザは思う。

 彼の長所を述べようにも、頭に浮かぶ彼の思い出は不法侵入やら婦女暴行やら脅迫やら、エレオノーラの前ではとても口にできないことばかり。そもそもそれらは長所ではなくて短所だ。万が一話したところで惚気ではなく愚痴になってしまう。

 内面がだめならば……エリザは決意した。

 かくなる上は外面で攻めるよりほかにない。


「陛下は内面もさることながら容姿もすばらしいと思いますわ」

「容姿」

「ええ。陛下のお美しいことといったら、まるで聖画に描かれる天使のようだと思いませんこと? 曇りひとつない黄金の御髪は見るたびに惚れ惚れしますわ。太陽の輝きさながらでとても神々しいのですもの」


 私の好みではないけれど、と心の中で付け足す。

 エリザはもっと平凡で無害そうな男が好きだ。レオンハルトみたいに煌びやかな鬼畜はお呼びじゃない。

 もっとも、それはエリザに限った話だ。大多数の女性は絵にかいたような美男子のレオンハルトを選ぶだろう。

 だから、この話題ならば確実にエレオノーラの欲求を満たせると思ったのだ。

 しかし窺い見た彼女の表情はお世辞にも芳しいものではない。

 あら? とエリザは首を傾げる。予想ならばここで食いついてくるはずなのに。


「……つまり、エリザ様は陛下のお姿が好きってことなのかしら」


 妙に神妙な声音がエリザに問いかける。

 エリザはしばしの逡巡の後、まあ嫌いではない、という結論に落ち着いた。

 美しいこと自体に罪はない。美人と親密な関係にはなりたくないが、遠巻きに鑑賞するくらいならば好きである。

 そういうわけで、エリザはエレオノーラの問いかけに肯定を返した。

 するとエレオノーラの視線が一気に冷える。


「最低」


 そう吐き捨ると、きょとんとするエリザ目がけて扇子を投げつける。

 エリザはそれを危なげなく避けた。幾度もの修羅場の経験で培われた反射能力は伊達ではない。

 危ないわね、と瞠目しながらエレオノーラを見ると睨めつけられた。


「どうして避けるのよ!」

「当たったら危ないかと思いまして」

「よくもまあぬけぬけと! 陛下の身体目当てで近づいた尻軽女のくせに!!」

「か、からだ……めあて……?」


 エリザの脳がフリーズする。

 思わぬ方向からの奇襲に鋼の精神が揺らいだ。

 エレオノーラがはじき出した事実無根な話はそれほどまでに衝撃的だった。


「あの、エレオノーラさま。私、別に陛下の身体には興味ありませんよ?」

「しらばっくれないで。さっき、陛下の容姿が好きだって言ったじゃないの!」

「そりゃあ言いましたけど……だから身体目当てというのはあまりにも安直ではありませんか?」

「じゃあ顔だけなの!? 陛下のうわべしか見ていないなんて、やっぱり最低じゃない!!」

「…………」


 もうついていけない。

 乙女の逞しすぎる想像力にはエリザの屈強な精神も太刀打ちできない。

 こういうタイプははじめてだというのが要因のひとつだろう。

 修羅場に慣れている自負はあるが、エリザが見てきたのは凶器を振り回したり毒を盛ったり、裏で悪計を巡らせるような人ばかりだったので、こういう人間は斬新である。

 呆然としながらエレオノーラの癇癪を聞く。


「陛下も陛下よ! どうしてこんな冴えない最低女にばかり構うの!?」


 酷い言いようであるが、内容には同意せざるを得ない。

 エリザとていつも思うのだ。せっかく後宮というものがあるのだから、自分のような冴えない女ではなく、もっと美しい姫君の元に通えばいいのに、と。

 そうすればこんな目にも遭わなかったはずだし、夜も安眠できるのに。

 だからエリザは頷いた。そして――無自覚のうちに本日最大の地雷を撒く。


「まったくです。陛下は何を考えていらっしゃるのだか」


 本心からの言葉だった。ただの純粋な同意だった。

 それ以外に他意はない。

 しかし、言われたエレオノーラの表情は処理しきれない怒りで凍りついた。

 馬鹿にされたと思った。近頃寵愛が深いから調子に乗って、陛下の訪れがない自分を馬鹿にしたのだと。

 もっともそれはまったくの誤解なのだが、エリザの本音など知る由もないエレオノーラには侮辱以外の何物でもない。

 彼女の頬がみるみるうちに紅く染まっていく。握りしめた拳がぷるぷると震え、青い瞳は涙の膜を揺らしてエリザを射殺さんばかりに睨む。

 蝶よ花よと大切に育てられた姫君は理性のブレーキが効きにくい。

 それゆえにエレオノーラは、瞬間的な怒りの爆発を抑えられなかった。


「最低っ!!!」


 腕を突き出して、力いっぱいエリザを突き飛ばした。

 鈍い衝撃がエリザの腹を襲う。

 とはいえ所詮は女の力。それも、フォークより重いものを持つ機会がない非力な姫のことだ。全力とはいえども相手に怪我を負わせるほどの威力はない。せいぜいたたらを踏む程度だ。


 しかし不幸にも、環境だけが致命的に悪かった。


 華奢なヒール。舗装されていない川べりの野道が足場。さらに、エリザは川とより近い方に立っていた。

 突き飛ばされてバランスをくずしたエリザの身体が後ろに傾く。

 叫ぶ暇もない。

 エレオノーラは口をあんぐりと開いて宙に浮く身体を凝視していた。

 ふわりと広がったスカートはあざやかな緑――王の色。

 緑を賜った幸運な女は水しぶきを上げて水の中へと落ちていく。

 緑が沈む。水面の下で揺れる。

 水中から伸びた白い手がぴしゃりと水を叩く。

 舞う飛沫が太陽の光を受けて宝石みたいに光った。


 しんでしまうのではないか。


 漠然とそう感じた。

 水を吸ったドレスは重い。スカートを膨らませるために何層にも重なったパニエは足に絡みつき、水を蹴る動きを阻害するだろう。水中にいるのだから、もちろん呼吸はできない。

 死の条件がすべて揃った最悪の状況だ。

 その状況を自分がつくりだしたことにエレオノーラは恐怖を覚えた。

 衝動的な行動。殺意と呼ぶには淡すぎる怒りだった。

 そのせいで人の命が失われるなど――いったいどうして想像できるだろうか?


「いや」


 エレオノーラはゆるやかに頭を振った。その動きはだんたんと速くなり、ついには幼子の癇癪のようになる。


「いやよ……ちがう、私のせいじゃないわ。だって私、死んでほしいなんて思ってないものっ!!」


 くしゃりと歪む顔。眦からぽろりと雫がこぼれた。


「だれでもいいわ、だから……早く来てよおっ!!」


 悲鳴じみた懇願。

 その直後、エレオノーラの滲んだ視界を鮮やかな黄金が駆け抜けた。

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