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18...落花

「お勉強ですか。流石ですわね……私も見習わないと」


 エレオノーラが探し求めていたのが辞書だったからだろう、エリザがそう言って褒めた。

 先日の落水事故が尾を引く気まずさに照れくささが相まって、彼女の笑顔を直視できないエレオノーラは、ぷいと明後日の方向を向く。


「別に勉強ってほどのことじゃないの。知らない単語を調べようと思っただけよ」

「その志が素晴らしいのですわ。そのためにわざわざ書院ここに足を運ぶレディなんて、そうそういませんもの」

「ふん……褒めたって何もないわよ。お菓子はもう衛兵にあげちゃったもの」

「え? お菓子?」

「な、なんでもないわっ!!」


 ぶんぶん首を振るのに合わせて、エレオノーラの巻き毛も揺れる。

 エリザはくすくす笑いながら「せっかくの御髪が乱れてしまいますわ」と言って、伸ばした手でそっと髪を整えてやった。


「――それで、何の単語をお調べになっていらっしゃったの? その辞書は使いにくい型ですから、代わりに引きましょうか」

「そうなの? なら、お願いするわ。よろしくね」

「はい、お任せください」


 重そうに差し出された辞書を受け取ると、エリザはそれをこともなげに手の上で開く。

 彼女に視線で促され、エレオノーラは「“ふしだら”よ」と答えた。


「は? ふしだら……ですか?」


 エリザの紫色の瞳が驚愕に見開かれる。

 それを不思議に思いながらも、エレオノーラは尊大にうなずいた。


「そうよ、“ふしだら”。ずーっと気になっていたの。これってどういう意味?」

「いや、わたしとしては、その単語が気になる状況というものに興味が惹かれるのですが……」

「エリザ様って変なことを気になさるのね。――あなたの話をしていたときよ」

「えっ!?」


 エリザの目がさらに丸くなる。


「いったい、どんなお話をなさっていたんですの……?」

「あー……それは、まあ……色々よ」


 まさか『あなたの部屋に送った間諜の報告をきいていたの』と言えないエレオノーラは、あからさまに言葉を濁した。

 それをどうとらえたのか、エリザはが遠い目をする。


「まあ、陛下に目をかけていただいていれば、いづれはそうなると覚悟していましたが……」

「? 陛下の寵愛をいただいたから“ふしだら”になったってこと?」

「断じて違いますわ」


 即答したエリザはいたく真顔だった。

 彼女は「そ、そう……」と若干引いた様子のエレオノーラに気付き、とってつけたように笑みをのせて言う。


「そうではなくて。良くない噂が流れる、ということですわ」

「ああ、そういうこと」


 ようやく“ふしだら”という単語がよくない意味を持つと理解できた。

 うなずいたエレオノーラは、だけど、と眉を寄せる。


「寵愛される妃が、他の人間からやっかみや嫉妬を受けるのは当然でしょう? そりゃあ辛かったり腹立たしかったりするでしょうけど、それを嘆くのはどうかと思うわ。そんな暇があるなら、どうやって報復するかとか、後宮を掌握するかとか……もっと建設的なことを考えるべきよ」

「な、なるほど……?」

「私が思うに、エリザ様はもっと強気になった方がいいわ」

「強気、ですか」

「そうよ。完璧な化粧をして、髪を芸術的に結いあげて、美しく着飾る――エリザ様の場合は、まずそこからね」


 エレオノーラは厳しい目つきで、エリザのつま先から頭のてっぺんまで、舐めるように見つめた。


「はっきり言うけど、今のエリザ様は衣装に着られていてよ。人気のない書院に出向くだけと気を抜いていたのでしょうけど……いいえ、それにしても化粧と髪型がダメッダメね。そんな風では、陛下のドレスがかわいそうだわ!」

「だ、だめっだめ……」

「もうっ、しっかりなさって! こんな初歩の初歩で打ちのめされているようでは、とてもじゃないけど後宮の戦場サロンで戦えなくってよ!!」


 腰に手を当てたエレオノーラは、泣きそうな顔のエリザを見上げ、ちいさな唇を尖らせた。

 サロンは戦場ではないとつっこめる正常な思考を持つ人間は、残念ながらこの場にいない。


「部屋にこもっているだけでは、嘲笑も誹謗も止まないわ。それが嫌なら、外見おしゃれと笑顔で武装して戦場そとにでて、他の女たちをぐうの音も出ないくらい叩きのめすことね。あの女に寵愛を奪われるなら仕方がないと言われてやっと、本当の勝利なの。お分かりかしら?」

