23...飛び出すことは、あるいは、飛び込むこと
この世には、手紙の返事を待つことを楽しめる人間と、そうでない人間がいる。
エレオノーラは、迷いなく後者に分類されるタイプの人間だ。
待つことは嫌いだ。何かを待って悶々とするのは、対処の仕様がない疼痛を我が身に内包するのに似ている。そんな心地を噛みしめるのは、一秒たりとて嫌だった。
エレオノーラには堪え性というものがない。
彼女が連絡の手段として手紙を用いることが稀なのも、その性分に因るところが大きい。
感情や思考を文字に起こし、送り、返事を待つ、という一連の流れが、彼女にとっては全く時間の無駄に思われる。自ら移動し顔を突き合わせて話すほうが、断然早く効率が良いというのに。
『急がば回れ』など冗談ではない。
障害物を粉砕してでも最短距離を突き抜けろ、というのが彼女の持論である。
そういうわけで、今回エレオノーラがエリザに手紙をしたためたのは、まさに例外中の例外、珍事といっても過言ではないことだった。
手紙を書くので便せんを用意してほしいとの旨を彼女が頼んだとき、侍女たちがそろって顔面蒼白となり、すわ姫様の一大事、やはり打ち所が悪かったのではあるまいか、としきりに心配したのは記憶に新しい。
まったく腹立たしいことこの上なかったが、エリザの件に関しては『急がば回れ』が最も適当に思われるので――最も、侍女のシェリルに自室謹慎を強行されたのが一番の理由であるが――エレオノーラは黙々と手紙を書いた。
書きあげた手紙は、恐れ多くも国王陛下が御自らエリザの元へ届けてくれた。
「後は心配するな」
敬愛してやまない王は頼もしい言葉をくれた、が、心配しないでいられるかと問われれば否である。
王の言葉を疑うはずもないが、自分の心はごまかせない。
焦燥は時間の経過とともに増すばかりだ。
広いとはいえ空間に限りある部屋の中を、右へうろうろ、左にふらふらと、手紙の行方を想うエレオノーラの動きはせわしない。
はじめこそエレオノーラをなだめ、茶などを勧めた侍女たちも、しだいに主の奇行を止めることを諦め、見て見ぬふりをするようになった。
「ねえ、返事はいつ来るかしら?」
エレオノーラがそわそわ問い掛けても、
「さあ、どうでしょうねえ。そのうち来るんじゃないですか」
侍女の返答はにべもない。
この以前も同じような問答が幾度となく繰り返されたことを思えば、侍女の返しがおざなりになるのも、仕方のないことだと頷ける。
以後も続いたこの問答には、主に忠誠を誓う侍女と言えどもほとほと嫌気がさして、各々仕事を(無理矢理)つくり、エレオノーラから逃げ出す始末だった。
そうして一人になったエレオノーラだったが、やはり煩悶はつのるばかりで、治まる様子がまるでない。
どうしても、手紙を読んだエリザの反応が気になる。
エレオノーラは何度も時計に目をやり、さして時間が経過していないことに嘆息した。
その間隔は徐々に狭まり続け、3分間隔だったものが一分間隔に、それがさらに30秒間隔に、そしてついに凝視するまでになったとき、エレオノーラは腹を決めた。
これ以上はもう――――待てない。
すなわち突撃断行の決断をした。
しかしながら、自室謹慎を余儀なくされている彼女が部屋の外に出ることは簡単ではない。
まず正攻法での脱出は無理だと考えてよいだろう。
扉を開けたところで、外で侍女が待ち構えているだろうことは想像に難くない。
正面突破は得策ではない。下手を打てば監視の目が厳しくなるだけだ。
では他に方法は?
