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19...追憶、遠方にある人を想う

 忘れられない記憶がある。


 蜂蜜に黄金を蕩かしたような光と厳かな闇が境界をあいまいにする夕べ。

 その夜は来客があると使用人たちが言っていた。

 屋敷はにわかに忙しくて、退屈したエレオノーラが使用人たちの目を盗んで外へ飛び出すのは容易かった。

 とはいえ脱走しても、両の手で齢を数えて余りある子どもの行く先など限られている。その日エレオノーラが一時の冒険に選んだのは、屋敷の裏の庭園だった。

 庭園といっても、さほど人目につかない場所のそれであることと、屋敷の主である公爵の勤倹質素な性質もあって、たいして庭師の手がかかっているわけでもない。

 そういうわけでその裏庭は、世間でもてはやされている人工的な美というには程遠く、良くも悪くも雄大な自然の景色がひろがっているのであった。

 しかし、エレオノーラは流行遅れの庭を苦々しく思うでもなく、むしろ好ましくすら思っていた。時として自分の背丈ほどある草花が茂っているそこは、幼い彼女にとっては絶好の遊び場だ。

 この季節はどんな花が咲いているだろうかと、心を躍らせながら庭へと駆けていくエレオノーラは、ふいに遠くにひとつの人影を見た。服装から、使用人でないことが分かる。成人した男のようだが、公爵ちちではない。公爵にしては身体が細すぎる。いったい何者だろうかと警戒しながら、足音を潜めて見知らぬ姿に近寄る。

 一歩、また一歩と歩を進めるうちに、件の人の輪郭は鮮明さを増していく。

 舗装された小路の途中で彼は何気ない風体でたたずみ、ぼんやりと空を見上げていた。朝影を紡いだような儚い色の髪は夕刻の冷えた風にさらさらとなびく。外套の襟から覗く首筋や顎の曲線があまりにも神秘的に滑らかなので、エレオノーラは緊張も警戒も忘れて思わず見とれた。

 ふいに斜照を惜しみなくのせた睫毛が震える。

 エレオノーラが我に返っては、と息をついたのと、彼の瞳がおもむろに茂みに潜むエレオノーラをとらえたのはほぼ同時だ。その瞬間、エレオノーラはぬけがらのような無表情を見た。美しいが、それはあくまでも彫刻や聖画にみられるあくまでも無機質的なものだった。

 澄んだ硝子玉のような瞳に射抜かれ、エレオノーラははからずも身体をこわばらせる。幼い彼女が知る由もないが、それはまぎれもなく畏怖という感情だった。

 それを敏感に感じ取ったのか否か。張り詰めた空気を溶かすように彼が無表情を解く。最上の美貌が微笑みをほころばせるものだから、エレオノーラは思わず息を詰まらせた。彼女の細胞と言う細胞に歓喜とも驚愕ともつかない痺れが走る。

 ――天使さまが舞い降りた!

 残照を受けて神々しいほどの彼を神話のものと確信したエレオノーラは、ドレスに土くれがつくのもかまわず跪くと手を組み祝詞を紡いだ。

 その姿は敬虔な教徒そのものであるが、たどたどしい祝詞や慎みなく“天使さま”を見上げる瞳は子どもらしさを十分に主張している。

 彼は苦笑して、そよ風のように軽やかにエレオノーラの前に膝をついた。唐突な出来事に彼女はきょとんとして首を傾げる。彼は言った。


「この場に祈りはふさわしくない。さあ立って、かわいいお嬢さん」


 目の前に差し出された手を取ると、彼は恭しくエレオノーラを引きあげた。一瞬だけ狭まった距離がほのかな香水の匂いをつたえる。甘いが涼しげで、好ましいと思った。

 手袋に包まれた手が離れたので、見上げると、彼もまたエレオノーラをみつめていた。唇だけで笑んだ彼は、ふと顔を上げて遠くを見やる。エレオノーラもつられて視線を上げる。

 一面のシオン。

 うつくしいね、と彼が言う。その声は優しくて穏やかで、エレオノーラの耳に心地よく響いた。でも少し淋しさもあるような気がして、そっと彼の横顔を伺い見る。遠方を望む表情ははっとするほど儚げで、瞳はひどく謐やかだった。

