25...その王、○○。
「まったく、嵐みたいな娘だ」
エレオノーラが部屋をあとにした後、そう言ってアデルはため息をついた。
「やっぱり、南の方はまだまだ子どもだね。すぐ怒るし、泣くし、礼儀もなってない」
エリザにティーカップを給仕しながら、ため息交じりに辛辣さえも吐く。
タイミングよく差し出されたそれを手に取ったエリザは、仕事のできる友人を上目づかいに見上げつつ、わずかに眉を寄せた。
「前から思っていたけど、アデルって、エレオノーラ様にはずいぶんと辛辣よね?」
「そうでもないと思うけど」
「いいえ、絶対に冷たいわ。もう少し優しく接することはできないの?」
批難を受けたアデルは不本意そうに顔をしかめる。
非の打ち所がないほど整った顔が歪むと、とたんに色気が醸し出されるから不思議だ。
「子どもは苦手なんだ……」
「あら、意外。あなたにも苦手なものってあるのね」
ティーカップに口をつけながら、エリザが目を瞠る。
なんでも手際よくこなすアデルに、こんな弱点があるとは。
なんだか新鮮に感じられて、エリザは自然と微笑む。
「――ま、人間ひとつくらい弱点がある方が可愛げがあるわ」
「そう?」
「ええ、あなただと特にね」
悪戯っぽく片目を瞑ってみせる。
アデルは一瞬虚をつかれたような顔をしたが、すぐに頬を緩ませ、何かを言おうと口を開きかけた。
と、そのとき、にわかに響いた第三者の声が、彼の発言に水を差す。
「ずいぶん仲がよろしいんだな?」
その声は妙に刺々しい響きを伴ってエリザの耳朶を打った。
本来この場にいない――この部屋を去たばかりの――人の声が、どうして今聞こえるのか。
いささか険しい顔つきで、ゆっくりと視線を声の方へと向ける。
「……いつの間に戻ってきたのですか、陛下?」
「エレオノーラと入れ違いに」
「まった気づきませんでしたわ。すぐ声をかけてくださればよかったのに」
「そうしようと思ったが、仲睦まじげな会話が始まったからタイミングを失った」
レオンハルトは不機嫌真っ盛りといった不機嫌顔だ。
まったく、何がそんなに気にくわないというのか。
ティーセットを傍机の上に置きつつ、エリザはこれ見よがしにため息をついた。
その横で、アデルがくちびるの片端を持ち上げる。
「まあまあ、怒らないでください。男の嫉妬は醜いですよ、陛下」
「嫉妬だと?」
まったくあほらしいと、レオンハルトが鼻でせせら笑った。
それからエリザを忌々しげに一瞥し、心底嫌そうに吐き捨てる。
「だれがあんな女に嫉妬なんてするか!」
一瞬の間があった。
“あんな女”ことエリザは、怒るでもなく悲しむでもなく、ただ目を瞬かせている。
「えっ……私に嫉妬なさるんですか?」
ここは普通、エリザと仲のいいアデル『に』嫉妬するのではないのか。
たかが一字、されど一字。
助詞が一文字違うだけで、状況は瞬く間にアブノーマルと化す。
エリザの表情は冴えなかった。
レオンハルトに好かれたいわけではないが、思いもよらぬ恋敵宣告を受ける心境も複雑だ。
「は? あ、いや」
はじめは訝しげな顔をしていたレオンハルトも、すぐに指摘された内容を理解したらしい。
やってしまった、と顔に書いてある。
「あー……いや、これは」
「いいえ、いいんですのよ陛下」
弁解しようとするレオンハルトに対し、エリザは訳知り顔で首を振る。
「やっぱり、陛下は男が好きなんでしょう?」
レオンハルトが目を瞠る。
「……は? 何を言っているんだエリザ?」
「しらばっくれなくても大丈夫です。陛下の性癖はちゃんと秘密にしますから」
「いやいやいや、そう言う問題ではないだろ?」
俺は違う! と否定する様子は哀れになるほど必死で、その様子が逆に嘘臭い。
やっぱり陛下は……と、エリザは胡乱な視線をレオンハルトに向ける。
「だって陛下は、なんだかんだ言ってアデルと仲がいいですし」
「別に仲がいいわけではないぞ!? アディがつっかかってくるだけだ!」
言いきった後で、レオンハルトははっと口を押さえた。
しかし今さら遅い、言質はとってある。
ある種いやらしい笑みを浮かべたエリザが口を開く。
「陛下は時々、アデルをアディと愛称で呼びますよね」
「それは昔の癖だ! お前だって家族や友人を愛称で呼ぶことがあるだろう?」
「でも、私の父を愛称で呼ぶ男は、九分九厘、父を性愛の対象として見ていましたよ」
「そういう特殊な例を持ち出すな! 俺は異性愛者だ!!」
「あーはいはい。はじめはみーんな、そう言うんですよ」
エリザの父に懸想していた男たちも、はじめは自分の性癖から目をそらそうとしていた。
今のレオンハルトは、かつての彼らにそっくりだ。
