06...波乱の予感
エレオノーラ・ブライトン。
レガリア建国から続く由緒正しきブライトン公爵家の令嬢であり、現在は『南の方』として後宮で権勢を振う少女は、自室の寝台の上で目を覚ました。
覚醒したばかりの身体はひどく強張っていた。きっと原因は夢見の悪さだろう。
詳細こそ覚えていないものの、つい先ほどまでおそろしい悪夢を見ていた気がするのだ。
いったいどんな夢だったか、霞がかった記憶を探りつつ身体を起こす。汗でしっとりとぬれた寝間着が肌に張り付いてきて不快だ。眉を寄せたエレオノーラは、サイドテーブルにのった装飾の美しいベルを手に取った。数度、それを左右に振る。
「はい、はい、はいはいはい」
目当ての人物は、呼び鈴を鳴らして数秒としないうちにやってきた。
たれ目が印象的な彼女はエレオノーラが信頼を置く侍女で、名をシェリルという。
口が悪く態度はでかい、そしてそれが癪に障るという三重苦持ちであるものの、極めて優秀な侍女である。
「はい、は一回で充分よ。水をちょうだい」
「ふふ。そうおっしゃると思って、ノーラ様が大好きな果実水をご用意しておきましたよ」
「本当!?」
低血圧もあり、起きた瞬間からしかめっ面だったエレオノーラの表情がぱっと華やぐ。
なんだかんだ言いつつ素直な主を生ぬるい瞳で見つめながら、シェリルは果実水がなみなみと注がれたグラスをエレオノーラに渡した。令嬢らしい、華奢で小さな手でそれをすばやく奪い取ったエレオノーラは、不愉快だが気心の知れた侍女しかいないのをいいことに、ごくごくと喉を鳴らしながら豪快に果実水を飲みはじめた。
その様子はまこと可愛らしいのだが、残念ながら慎みが多分に足りない。
令嬢らしからぬ品位に欠けた態度を見ていたシェリルは、呆れと憐憫を滲ませた声でぼそりと呟いた。
「そんな風だから陛下の訪れが遠のくのでは……」
不幸なことに、独り言のつもりだったシェリルの言葉は、主の耳にしっかりと届いてしまった。
一瞬にしてエレオノーラの顔が強張り、その手からグラスがつるりと落ちる。
こぼれた果実水でシーツが汚れてはたまらない。
シェリルは並々ならぬ反射神経で落下するグラスを受け止めた。わずかに残っていた果実水は、たぷんと水面を揺らしたのみに終わる。
安堵の息をついたシェリルは、傍机に飲みかけのグラスを置くと、次に恐る恐る主の表情をうかがった。
常ならば、そろそろ罵倒の嵐が飛んでくる頃合いなのだが――今に限ってそれがない。
それが不安であった。
ひとりごちたとはいえ、軽口にしては度が過ぎたか。いや、それは否めないが、それを差し引いても主の態度がおかしい。
シェリルの視線の先には、呆然と固まっているエレオノーラがいた。
……やはり、おかしい。
目を細めたシェリルは、たった今、エレオノーラの脳内で、忘れかけていた『悪夢』が息を吹き返して鮮やかに色づき、事細かに再生されていることを知らない。
悪夢。
それは、こうしてエレオノーラが寝台で目覚めた原因であり、夢に出てくるほど衝撃的な現実だった。
すなわち最近陛下が目をかけている側室――エリザのことである。
美しい花たちを選り取り見取りにできるレガリアで最も高貴な方が、よりにもよってあんな女に。
今朝方目にした冴えない女の顔を思い出し、エレオノーラは悔しさをはくちびるを噛みしめた。
エリザ・アーネット。
その名をはじめて聞いたのは、およそ一週間前の夜更けだった。
さて寝ようかと思ったころ、急な来客があったのがきっかけだ。
「エレオノーラさま、大変ですわ!!」
前触れもなくやってきたのは、南殿に住まう娘たちが数名。
侯爵家やら伯爵家やら、そこそこの血筋を持つ、エレオノーラのとりまきたるである。
彼女たちは眠い眼をこすり不機嫌そうにしているエレオノーラの周りに群がると、主の不機嫌を察したシェリルの制止などものともせず、騒々しく喚きたてはじめた。
「先ほど、陛下が後宮にいらっしゃたのです」
