07...ティー・トラップ
後宮は南殿、赤石で作られた館のさらに奥。咲き誇る花々と陽光を透かす木々によって外界と隔絶された美しい庭園には二つの人影があった。
「おそい」
そう呟いて頬を膨らませるのはエレオノーラだ。陽光を遮るボンネットをかぶり、レースで編まれた手袋をつけた手で苛立たしげにゆるく波打つ赤毛をいじっている。
「シェリル」
「はい、ノーラ様。ただいま午後二時四十五分です」
エレオノーラの後ろに控える有能な侍女は、即座に懐中時計を取り出して時刻を告げる。お茶会の開始まではあと十五分。
時間の経過が遅いんじゃないかしらエレオノーラは思った。彼女の主観だと、待ち始めてからもうとっくに一時間経っているはずなのに。
彼女は今から十五分ほど前、つまりお茶会の三十分前からこの庭園でエリザを待ち構えていた。なにも暢気な子どものように、来たるお茶会が楽しみな訳ではない。断じてない。
のろくさやってくるであろういけすかない側妃に、来るのが遅い、なぜ待たせたと難癖をつける。ただそれだけのために、エレオノーラは三十分前から迎撃態勢をとっているのだった。
「ノーラ様。あなたはこんなことなさって楽しいんですか?」
「……ふん」
実のところ、待機時間が退屈すぎるものだから、この計画を実行したことを若干後悔し始めている。しかしそんなことをこのふざけた侍女に言えるはずもなく、エレオノーラは図星をつかれた動揺を隠すために扇を開いた。薔薇の透かし模様が施された扇は、エレオノーラの小さな顔を容易く隠した。何度か仰ぐと、寄せる風が花の香りをこれでもかというほど連れてくる。その芳しい香りは、エレオノーラのささくれた心を少しばかり和やかにした。
しかし、凪いだ心が荒れはじめるのは、それからすぐのことだった。
「――ごきげんよう、エレオノーラ様」
ふわり、とやわらかな声が振りかかる。エレオノーラはぱちんと小気味いい音をたてて扇を閉じた。
開いた視界にまず見えたのは、鮮やかな緑色のドレス。降り注ぐあまやかな光を受けて優雅な光沢を放つそれをみただけで、エレオノーラは声の人物がだれであるか、はっきりと理解した。
王の瞳と同じ緑色を纏う。それはすなわち、王の寵愛を受けていることを示す。
だから今、この色のドレスを着る権利があるのはただひとり。
「エリザ様……ごきげんよう」
抑揚のない声でエレオノーラが挨拶を返すと、白い日傘を差すエリザがほんのりと微笑む。相変わらず、ちっとも美しくないというか、面白みのない地味な顔だ。それを補う派手な化粧はしていないし、身を飾る宝石も最低限しか身につけていない。
ちっとも女としての向上心が見られない姿にエレオノーラは呆れ、そして大いに戸惑った。やはり、王がこのつまらない女に心を傾ける理由がさっぱりわからない。昨晩徹夜してなんとかこねくりだした、化粧をすると見違えるように美しくなるのかも、という予想が破られた今だとなおさらだ。
「ノーラ様」
思考に耽っていたら、背中を侍女につつかれた。吐息ともつかぬ小声は、さっさと挨拶しろとエレオノーラを非難している。
煩いわねぇ分かってるわよ、とちっとも分かっていなかったくせに心の中で呟いたエレオノーラは、気分を切り替えてエリザに笑いかける。
「急な申し出だったのに、こうして来てくださって嬉しいわ。でも正直ね、エリザ様は来てくだらないんじゃないかと思ったの。だって私、」
結構お待ちしたのよ、と続けようとした言葉は、音にならずに消えた。
今は約束の時間の十五分前。言外に来るのが遅いと告げるには早すぎる。
(せっかく三十分前から待っていたのに!)
エレオノーラの手の中で扇がみしりと音を立てた。
しかし、まだ諦めるのは早い。遅いとせめられないのならば逆をつけばいいのだ。
「エリザ様はいらっしゃるのが早いわね。約束の時間まではあと十五分も残っているわよ」
ちょっと早すぎるのではなくて?と、含みを持たせて言ってみる。
四方の方の一角である南の方の不興を買うというのは恐ろしいことだ。下手を打てば命にもかかわる。だからたいていの者ならば、ここで己に非がなくとも顔を青くして謝るのだが――……エリザはなぜかほがらかに笑った。
「お茶会のお呼ばれが嬉しくて、つい急いてしまいましたの。でも、改めて考えると無作法ですわね。御気分を害されたのでしたら申し訳ございません」
エレオノーラは言葉に詰まった。こうも無邪気に喜びを示されると、批難しようとするエレオノーラが悪者になってしまう。
これ以上はどうすることもできず、エレオノーラはしどろもどろに言葉を紡いだ。
「そ、そう。そんなに喜んでもらえるなら招いた甲斐があったというものだわ。とりあえず、座ったらいかが?」
「ありがとうございます」
エリザは礼を言って侍女が引いた椅子に腰かけた。その動作は、まあまずまずといったところか。ぎくしゃくした微笑みの裏でエリザの一挙一動に注目していたエレオノーラは、そう評価をつけた。可もなく不可もない顔と同じくらい、可もなく不可もない所作だ。早くボロを出してくれないかしら、とつまらなく思いながら後ろに流し目を送る。
その視線の意味を正確に理解したシェリルは、優秀な侍女らしい洗練された手つきで淹れたばかりのお茶をふるまった。お茶の芳しい香りが湯気とともに広がる。
「いい香りですね」
「そうでしょう。お父様の領地でつくった茶葉で淹れたのよ。どうぞ飲んでちょうだい」
「ありがとうございます」
ティーカップを手に取るエリザを見て、エレオノーラは心の中でほくそ笑んだ。
(かかった!!!)