いっそ認めてしまえば楽になり、新しい世界を開けるものを。
エリザはやれやれと肩をすくめた。
その態度が気にくわなかったレオンハルトは、秀麗なかんばせを歪めた。
「だから、違うと言っているだろう!!」
怒りにまかせて傍机を力強く叩く。
あ、とアデルが小さく呟いた。
その声に感応するかのように、跳ね上がったティーセットがバランスを崩して机から滑り落ちる。
陶器の割れる音が高らかに響いた。
床の上でティーセットが御臨終になっている。
絨毯は敷いてあるが、着地した拍子に運悪くソーサーとカップがぶつかり、その衝撃で割れてしまったようだ。
「ああっ、私のティーカップが見るも無残に!!」
エリザが悲鳴を上げた。
口元にわななく手を当てながら、きっとレオンハルトをにらみつける。
「陛下が物にあたったせいですわ」
「な……っ! お前が変なことを言うせいだろう!?」
「確かにいったのは私ですが、勝手に動揺なさったのは陛下です」
「何だと……!?」
売り言葉に買い言葉。
責任の所在を押し付け合う二人の間の空気は、急速に険悪化していく。
「――――あの、喧嘩しているところ悪いけど」
すわ怒鳴り合いが始まると言うとき、ふいに今まで沈黙を決め込んでいたアデルが声を発した。
ひどく柔らかい声だった。
そのはずなのに、彼の声音がどこまでも冷淡で無機質なのが、やけに不穏な気配をほのめかしてくる。
その冷やかさたるや、剣呑な空気を醸し出していたエリザとレオンハルトでさえ、一瞬で凍りつくようだった。
慄く二人の視線の先で、アデルはのんびりと割れたティーカップの傍に屈んだ。
形良い指で、絨毯の上に散らばったティーカップの破片をひとつ拾って、小首をかしげている。
「これ、さ。絨毯の上で陶器が割れると、片付けが大変なんだよね」
静かな声。穏やかな表情。
しかし、目が笑っていない。
「す、済まない。絨毯は、俺が弁償しよう」
アデルの発する雰囲気に圧され気味のレオンハルトが、彼にしてはめずらしく殊勝に謝罪する。
「あ、ティーカップもお願いしますわ。ちゃんと補充してくださいね」
「おい……勝手に注文を増やすな」
レオンハルトは心底嫌そうに眉をひそめた。
アデルはいい。しかしエリザに指示されるのは、なんとなく癪に障る。
ただ、認めがたいこととはいえ、元はといえば己の失態であるのはまぎれもない事実だ。
そのところは承知しているので、彼は怫然としながらも、うなずくしかなかった。
「――じゃあ、そういうことで……エリザ、これ以上陛下をいじめないでね」
エリザは了承のかわりに肩をすくめた。
そして、ふと思い出して真面目な顔つきになる。
「ねえ、陛下は本当に異常性癖をお持ちじゃないのよね?」
「もちろん。陛下は僕のことが特別大好きなだけで、同性愛のケはないよ」
「アデル! 茶化さないで、ちゃんと否定してくれ」
心外そうな声を上げるレオンハルトに対し、アデルはどこ吹く風だ。
その横で、エリザだけが未だ釈然としない様子で頤に手を当てている。
たった一点、納得のいかない点があるのだ。
「――エレオノーラ様の件はどういうことなんですか?」
「エレオノーラ? あれがどうした?」
レオンハルトの瞳に怪訝の色が灯る。
彼は、エリザの言わんとすることがまるで分かっていない様子だ。
「陛下は、エレオノーラ様の入宮に何とも思われなかったのですか?」
「何ともって……たしかにあの娘は破天荒で行儀がなっていないところもあるが、入宮を断るほど壊滅的ではない」
「いえ、そういうことではなく……」
「じゃあ何だ? 公爵令嬢の後宮入りなど、よくあることだろうに」
だめだ、この王はまるで分かっていない。
エリザはこめかみを押さえた。
こうなったらはっきり言うしかあるまい。
「つまり陛下、わたしが申し上げているのは、エレオノーラ様の年齢のことです」
「年齢……」
復唱したレオンハルトがはっと目を見開く。
この期に及んでやっと質問の主旨を理解したと見える。
たちまち彼は焦りだし、「誤解だ」とつぶやきながら勢いよく首を振った。ついでに手も。
そして叫ぶ。
「俺はロリコンじゃない!!」
ロリコン――すなわち、幼児性愛者。
それは、このレガリア王国において、最も忌まれるもののひとつに値する。
それをよく了知するエリザは、はっきりと侮蔑のこもった視線をレオンハルトにぶつけた。
それだけにはとどまらず、「陛下がなんと仰ろうと」と前置きしたうえで、吐き捨てるように告げる。
「齢十の、まだあどけない幼女を後宮に入れるのは、人道にもとる行為ですわ」
もちろん齢十の幼女とは、エレオノーラ・ブライトン、その人のことである。