「それも中殿ですわよ。久々のお越しなのに、姫さまのいらっしゃる南殿ではなく、よりにもよってあの中殿!」
あらそうなの、とエレオノーラは興味なさげにひとつうなずいた。
彼女の青い目は険を孕んで礼に欠いた来訪者を見つめる。
睡眠を阻害されてただでさえ機嫌の悪いのだ。少しでも気を抜けば、この姦しい少女たちに悪辣な言葉を吐き出してしまいそうだったので、口はきつく真一文字に結び、視線だけで言外に告げる。
早く出ていけ、と。
しかし、大切に大切に、甘やかされて育ってきた娘たちは、興奮も相まってエレオノーラが漂わせる険悪な雰囲気にちっとも気付かない。
それどころかエレオノーラの気のない相槌を自分たちの都合のいいように受け取ったらしく、ことさら喧しく捲し立てる始末だ。
「エレオノーラさまもご不満でしょう? お気持ちお察しいたしますわ」
「陛下も物好きが過ぎます! わたくし、てっきり、あのエスメラルダとかいう、成り上がりの娘の一件でこりたかと思いましたのに」
「今回は、よりにもよってあのアーネット卿の娘が相手だとか」
「喪も明けぬうちに入宮した恥知らずのいったい何がいいのかしら」
アーネット卿。
その名ならば、エレオノーラも知っている。
地上に舞い降りた天使のごとき美貌で社交界の注目を一身に集めた伯爵のことだろう。
エレオノーラの父であるブライトン公爵と交流があった彼とは、何度か屋敷で会ったことがある。
遠い記憶はおぼろげだが、思わず呼吸を忘れるほどに美しく、儚げで、どこか悲しいところのある人だったことだけははっきりと覚えている。
美人薄命という言葉の通り、尋常ならざる美貌を持つ彼は数年前にあっけなく亡くなったと聞く。まことしやかに囁かれる噂によれば、数ある愛人の一人に殺されたとか。
そんな彼の娘が後宮にいるとは初耳であった。
「その娘の名は、なんというの?」
「エリザ、というそうですわ」
「エリザ。エリザ・アーネット、ね……」
今は亡きアーネット卿の娘ならば、たいそう美しいことだろう。
未だ見ぬ女の顔を瞼の裏に思い描き、エレオノーラは静かに息を吐いた。
アーネット卿の娘が相手では、とうてい敵わないだろうと思ったのだ。
だから、その後、幾度となく王がエリザに目をかけてるという話を聞いても、大した影響力も持たない側室に四方の方が寵愛を奪われたと陰で笑われても、屈辱を覚えこそすれ、肩身の狭い思いをする元凶となったエリザに怒りや憎しみを向けるようなことはなかった。
今朝だって、ただ単に、噂の寵妃の顔を一目見ようとしただけだ。
エレオノーラ自身は少し遠出をする散歩くらいの気持ちで中殿へ行った。
もっとも、彼女の“散歩”に難色を示した侍女たちのせいで、自分が考えていた数倍も騒がしく慌ただしい形になってしまい、その結果として情けない姿をエリザの前で晒したのは記憶に新しい。
――まあ、過去は過去だ。いまさら振りかえっても意味はない。
首を振って嫌な記憶を霧散させたエレオノーラは、おもむろにシェリルに声をかけた。
「ねえシェリル。おまえはあの女……エリザ・アーネットをどう思う?」
シェリルは顎に手を当ててしばし黙考したのち、口を開く。
「一言で言えば、平凡、でしょうか。私は故アーネット伯のお顔を何度か拝見したことがありますが――失礼ながら、あまり似ていらっしゃらないかと」
「はっきり言いなさいよ。あまり、なんてかわいいものではないでしょう。全然似ていなかったじゃない」
唯一の類似点といえばあの珍しい紫の瞳くらいで、そのほかはなにをどうすればこんなにも似ないのかというほど、エリザにはアーネット卿の面影がなかった。
瞳の色だけが、彼女が真に亡くなったアーネット卿の娘だと証明しているようなものだ。
「でもノーラ様、エリザ様の母君は稀代の醜女であると聞きますよ。醜女と美人の血を足して二で割ったと考えれば、あの容貌にも納得がいくというものです」
何気ないことを言うようにきわどい発言が飛び出る。一介の侍女の発言としては限りなく黒だ。