 そういえば。エレオノーラは漠然と思う。彼の瞳も、この庭の花と同じ色をしている。


「ミーシャ!」


 唐突に、背後で公爵の声が響いた。怒号にも聞こえるそれは、慣れない者には恐怖を与える事が多い。

 それゆえに気遣わしげに彼を見上げたエレオノーラだったが、予想に反し彼は笑顔を咲かせて後ろを振り向いた。


「ダンテ! 久しぶりだね!」


 公爵ダンテは、いかめしい顔をくしゃっとさせて笑って頷き、ついで逞しい腕を伸ばしたかと思うとミーシャと呼んだところの彼をぞんざいに抱擁した。


「よく来たなあ! しかもめずらしく早いじゃないか」

「きみが早く来いって言うからじゃないか。――それに、きみご自慢の庭を明るいうちに見ておきたかったからね」


 とても素敵だと彼が告げると、公爵は満足がいったようにうなずく。


「ぜひお前に見せたかった。紫の薔薇は無理だったが、これも紫だ、同じようなものであろう?」

「薔薇とシオンとでは大きな違いだと思うけど」


 彼が苦笑する。


「でも、嬉しいよ。ありがとう、きみは本当に素晴らしい友人だ」

「む……そう言われると悪い気はせんな」


 照れ隠しだろうか、公爵は笑いながらばしばしと彼の背を叩く。

 そのたびに大きく揺れる彼の身体を見ていられなくて、エレオノーラはついつい悲鳴を上げた。


「お父様、もうお止めになって! 天使さまが死んでしまったらどうなさるおつもりなのっ!?」

「エレオノーラ!? 悪い……ではなくて、どうしてここにいるんだ?」


 目を丸くして驚く公爵に、エレオノーラは何も言えなかった。まさか父に脱走してきたなど言えるはずもない。

 口ごもる娘に公爵が訝しげな視線を送る。


「まさかノーラ、お前、」

「そのお嬢さんは僕を案内してくれていただけさ」


 公爵の言葉を遮って彼が言う。

 別々の理由で驚く親子の前で、彼だけが飄然としていた。


「何!? そんなこと聞いてないぞ……本当なのか、エレオノーラ」

「えっと……」


 困って言葉を切ったエレオノーラに、彼がいたずらっぽく目くばせする。口裏を合わせろということらしい。罪悪感を抱きながらも、しかしどうしても罰のお尻ペンペンだけは回避したいので、エレオノーラはぎこちなくうなずいた。


「何……だと……!?」


 公爵はひどく狼狽した様子で、目をかっぴらき、顔を青くしたり白くしたりと忙しい。

 最終的に真っ赤な顔に落ち着くと、公爵は憤怒の表情で彼を睨んだ。


「妻と娘にだけは手を出すなとあれほど言ったのに……お前と言うやつは……ッ!!」

「失礼な……僕だって倫理くらいは持ち合わせている。そうでなくとも、きみとの約束を違ったりはしない」

「信じられるか!」

「信じてよ」

「……本当だな?」

「神と親愛なる国王陛下に誓って」

「よかろう。ついでに、これからは妻と娘の半径1キロ以内に近づかないとも誓っておけ」

「きみの中の僕はいったいどんな病原菌なんだ……まったく、愛妻家と親馬鹿にも程がある」


 ためいきをついた彼は、同意を求めるようにエレオノーラにウインクを投げた。

 すると当然、公爵が再び怒りだすわけで、また彼が痛い目に遭うのではないかとエレオノーラが慌てふためく。しかし、彼はその反応までも楽しんでいるようだった。


「――ねえダンテ、きみ、いいかげんお嬢さんに僕を紹介してくれないか」

「断る」

「お父様ったら! 私を仲間外れにしないでちょうだいっ!」


 エレオノーラが吠えると、公爵はあからさまにしょげた。友人の頼みは瞬殺できる公爵でも、目に入れても痛くないほど愛おしい娘の叱咤は堪えるのである。

 公爵はしぶしぶ彼を紹介した。


「ノーラ、この方はアーネット伯爵だ。私の友人でもある。いいか、絶対に近寄ってはならんぞ」

「きみ、僕を紹介する気があるのか?」

「もちろん。――で、だ。ミーシャ、これがエレオノーラ。私の可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い」

「お父様、長い」

「――とにかく可愛い娘だ。金輪際近づくなよ。話しかけるのなんてもってのほかだ」

「僕は時々、きみが本当に僕を友人だと思っているのか疑わしいよ」


 そう言うと彼は肩をすくめた。ただし、言葉とは裏腹に表情は明るく、公爵を本気で責めていないと一目で分かる。おそらく、公爵の方も本気であれこれと言っているわけではないのだろう。

 エレオノーラの見る限りでは、二人は気の置ける友人同士だった。




 夕暮れのシオンの花畑に、人影が三人。

 風と葉擦れの音、そして笑い声だけが、降り落ちる黄金の光に揺れていた。




 折に触れて思い出すその記憶は、まぎれもなく平穏な一風景のひとつなのだが、なぜだろうか、エレオノーラはこのときを思い出すたび、いつも一番に彼の淋しさを孕んだ儚い姿を思い出す。うつくしい天使、その静謐なかなしさを想うのだ。


 あれから数年の時間が経過した。

 年が巡るたびに花開くシオンを彼が目にすることは、もう二度とない。

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