05...陛下専用抱き枕の苦悩*
あたたかな温度が離れていく気配がして目が覚めた。
夢見ごこちで離れていくぬくもりに手を伸ばし、待って、と囁く。
寝起きだからか、やけにかすれた声が出た。
喉の奥が疼く。
水が飲みたいという欲求だけが、ひどく曖昧な意識の中で明確な形をもっていた。
エリザは何もいわず、伸ばした手でつかんだぬくもり、すなわち腕を引っ張った。
“あの人”ならば、それだけでエリザの求めるところをくみ取り、水を持ってきてくれると分かっていたからである。エリザは、触れた腕が“あの人”のものであると信じて疑わなかった。
しかし、その予想はあっけなく裏切られる。
唇に触れたのは、冷たいガラスのコップではなく、温度のある少しかさついたやわらかな肉。
耳朶を打つのは、エリザの甘えを許すおだやかなアルトではなく、苛立ちを含んだ剣呑なテノールだった。
「邪魔だ、エリザ。離れてくれ」
俺はおまえの抱き枕ではない、と声は言う。
腕にすがりつく手を乱暴に振りはらわれて、エリザは呻きながら目を開いた。
寝ぼけまなこがまず捕えたのは顔。苛立ちをあらわにしているくせに、なぜか品良く映る、すこぶる麗しい顔である。
すこし視線をずらしてみれば、喉仏、鎖骨、胸板と続く。肌蹴た寝間着から覗く、均整のとれた張りのある筋肉が目に眩しい。
彫刻の如き美しい肉体を半ばまどろみながら見つめていたエリザは、ちっとも穏やかではない舌打ちの音に、今度こそはっきりと覚醒した。
先ほどとは打って変わって凛とした眼差しを、苛立たしげな男――レオンハルトに向けて、はきはきと告げる。
「そのようにだらしない格好をなさっていては身体が冷えてしまいますわ、陛下。なにかお召しになってくださいませ」
「何を言うかと思えばそれか……」
レオンハルトはげんなりとため息をついたあと、少し意地の悪い表情をしてエリザを見やった。
「言っておくがエリザ、おまえもひどい乱れようだぞ。人のことを注意する前に、自分の姿をどうにかしたらどうだ?」
「えっ!? ――あ、本当っ!!」
視線を動かして自分の格好を確認したエリザは、あわてて胸元を隠した。
その様子を見つめていたレオンハルトが、小馬鹿にするように鼻で笑ったので、上目づかいに睨みつける。
「何? 誘っているのか?」
「お戯れを……。そんな気もないくせに」
「その気になってほしいのか?」
「まさか! 抱き枕にされるだけで十分ですわ」
「奇遇だな。俺も、おまえを抱く気はさらさらない」
そう言ってのけると、レオンハルトは厭味ったらしい笑みを浮かべた。
本当にいやな人だ。声にしないで毒づいたエリザは、彼から目をそらす。
近ごろ、レオンハルトはしばしばエリザの部屋で夜を過ごす。
しかし二人は、いわゆる男女の関係にはなっていない。
褥を同じくするとは言っても、レオンハルトはエリザを抱き枕にして眠るだけだ。甘い夜などというものは存在しない。
エリザは大の男に一晩中抱きつかれて、息苦しい夜を過ごすだけだ。
その不愉快に加えて、周囲からあらぬ誤解や嫉妬をされるものだから、エリザとしては、レオンハルトの訪れは厄介でしかなかった。
今日もまた何かしらの嫌がらせがあるだろうと思うと憂鬱で、エリザはついため息をついた。
それをすかさず聞きつけたレオンハルトが、嫌そうに顔をしかめる。
「朝の挨拶もしないうちから、ため息をつくな」
「……おはようございます」
「ん、おはよ」
エリザの挨拶は決して爽やかとは言えなかったが、美形は満足げな表情を浮かべてエリザの額に軽く口付けた。それもご丁寧に、ちゅ、と軽快なリップ音付きで。
そのおかげで、エリザは朝から胸やけしそうな気分だ。
目覚めは最悪だった。
「――そうだ、エリザ」
衣擦れの音を響かせながら、着替え途中のレオンハルトがエリザを振り向く。
対してエリザは、のろのろと布団から這い出でながら、なんですかと問うた。
「今日はきちんと外見を整えておけ」
「? いつもしておりますが」
「……本気か? お前の普段の化粧や髪型はあまりにも杜撰すぎるが?」
呆れと嘲りを足して二で割った笑いが癪に障る。反論ができないのでなおさらだ。
レオンハルトの言う通り、エリザの身繕いはお世辞にもうまいとは言えない。というか、はっきり言って下手である。
おそらく、手先が器用でないことが一番の原因だ。次点には自分の容姿をさほど気にしていないことが挙げられるだろう。
