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20...惑いを攫うやさしさ

 夢からの目覚めは唐突だった。

 ふいに、まどろみの最中にあった意識が急速に覚醒へと導かれ、エレオノーラははっと目を開く。

 まず視界に入ったのは寝台の天蓋。どうやら昼の時間帯のようで、寝台を守る豪奢なシルクは陽光を透かしている。

 いつの間に寝ていたのだろう。なにか大切なことを忘れている気がするのだが、それが何であるのか思い出せない。どうも寝過ぎたようで、意識は霞がかったようにぼんやりとしている。

 ぼうっとしている間に、ふと天蓋の向こうから音が聞こえた。扉が開く音だ。次いで人影が二つ部屋に入ってくる。


「どうかお静かに願います。エレオノーラ様は未だお目覚めになっておりませんので」

「ああ。身体の具合はどうだ?」

「御典医の見立てでは、軽い打撲と脳震盪だけで、命に別状はないとのことですわ」

「そうか。ならば問題ないな」


 小声で取り交わされる会話をうけて、エレオノーラは瞬時に降心した。近づいてくる彼ら――シェリルとレオンハルトの会話が彼女の意識の霞を取り払い、過去の記憶を明瞭なものにしたのだった。


(そうだったわ……私は、書院に行って、エリザ様と陛下に会って、それで――……)


 事の顛末を思い出したエレオノーラが眉をひそめたとき、天蓋の布が左右に開かれた。陽光が直に目に差し込み、その眩しさに目を細めた一方、陽光を背にしたシェリルは彼女を見て目を瞠っていた。


「まあ……! ノーラ様、お目覚めになられたのですね」

「ええ。たった今起きたわ」

「お身体に不調はございませんか?」

「全然ないわ。元気だけが取り柄だもの」

「それはよろしゅうございました」


 微笑したシェリルは、果実水を取りに行くと言って、エレオノーラが止める暇もなく部屋を出ていってしまった。そうなると必然的に、レオンハルトと二人で部屋に取り残されることになる。

 重々しく閉まる扉の音を聞いたエレオノーラは、己の心臓が張り裂けそうなほど強く脈打ちはじめたのを自覚した。ともすればレオンハルトにも音が聞こえているのではないかと心配になるほどに、心臓は早鐘を打っている。実際、二人きりの室内はいやに静かで、微かな物音ですらやけに大きく聞こえそうだ。先の転落騒動、ひいてはお茶会事件が尾を引いて、二人の間にはいかんともしがたい微妙な沈黙が満ちている。

 一刻も早くこの状況を打破したいとは思うのだが、果たしてどう口火を切ればいいのやら、エレオノーラには露とも分からなかった。

 いや、そもそも、合わせる顔などあるだろうか。このごろレオンハルトの不興を買ってばかりいる自覚があるエレオノーラは、かの王の顔を見るのも躊躇われた。少しでも視線が合えば、あの翠玉の瞳にありありと拒絶の色が浮かぶ気がして、それを見るのがただひたすら恐ろしい。

 以前、レオンハルトに『次はない』と最後通牒をつきつけられたことが思い出される。あの時の彼は本気だった。川べりで相対したとき、彼の冷ややかな軽蔑と殺意の中に、エレオノーラを殺すこともいとわないという意志を確かに感じた。


 そして先刻――書院での邂逅の後、レオンハルトから逃げようとして階段から落ちたエレオノーラは、エリザに身を呈して庇われた。助けを求めて宙を掻いた腕の中に、エリザのやわらかい体が飛びこんできたのを、おぼろげながらに覚えている。彼女はエレオノーラを優しく抱いた。そうすることで、エレオノーラを着地の衝撃から守ろうとしたのだ。

 恐らくエリザは少なからず怪我を負っただろう。それがどれほど重大なものであるのかは分からない。しかし、エリザをそこなったことは、レオンハルトの逆鱗に触れたに違いない。彼は――エレオノーラをどう思っただろうか。

 今まさに“その時”が来ているのかもしれない。エレオノーラは知らず唇を噛んだ。


「噛むな」


 突如、重々しいレオンハルトの声が沈黙を崩した。

 はじめ、彼が意味することが分からなかったエレオノーラだが、すぐに自分の挙動について言及されているのだと理解し、あわてて唇から歯を離す。

 おずおずとレオンハルトを見上げると、無言でうなずかれた。


「自分で自分を傷つけるのはよせ」

「はい、ごめんなさい……」

「謝る必要はない」

「はい……」


 そうは言われても、いちど怒られると気分は下降して深みにはまる一方だ。

 エレオノーラは暗い顔をうつむかせていく。

 それを見下ろすレオンハルトは柳眉を険しくさせた。


「そんな顔をするな。何も、怒っているわけではない」

「――うそ」

「本当だ。怒ってなどいない」

「でも以前、『次はない』とおっしゃったわ……」

「それはただ脅し文句で……、いや――」


 苦渋を噛みしめるような表情で口を閉ざすと、手で顔を覆い深いため息をついた。

 王と言う立場がそうされるのか、いつもそつなくふるまうレオンハルトが人前でこのような態度をとることはめずらしい。いっとき自分の置かれた状況を忘れたエレオノーラは、形の良いくちびるをぽかんとさせて彼の渋面に見入った。