エレオノーラは歴戦の勇士のごとき炯々たる眼差しで部屋を見回した。
何か使えるものはないのか――……。
やがて彼女の視線がある一点で止まった。
にいぃと、はなびらの如き唇が邪悪めいて歪む。
「そうよ、その手があったわ……!」
それから数分後、南殿に絹を裂くような悲鳴が響いた。
「ひひひ姫様あぁ……ッ!!!」
白い顔をした侍女たちは、呆然と主のいない室内を見つめる。
もぬけの殻となった部屋の中では、開け放たれた窓から吹き込む風によって、カーテンがひらひらと楽しげにゆれていた。
かくして南殿を恐慌に陥れた罰が当たったのだろうか。
エリザの元を訪れたエレオノーラは、早くも己のそそっかしさを後悔していた。
「――我が主に何かご用でしょうか?」
後悔の始まりは、今まさに扉を叩こうとしていた時だった。
背後から冷ややかな声をかけられ、エレオノーラはびくりと震える。
この、人を圧倒し屈服させる低い声には聞き覚えがあった。
嫌な予感がする。あるいは、それしかないと言うべきか。
心臓を悪い意味で高鳴らせながら、軋む音が聞こえそうなほどぎこちない動きで振り返る。
廊下の薄闇の中に、美しい女が立っていた。
すらりとした長身。それを包む深紅のドレス。ゆるく編まれた髪はわずかな陽光を受けて輝いている。
長い前髪が邪魔をして表情は分からないが、涼やかな輪郭の少し上で、薄い唇が淫靡に笑んでいた。
たったそれだけのことに、エレオノーラの背筋が凍った。
いや、凍った、などと言う言葉も生易しい。脊髄に直接氷を穿たれたような、激しい苦痛を伴うような恐怖とでも形容しようか。
彼女が目の前に立っている。彼女が自分を見つめている。
たったそれだけで人はこれほどまでに恐怖できるのか、とエレオノーラは一種の感慨さえ抱くほどだった。
かちり、という音が耳の奥で聞こえる。
かちかちかち、と連続して響くそれが自分の歯の根がかみ合わずに鳴る音だと気づくまでに、そう時間はかからなかった。
「そう怯えずとも、取って食ったりしないのに」
彼女が近づいてくる。纏う殺意が射すようだ、と思う。
恐ろしいと思うのに、なぜか動けない。
それは、恐怖に魅了され、体の隅々まで支配されているような感覚だった。
とうとうエレオノーラの目の前までやってきた彼女は、ゆっくりと腰をかがめ、エレオノーラと視線を合わせた。
甘く涼やかな香気が鼻腔をくすぐる。知っている香りだと思った。
――――でも、だれの?
「王の番犬の末の娘……」
冷たい指がエレオノーラの頤を救う。
呼吸の音まで聞こえそうな距離なのに、二人の間にあるのは甘やかさの欠片もない静寂だけだ。
値踏みされている、と感じる。
貴族令嬢としてではない。女としてではない。人間としてではない。
自分が彼女にとって使える存在に値するかという――――『もの』としての価値を問われている。
そう直感したが、エレオノーラは不思議と憤慨しなかった。
決して恐怖のせいではなく、その扱いが当然であるとなんの反感もなく感じたのは、本当に不思議としか言いようがない。
なぜ、なのだろう。
驚きを宿した青い瞳に、謎めいた彼女を映す。
その奥にあるものを、探ろうとするように、まっすぐと。
「――そうやって秘密を嗅ぎ分けようとするのは、困るな」
彼女の声が、幾分か柔らかい調子で耳朶を打った。
ついで頤を留めていた指が外される。どうやら、値踏みは終わり、ということらしい。
殺気が霧散したのは、ひとまず認められたと楽観的にとらえていいのだろうか?
それに、彼女言う『秘密』とは何だろう?
好奇心は猫をも殺すというのに、エレオノーラは懲りずに遠ざかっていく彼女の顔を見上げた。
その頑是ない視線が鬱陶しかったのか、彼女がかすかに舌打ちする。
「しつこいな……。公爵は子犬の躾もできないのか?」
ダンテ。エレオノーラの父の名だ。
貴族の中の貴族、その一柱たるブライトン公爵家の当主のことを、名で、しかも敬称もなしに呼び捨てることは、彼女のような侍女風情に許されているはずもないというのに。
いや、そもそも、エレオノーラへの不躾な振る舞いも、また然り。
彼女に憤怒するだけの理由が、エレオノーラにはある。罰することもできる。
だが、なぜだろう、彼女の纏う雰囲気が、エレオノーラの持つ正統な権利を主張することを、無意識のうちに妨げるのだ。
「あなたは……何者なの……?」
エレオノーラは、震える声で問いかけた。
恐るべき秘密の輪郭に触れようとしている、そんな予感を抱きながら。
「何者……か」
彼女は、鈍い輝きを宿すドアノブに手をかけながら、エレオノーラをそっと見下ろした。
薄い唇が、わずかに開いて、一瞬の逡巡の後、また閉ざされる。
やがて、ふ、とため息に似た笑みをこぼして、空いている手でそっと長い前髪を払う。
その瞬間、二人の視線が確かに交錯した。
睫毛に縁取られた瞳に宿る、絶望に近しい気だるい色が、エレオノーラの網膜に焼きつく。
「ただの侍女ですよ。――――今はね」
ささやくように密やかなその声を打ち消すように、扉が重々しい音を立てて開く。
エレオノーラを置き去りにして扉の奥に消えていく彼女、そのひるがえる衣の深紅は、血の色によく似ていた。