エリザはほかの女たちと違って、自分の容姿を飾って王の関心を得ようとは思わない。多くの女がほしくてたまらない王の寵愛は、エリザにとって無用の産物だ。
エリザがほしいのは、ほしいのは退屈で眠くなるような安寧な日々、ただそれだけ。
しかしそんなことを言っても仕方がないので、エリザはしぶしぶうなずいた。
「陛下のご下命とあらば、善処いたします」
「おまえの“善処”は、あまり期待できそうにないな……。そんな風では、あいつ・・・にみくびられるぞ」
レオンハルトは胡乱な視線をエリザに向けると、小馬鹿にするように唇の端を吊り上げた。
さすがに癪に障ったが、言い返すことはできない。身分がどうこうと言うよりも、やはり彼の言うことが正しいからであった。
「――まあ、アディがいれば万事うまくいくだろう」
「アディ?」
「ああ、あとはあれに任せる」
最後の仕上げにコートを羽織ったレオンハルトは、この部屋にはもう用などないとばかりにせかせかと退出してしまった。
忙しい人だ。そう思いながら、エリザは彼の背中を見送る。
その心中に悲しみや名残惜しさといった類の感情は微塵もない。
やっと肩が力が抜けると思う程度である。
「おはようエリザ。朝からひどい顔だね」
「あら、おはようアデル。あなたも朝から酷い言いようね」
レオンハルトと入れ違いに、アデルが扉の外からひょっこりと姿をのぞかせた。
今日も今日とて、彼は麗しい令嬢の姿を偽っている。
繊細なレースとフリルを品よくあしらったドレスを着こなす様子は、まるで聖画から抜け出してきた天使、あるいはお伽噺の妖精のように美しい。
女装も数週間が経過すると堂に入るものだ。
傾国と称してもなんら遜色ない美貌をまじまじと見、エリザはふああ、とあくびをひとつこぼす。
そして、ふと思い浮かんだ名を呼んだ。
「アディ」
はたして振り向いたのは、目覚めのお茶アーリモーニング・ティーの準備をしているアデルだった。
思いがけない名で呼ばれたのが意外だったのか、彼はエメラルドの目をまるくしている。
「アディ……って、あなたのことなの、アデル?」
「うん、僕の愛称なんだ。もっとも、呼ぶ人は少ないけどね」
なるほど、先ほど国王が何気なしにつぶやいた名は、アデルの愛称だったようだ。
愛称で呼ぶとなれば、二人はかなり親しい間柄なのだろうと推測できる。
秀麗な王と、可憐な女装宦官。
一部の婦人令嬢が聞けば踊り狂って喜びそうな組み合わせだ。
そんなことをエリザが考えているとは露知らず、アデルは苦笑しつつ首を傾げた。その動きに合わせて、腰まである銀髪がしゃなりと揺れる。
「その呼び名――さては、陛下が何か言った?」
「あなたのことをそう呼んでいたわ。ずいぶん親しい間柄なのね?」
「ん……まあ、重宝してもらってるよ」
「いいわねアデル、陛下の覚えがめでたいなんて、たいした出世じゃない!」
「そうでもないよ」
アデルが曖昧に微笑む。
どことなく濁すような口ぶりと笑みは、これ以上の詮索を拒絶していた。
ならば追及せず、このことは忘れよう。エリザはそう結論付けた。
つまらない好奇心で貴重な友人を失いたくはない。
だが――……
(二人がどういう関係であるのかは重要よね)
もしも仮に、あのレオンハルトがこの美貌の宦官に食指をのばしていたら。
そんな可能性のひとつを考えると、無意識のうちにしょっぱい顔になってしまうエリザである。
「エリザ? どうしたの、変な顔をして」
「アデルの恋愛対象って、女? それとも男?」
「は?」
「……いえ、なんでもないわ」
それから数時間後のことである。
のんびりと読書をしていたエリザの耳朶に、忙しい足音が聞こえてきた。
いつもなら物音ひとつしない廊下にしてはめずらしい。
エリザは本から視線を上げた。
「外が騒がしいわね。なにかあったのかしら?」
「どうだろう。見てこようか?」
アデルが腰を上げる間にも、外の喧騒は大きくなっていく。
否、近づいてくるというほうが正しいか。
なんだか無性に嫌な予感がする。
エリザの心中では、関わり合いになってはいけないと第六感が警鐘を鳴らしていた。
「アデル」
やっぱりいいわ、と声をかけようとするエリザ。
しかし、その言葉が音として空気を震わせることはなかった。
外から扉が開け放たれ、エリザの開きかけた唇から声を奪ったのである。
「きゃあっ!?」
驚愕するエリザに代わって悲鳴を上げたのは、開いた扉から文字通り転がり混んできた赤くてふわふわした塊だった。