しかし、剣呑な視線を向けられたシェリルはしれっと肩をすくめた。
「はっきり言えと仰ったのはノーラ様ではありませんか」
「……」
もうなにもいうまい。
エレオノーラは睫毛をふせ、先ほどから胸の奥でくすぶっていた疑問をぽつりと口にした。
「陛下は、あんな女のどこがよかったのかしら」
エリザ・アーネット。
彼女がかの伯爵の娘ならば、王が惹かれるのも、自分が捨て置かれるのも仕方がないと思っていた。
男が美しい女に惹かれるのは当然。そして質の低い女が男に捨てられるのもまた道理に叶う。
エレオノーラはそのことを良く知っていたので、これまで何も言わなかった。
しかしそれは、エリザが彼女の父のように美しければの話で、現実はその通りではなかった。
むしろその真逆だ。
今朝、ふと思い立って顔を見に行ってみれば、どこにでもいるような平凡な女が、此度王の心を射止めた妃であるというではないか。
絶句した。
そして、その驚き以上に自分自身がみじめだった。
たいした身分もなく、それを補うほどの美貌も才もない。そんな女が王の寵愛を得る。
その事実は、名門公爵家の娘として生まれた瞬間から未来の王妃の地位を期待されて育ってきたエレオノーラの自尊心を大いに傷つけた。
仕方ない、と諦めた心がざわりと揺れ、胸の奥に蓄積された屈辱がちりちりとくすぶる。
「……どうしてあの女なのよ」
喉の奥から、獣がうなるような、子どもがぐずるような声がこぼれる。
それに反応を示したのはシェリルだ。
「あら、ノーラ様。それは嫉妬ですか?」
主の心情を知ってか知らずか、いつもの軽さを滲ませてくすくす笑う。
エレオノーラはそれを一睨みして黙らせると、小さな声で「違うわよ」と告げた。
「わたしはあんな冴えない女に嫉妬なんかしないわ。わたしはただ、あの女が陛下の隣に立ったり、陛下を煩わせたりすのが許せないだけよ」
「それはたしかに許せませんね。この頃の陛下はエリザ様ばっかりで、ちっともエレオノーラさまを構ってくださいませんもの」
シェリルが神妙そうに眉をひそめる。
思わずうなずきかけたエレオノーラだったが、すんでのところで我に返って動きを止めた。
危ないところだった。うなずいたらシェリルの思うつぼだ。
安堵するエレオノーラだが、その考えは少し甘い。
彼女の優秀な侍女は、主がうろたえる姿を見てにやりと笑った。
「あら、惜しい。でも、ノーラ様は毎回毎回おもしろいくらい簡単にひっかかってくださるから、いじり甲斐がありますわ」
「……っ!!!」
エレオノーラは、小生意気な侍女に掴みかかりたくなる衝動を両手を握りしめることでこらえた。
女は我慢よ。我慢我慢。
そんな言葉を呪文のように唱えて怒りをやり過ごす。
「戦うにはまず敵を知らなければならないわ」
「あら、強引に話を変えますね」
「情報収集にはお茶会が最適よね」
エレオノーラはシェリルの言葉を華麗に無視した。
「そういうわけでシェリル、明日お茶会を開くから、準備をして頂戴」
「えー、明日ですか? ちょっと早急すぎやしません? 私へのあてつけですか?」
エレオノーラの肩がぴくりとはねた。
あてつけ、というのが図星だったからだ。
しかしここで前言を撤回するのは癪であるし、エリザをこのまま放置しておくのもなんだか不愉快なので、シェリルの不満には耳を貸さないことにする。
「招待状は……そうね、エリザ・アーネットに出すだけでいいわ」
「さすが淑女の中の淑女、エレオノーラ様はやることが違いますね。すばらしく意地悪ですわ。そんな風だから陛下の訪れが」
「っ、いいから黙って準備しなさいよ!!」
淑女の中の淑女は、半泣きの情けない表情で、嫌味ったらしい侍女に枕を投げつけた。
もっとも蝶よ花よと育てられた娘の腕力などたかが知れているわけで、軽薄そのものの笑みを浮かべた優秀な侍女が、飛んでくる枕を容易く避けたのは言うまでもない。
あんな女ことエリザ・アーネットの元にお茶会の招待状が届くのは、これから数時間後のことである。