「た、たぶん……?」

「なによそれ。情けない返事ねえ」


 傷心のエリザに追い打ちをかけるかのように、たいそう偉そうに溜息をつく。

 ここまでボコボコに打ちのめされては(しかも相手に悪気がないのがまた辛い)、エリザの図太い精神もいよいよ陥落寸前だ。

 このときエレオノーラは、『陛下の寵愛を独り占めするあのいけすかない生意気なエリザに制裁を加えたい』というその他大勢の後宮の女たちの願いを意図せず叶えていた。

 しかし半泣きのエリザの情けない姿を、さすがに哀れに思ったエレオノーラは、これ以上の追撃を中止し、話をそらすことにした。


「そういえば、エリザ様はどうしてここにいらっしゃったの?」

「わ、わたしですか……?」


 未だダメージを回復しきれていない様子で、エリザがのろのろとまばたきする。


「わたしの場合は、完全に趣味ですわ。本を読むのが好きなんですの」

「へえ、知的な趣味ね。何を読まれるの?」

「小説、伝奇、歴史もの、学術書……いろいろですわ。活字ならなんでもいけます」

「思った以上にすごいわねえ……。私は読書が嫌いだから、いつもシェリル――侍女に本を読みなさいって怒られるのよ。エリザ様が羨ましい」


 素直に感嘆と羨望のまなざしを注ぐと、エリザははにかみがちに微笑んだ。


「ありがとうございます。嬉しいですわ」

「礼には及ばないわ。他者を正当に評価するのは人として当然のことだもの」

「たしかにそうかもしれません。ですが、それを正しく実行できる人が少ないのも事実です」

「あっそ……勝手に言ってなさい」


 エレオノーラはぷいとそっぽを向いた。

 言わずもがな、照れ隠しである。


「なんか、悪かったわ。せっかく書院に来たエリザ様の手を煩わせちゃったんだもの」

「わたしは構いませんわ、気になさらないでください。今日は本を返しに来ただけですの」

「でも、侍女を待たせているんでしょう?」

「いいえ、侍女はつれていません。……別の方ならいらっしゃいますが」

「え?」


 首を傾げると、「いえ……」とやけに歯切れが悪い返事をよこして、エリザが目を伏せた。


「なによ……どうしたっていうの?」


 エレオノーラが怪訝そうに尋ねるが、エリザの返答は、一歩先だって響いた第三者の声に中止された。


「エリザ? そこにいるのか?」


 二人してはっと息をのむ。

 今の声は、エレオノーラにとっても良く知った声だ。

 間違えるはずもない、エレオノーラが敬愛してやまず、しかし今もっとも鉢合わせたくないひとのもの。


(嘘でしょう……どうしてここに!?)


 咄嗟にエリザを見るが、「自分のせいではない」というように首を左右に振られてしまう。

 逃げたい欲求にかられるが、ここで逃げたらますます嫌われてしまう予感がして、動くに動けない。


「どどど、どうすればいいの!?!?」

「知りません! あっ、ずるいですよエレオノーラ様、わたしを盾にしないでください!!」

「しっ、大声を出さないで!」


 エリザの背に隠れ、エレオノーラは冷や汗をかきながら硬直する。

 できれば来ないでほしい――心から願ったが、その想いもむなしく、は柱の脇からひょいと現れた。


「ここにいたのか、エリザ。本は見つかっ――……」


 声が不自然に途切れる。

 恐ろしさゆえに目は閉じていたが、視覚がなくとも彼の視線が自分に注がれていることに気づくのは容易かった。


「……エリザ、お前がうしろに隠しているものは何だ?」

「えっ……なんかありますか?」

「しらばっくれるな。まったく……エレオノーラ、いつまで隠れているつもりだ?」


 名指しで呼ばれては、これ以上このみっともない格好をしているわけにもいくまい。

 エレオノーラは覚悟を決めて前に進み出た。

 スカートの裾をつまみ上げ、礼儀正しく挨拶をする。


「ごきげんよう、陛下」


 返事は一拍遅れてかえってきた。


「エレオノーラ、お前はずいぶん元気そうだな」

「……は、い」


 肯定する。そうするしかない。

 レオンハルトは重々しくうなずき、唇の端をゆがめた。


「そうか。それは結構なことだ」

「……」

「……朝礼に姿が見えないから、お前の父君がたいそう心配していたぞ」

「っ、」

「なぜ、朝礼に出なかった。朝礼への出席は、南殿の筆頭たるお前の義務だぞ」


 降り注ぐ声と視線が、いたく冷たい。

 エレオノーラは目を伏せ、スカートの布をぎゅっと握りしめた。

 そうでもしなければ泣いてしまいそうだ。


「……だんまりか」


 レオンハルトがため息をつく。

 そのすみずみに冷ややかな侮蔑と失望が満たされているようで、エレオノーラは居ても立ってもいられない気持ちにかられた。

 逃げ出したい。今すぐにでも。


「エレオノーラ、私は前に言ったはずだ――“次はない”と」

「!!」


 エレオノーラは弾かれたように顔を上げた。

 見上げた先に、レオンハルトの顔がある。

 彼は美しいかんばせをつくりものめいた無表情にして、エレオノーラを睥睨していた。


「……っ!」


 噛みしめすぎた唇の薄い皮が、切れる。

 もう……限界だ。

 きびすを返し、一目散に走り去る。

 逃げてはだめだ。頭の冷静な部分が理性的に警告するが、そうかと言って足を止められるようなら、始めから逃げ出すようなことはしない。

 今からでも遅くない。謝らなければ。

 分かっているのに、足が止まらない。

 涙に揺れる視界が疎ましくて、エレオノーラは乱暴に涙をぬぐった――その刹那。

 狙ったかのように、足がもつれた。


「あっ!!」


 ぐらり、と身体が前に傾く。

 なんの悪魔のいたずらか、目の前には階段が続いていた。

 咄嗟に身体をねじって手すりに手を伸ばす。しかし届かない。

 笑ってしまうほどあっけなく、エレオノーラの身体は宙に投げだされた。


(うそ)

(やだ)

(待って)

(だれか、)


「エレオノーラ様!!!」


 恐ろしさの余り遠くなる意識の中で、自分を呼ぶ声だけが弾けた。

 閉じゆく視界の中に、緑色の花が咲く。


(――――たすけて)

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