実はこのお茶、『レガリアで一番苦いお茶』として悪名高い、香りはいいがすこぶる苦いものである。その味ゆえに味音痴とマニアにしか売れず、公爵領では茶葉の品種改良が進むとともにこの茶葉の栽培は年々減退している。
そんなまずいお茶を繊細な令嬢が飲むのだ。噴き出しこそしなくても、顔をしかめる程度の反応があるに違いない。エレオノーラはその反応を期待していた。少しでも顔をしかめれば、人が出したお茶でそんな顔をするとは何事か、と難癖をつけてやる算段なのだ。
エレオノーラは薄暗い期待に胸を高鳴らせ、視線をエリザに固定しながら、自らもカップを手に取る。エレオノーラのお茶には、優秀なシェリルが事前にミルクと砂糖をこれでもかというほど入れる手はずになっているので、飲んでもへっちゃらなのである。
(あと少し……もうちょっと……飲んだ!)
くい、とティーカップが傾けられたのを見て、エレオノーラは思わず空いているほうの手を握りしめた。いわゆるガッツポーズである。
飲んだとなれば、あとは反応を待つのみ。エレオノーラは目を輝かせてエリザが顔をしかめるのを待つ――が。
白い喉が上下してもなお、エリザの表情に変化はなかった。それどころか、一口二口と飲み進める始末だ。
(え? なに、どういうこと??)
自分で仕向けておいてなんだが、どうしてこんな状況になっているのか理解ができない。
カップから口を離してもけろっとしているエリザを凝視しながら、とうとうしびれをきらしたエレオノーラが尋ねた。
「味はどうかしら?」
「とても美味しいです」
「えっ」
「少し渋みが強いですけれど、それがまたいいですね」
「は? いいの?」
「はい」
「…………」
何言ってるのこの女。
エレオノーラは目をかっぴらくのを止められなかった。それくらい、エリザの感想は予想の範疇を超えて斜め四十五度に突き抜けたものだったのだ。
この女、よっぽど頭……いや、舌がおかしいらしい。
またもや予想外の反応が返ってきたのに動揺しながら、エレオノーラは流れるような動きで自分のお茶に口をつけ、噎せた。
「っっっ!!」
苦い。とにかく苦い。そして渋い。総合するととてもまずい。
食道を滑り落ちていく異物を排除しようと噎せながら、エレオノーラは涙目でシェリルを睨んだ。
(どういうことよバカーっっっ!!)
事前に打ち合わせしたミルクと砂糖はどうした。
うるみぎらつく目は、ただひたすらそう訴えていた。
「っ、エレオノーラ様!? 大丈夫ですか!?」
駆け寄ってきたシェリルは、気遣わしげにエレオノーラの背中をさする。顔を青くしながらもしっかりと主をいたわる様子は、侍女の鑑といっても過言ではない。しかし、それは外面だけの話だ。
「すみません、指示をど忘れしておりました」
向かいのエリザたちに気付かれぬよう、そっと耳元で囁かれた言葉は侍女失格モノである。
エレオノーラは、エリザたちの視線の死角で力いっぱいシェリルのみぞおちを殴った。
しかし、侍女として、そして実は護衛としても優秀なシェリルはびくともしない。
「あとでおぼえてらっしゃい……!」
「ではまずその情けない様をどうにかなさるべきですわ」
ああ言えばこう言う。
まったく人を神経を逆なでするのが上手い侍女である。
エレオノーラはありったけの負の感情を込めてシェリルを睨み上げた。しかしシェリルは殺意光線などどこ吹く風で、わずかに顔をしかめさえする。
「そんな怖いお顔をなさらないでくださいな。エリザ様がご覧になっていますよ」
「っは!?」
努めて抑えた声音が告げた内容に驚いて勢いよく顔をあげテーブル向かいを見てみれば、なるほどシェリルの言うとおりだった。たちまちエリザの困惑を訴える紫の瞳と目が合う。
気まずい沈黙が流れる。
ええと、と真っ先に口を開いたのは狼狽のただ中にいるエレオノーラだ。
「あなた、よくこんなまずいものが飲めるわね」
茶会を主催した自分自身を貶めるような本音を思わず口走る。
あちゃあ、と背後でシェリルが頭を抱えているが、冷静になりきれていないエレオノーラはそのことに気付かない。そして、それはエレオノーラの奇行を目の当たりにしたエリザも同じであった。
「ええ、まあ。昔、よく飲まされましたので。もう慣れましたわ」
『飲んだ』ではなく『飲まされた』。
微妙な言葉のニュアンスの違いから生まれる、そこはかとない不穏さを指摘するものはこの場にいない。
シェリルは侍女という立場ゆえに沈黙を貫き、その主は未だ呆けていて、女装の宦官は無言でこめかみを押さえている。
さらにエリザも、エレオノーラの背後に立つ侍女から発せられる同情と憐憫、そしてこの女はいったいどんな環境で育ってきたのだという慄きに気付くような繊細な神経は持ち合わせておらず、暢気にまずいと定評のあるお茶を啜る始末。
「…………」
「…………」
しまりのない空気の中、侍女二人は疲れた顔を見合わせて乾いた笑みを浮かべた。
交わした視線は、お互い大変な主を持ったものだ、と静かに語る。