 その無遠慮な視線に気づいているのか否か、彼はうめくように声を漏らす。


「悪かった……」

「え?」

「お前に非があったとはいえ、こちらの対応も大人げなかった。そんなに怯えるとは思ってなかったが、よく考えたらお前はまだ――」

「陛下……?」

「いや。……怖い思いをさせてしまったな。すまない」


 ぎこちない微笑み。細められた緑の双眸に、予想していたような軽蔑や背筋が震えるような冷たさはみじんも見受けられず、ただ温かな親愛の情だけが存在していた。

 その表情を見た瞬間、エレオノーラは自分が赦されたことを悟った。これまでに重ねてきた非に対し、彼が言外に赦しを与えたのだ。

 思いがけないことに、体中の血が沸騰するようだった。歓喜の熱にあてられて、胸の裡で凝っていたものが溶けていく。肩の力が抜けていくのを感じながら、彼女は深く息を吐いた。血色を取り戻した頬には一筋の涙が伝う。それはつ、と薔薇色の肌を滑り落ちて、寝間着に一点の沁みをつくった。それだけで終わればいいのに、涙はとどまる事を知らず、次から次へと溢れだしては寝間着を濡らしていく。


「どうして泣くんだ……」


 泣くな、と困りきった声でささやいたレオンハルトは、遠慮気味に伸ばした指でそっとエレオノーラの眦の涙をぬぐう。 けれども一度決壊した涙腺はそれしきの対応でどうにかなるものではない。エレオノーラは涙をぼろぼろとこぼしながら、おもむろに彼の腕をつかむと、もう一方の手を彼の首に回した。そのままぎゅっと抱きつく。

 何層もの布越しに、彼が体をこわばらせたのが分かった。彼は他人と必要以上に密着することを好まない。しかしエレオノーラは、なおも抱きつく力を弱めなかった。猫のように彼の首筋に顔をすり寄せると、彼の香水の香りが鼻をくすぐった。それがむしょうに好ましく思えて笑みを漏らすと、耳のすぐ近くで彼がため息をついた。


「お前なぁ……。もう少し大人になれ。はしたないぞ」


 しかし、そうは言うものの、レオンハルトは決してエレオノーラを突き放したりはしなかった。ぶら下がるようにして縋りつく彼女の体を下から支えてやり、ぽんぽんと無造作に背を叩く。その不器用な優しさは、意図せず彼女の涙の勢いに拍車をかけた。


「陛下はどうして、こんなに優しくしてくださるの……っ!」

「……べつに優しくなんてない」

「優しいわ……っ! 陛下はいつだって……ずっと優しかった……!」


 冷酷非情と恐れられることもあるレオンハルトだが、それが真でないということをエレオノーラはよく知っている。これまで彼と過ごした時間が、たしかにそれを証明してくれた。

 たとえば――入宮当初、慣れない後宮生活に嫌気が差して泣いた夜は、それを軽蔑したりせず一緒にいてくれた。ともに寝るときは、寝物語に同じ話を何度せがんでもいやな顔せず話して聞かせてくれた。散歩に行きたいといえば公務の合間を縫って時間をつくってくれたし、一緒に食事をとるときには、エレオノーラの好物を、彼の分までこっそりわけてくれるのだった。

 そんな彼が優しくないわけがない。

 エレオノーラは彼の優しさがいっとう好きだ。彼の優しさに触れるたびに、喜びで胸がきゅうっとする。

 しかしその優しさを享受する一方、その優しさを傲慢に損なったのも、ほかならぬエレオノーラである。彼の優しさが向けられる先が自分でないことに嫉妬しエリザを傷つけた。それも、最悪に近い形でだ。

 それがどんなに罪深いことであるかはよく知っている。だからこそ先の彼の赦しに涙が出るほどの喜びを感じたし、同時に今、おそろしいほどのうしろめたさをも感じていた。

 エレオノーラは額を彼の肩に乗せて、震える唇を開いた。

 どうしても言わなければいけないことがある。


「ごめんなさい」

「――エレオノーラ?」

「私、エリザ様に酷いことをしたわ。とてもおそろしいことを」

「……ああ」

「勝手に嫉妬して、勝手に怒ったの。挙句の果てには八つ当たりまでしたわ。私、とても理不尽なことでエリザ様を傷つけた。エリザ様は何にも悪くないのに」

「……そうだな」


 レオンハルトの声は、責めることも激昂することもなく、ひたすら淡々としていた。

 それが救いなのか断罪なのか、エレオノーラにはよく分からない。おそろしくて彼の顔を見ることができなかった。彼女は途方に暮れた。


「私、どうしたらいいのでしょう……?」

「それは、お前がいちばん知っているだろう?」

「でも、」

「現実から目を背けるな。相手を誤ってはいけない」

「相手を……」

「そうだ。お前を赦すことができるのは、エリザだけだ」


 突き放す声とは裏腹に、大きな手がエレオノーラの頭を優しくなでる。それは聞き分けのない子どもをあやすような手つきだったが、思いのほか心地よかったので、されるがままにした。やはり彼は優しいと心の中でつぶやく。

 ややあって、彼女は静かに寝台の上におろされた。彼は何も言わずにぽんぽんと頭を叩く。がんばれと伝えるようでもあった。首肯して頬に残る涙の跡を乱暴に拭いとる。にわかに顔を上げて彼の瞳をまっすぐに射抜くと、緑の双玉がつと細められた。


「心が――決まったんだな」

「はい、陛下」


 エレオノーラは力強くうなずいた。

 すべての迷いを捨てた今、成すべきことはただ一つだ。

 目の前で満足げに笑んだレオンハルトだけを見つめながら、彼女ははっきりと言い放つ。


「私、今度こそちゃんと、エリザさまにごめんなさいって言いたいの」

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