扉を開いたときの勢いを殺しきれなかったのか、つんのめってぽふっと絨毯に倒れ込む。
衝撃で微量の埃が舞い、日の光をうけてきらきら輝いた。
「い、痛い……っ!」
うめきながら、赤い塊はぷるぷる震える。
それはよく見ると真っ赤なドレスを着た少女だった。
薔薇のボンネで飾られた赤毛は、ゆるく波打ちながら四方に散らばってしまっている。
エリザは困惑顔のアデルと顔を見合わせた後、うつぶせに倒れたままの少女に駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
声に反応して顔を上げた少女に、そっと手を差し伸べる。
握り返してきたので、そのまま手をひいて立ちあがらせてやった。
よろめきながら立ち上がった少女は、空いている方の手で目尻を乱暴に拭うと、エリザをきつく睨みつけた。
「無礼者! 気安く触らないでちょうだい」
「は、はあ……すみません」
「でも、ありがとう! 助かったわ!!」
「い、いえ……?」
怒ったり礼を言ったりと、つかめない少女である。
エリザは少女をまじまじと見つめた。
「えっと……失礼ですが、どちらさまかしら?」
「ん? ああ、自己紹介がまだだったかしら。私はエレオノーラ。エレオノーラ・ブライトンよ。気軽にエレオノーラ様と呼んでちょうだい」
「はあ……エレオノーラ様、ですか」
「ええ。よろしくね」
エレオノーラと名のった少女は、スカートについた埃を払うと、スカートの裾をつまんで礼儀正しく一礼する。
尊大なんだか、律儀なんだか、やはり良く分からない少女である。
エリザは内心困惑していたが、表面上は笑顔で礼を返した。
「私はエリザ・アーネットと申します。どうぞお見知りおきください」
「……えっ、エリザ? あなたが?」
「はい、わたしがエリザですけれど……」
「え……嘘でしょ……?」
エレオノーラは、信じられないというように目を瞠った。
きらきらと輝く青の瞳は、エリザとアデルを交互に見つめている。
「じゃ、じゃあ……隣のあなたは?」
「私は、エリザ様の侍女のアデルと申します」
「侍女!? てっきりあなたが噂のエリザだと思っていたわ!?」
エレオノーラはあんぐりと開いた口を両手で覆って、エリザを上から下までじっくりと見つめた。
そして、険しい顔で呆然とつぶやく。
「なんてことなの……侍女の方が断ッッッ然、美人だわ……!」
余計なお世話である。
分かり切っているが、あえてだれも触れないことをストレートに指摘されたエリザは、ちょっぴり切ない気持ちになった。
「さっきから黙って見ていれば、心底失礼な餓鬼だな……」
隣からおそろしく冷たい低音が聞こえたので、エリザはびっくりしてアデルを振り向いた。
するとどうしたことだろう。エリザの視線の先には、ひどく冷ややかな表情でエレオノーラを見下ろしているアデルがいた。
その目に射すくめられたエレオノーラは堪ったものではないだろうが、平生穏やかな友人の豹変を目の当たりにしたエリザとて動揺を隠せない。
「あ、アデル? どうしちゃったの、大丈夫?」
「別に……いつも通りだよ?」
その言葉の通り、向けられた笑顔は普段と変わらぬものだった。
あまりに自然な変わり身だったため、エリザもうっかり騙されそうになったくらいだ。
「嘘ばっかり……さっきまで睨んでたくせに」
「え? エレオノーラ様、何かおっしゃいました?」
「べ、別に何も言ってないわ! 嘘じゃないわ、本当よ!!」
小さな呟きをすかさず拾われ、妙に迫力のある笑みを向けられたエレオノーラは、びくりと震えた。
その顔は心なしか青い。
そりゃああの表情を向けられたらそうなるだろう。エリザは可哀想な少女に同情の視線を注ぐ。
「う……わ、私、もう帰るわ! ごきげんよう!!」
アデルの視線に耐えられなくなったらしいエレオノーラは、別れのあいさつもそこそこに、脱兎の如く部屋をあとにした。
途中で「いたーい!!」という悲鳴と盛大な音がきこえたのは、御愛嬌だろう。
なにはともあれ、いきなりやってきては唐突に帰って行った小規模な嵐を見送ったエリザは、呆然とつぶやいた。
「彼女はいったい何がしたかったのかしら……」
エレオノーラ・ブライトン。
その少女が、後宮の一角たる南殿の主であり、『南の方』と呼ばれる筆頭権力者であることにエリザが気づくのは、これからもう少し先の話である。
2013/12/03 細部修正
2014/11/24 タイトル変更・大幅改定
陛下の忠告が遠回しすぎて、結局善処されませんでした。