17...すべてがあともう1センチたりない
拗ねたエレオノーラは、うすい胸のうちで燃える怒りの炎に身を任せてずんずん歩いた。
途中、何度も背中に自分の名を呼ぶ声が聞こえたが、そのたびに「来ないで!」とにべもない。
そうしているうちに侍女たちも主人のご機嫌取りを諦めはじめ、やがて声もかけられなくなった。
(なによ……もうちょっと粘ったら許してあげたのに……ばか)
ばかもなにも、自業自得であるのだが。
内心しょげながら南殿を出た彼女は、薔薇薫る前庭に立ち入った。
すると奥からなにやら固い声が聞こえてくる。
(なにかしら……?)
怪訝に思い、足音をひそめて声の聞こえる方へと近寄る。
花壇の陰からそっと奥を伺うと、険しい表情でお茶会に勤しむ娘たちを見つけた。
彼女たちは下級・中流貴族の令嬢であり、後宮には花嫁修業として参上している肩書きばかりの妃だ。
あわよくば陛下の寵愛を――などと生ぬるい考えで後宮に入り、今ではすっかりエレオノーラの取り巻きと化した娘たちなど、もはや敵ではない。
恐るるに足らず。
そう判断したエレオノーラはひとまず警戒を解き、お茶会の様子を覗き見るのに専念することにした。
「――いそうに……気落ちなされて……」
「おいたわしくて…………わ」
「まったくよ、……――のせいね」
「……してもぴんぴんしているし、……のではなくて!?」
「もっと……をする必要が……」
「侍女……不祥事――……だもの」
「宦官相手よりは…………けど、少なくとも……――」
(な、なにを話しているのか、さっぱりわからないわ……!)
話の内容を鮮明に聞きとるには距離があり過ぎるようだ。
だんだんとじれったくなってきて、エレオノーラはとうとう正攻法に出た。
「なにやってるのよ、あなたたち……」
正攻法――すなわち、覗き見をやめて普通に登場したわけである。
突然のエレオノーラのお出ましに対し、お茶会の娘たちは一様に驚愕の表情を見せた。
「エレオノーラ様っ!?」
「どうしてこちらに……」
「もしや、今のお聞きになって――」
「あ、何言ってるの!」
「しーっ!!」
顔を青くしたり、ティーカップをひっくり返したりと、見ていてかわいそうなほどの動揺っぷりだ。
それがあんまりひどい様子なものなので、エレオノーラはちょっと傷ついた。
「そんなに驚かなくてもいいじゃないの……私に見られたて困るようなことをしていたわけじゃないでしょうに」
「うぐ!!」
「……うぐ?」
「い、いえ! なんでもありません!!」
「そう? ――まあいいわ。せっかくの楽しいお茶会を邪魔して悪かったわね」
これ以上娘たちを震え上がらせるのも不憫なので、エレオノーラは踵を返そうとした。
しかし、途端にスカートの裾をぐわし!と掴まれて動きを制される。
「えっ、何!?」
驚いて振り返ると、娘たちがみな一様に目をきらきらさせて、彼女に微笑みかけているではないか。
「まあまあ姫様、そうお急ぎになられなくても」
「ここでゆっくりしていってくださいな」
「一緒にお話いたしましょう」
お茶会のお誘いらしい。――なぜか鼻息が荒いのが気になる。
熱心に誘われて悪い気はしないが、エレオノーラにも都合というものがある。
「悪いけど、用事があるから行くわ」
社交辞令などおかまいなしに、けんもほろろに断る。
娘たちはいっせいに残念そうにするが、その様子に騙されてはいけないことは経験が物語っている。
ここで断らなければ、なんやかんや理由をつけてお茶会に参加させられることを、エレオノーラは嫌というほど知っていた。
「残念ですわ」
「次の機会にはぜひ一緒にお話してくださいね」
「そうだわ、ぜひお菓子を持って行ってくださいな」
「え、別にいらな――」
「まあ、そんなことおっしゃらずに! おいしんですのよ、これ」
「あら、こっちだって美味しいですわよ。姫様、これもいかがですか?」
帰るという言葉をきいていたのかいないのか、娘たちは無邪気にエレオノーラを引き留めようとする。
このままでは埒が明かない。
そう判断したエレオノーラは、「これ召しあがられませんか?」「こちらはどうかしら?」とお菓子をダシに引き留めようとする娘たちをなんとか引き剥がし、文字通り逃げるようにその場を去った。
「まったく……酷い目にあったわ……」
お茶会を抜け出すときに無理やり押し付けられた、お菓子が包まれたレースペーパーを両手で持ち、精根尽きた様子で歩くこと十数分、やっと目的地である円塔状の建物の目の前までやってきた。
「あー、もー、書院って無駄に遠いのよね……」
ぶつくさ言いながら玄関へと近づくと、扉を守る衛兵たちがエレオノーラに気付いて敬礼する。
「御苦労さま」
エレオノーラはねぎらいの笑みを浮かべて衛兵の前を通り過ぎようとした。
「あ、お待ちください、姫君」
直前で衛兵に呼び止められ、エレオノーラは歩みを留める。
「私に何のご用かしら?」
つんと澄まして尋ねる。
すると、ひょろっとした方の衛兵が申し訳なさそうに口を開いた。
「書院へのお菓子の持ち込みは禁止されております」
「…………」
雪のように白い頬が羞恥で真っ赤に染まる。
きっと、衛兵に食い意地のはった娘だと思われたに違いない。
エレオノーラは、あの無駄にボルテージが高い娘たちを恨み、断り切れずお菓子を受け取ってしまったことを悔やんだ。
こうなるとわかっていれば、絶対に受け取らなかったというのに。
「あの……、よろしければ、俺――私がお預かりしますが」
気をきかせた衛兵が申し出るが、エレオノーラは仏頂面で首を横に振った。
「あげるわ。立ちっぱなしで疲れてるでしょう、食べなさい」
ん、とぶっきらぼうにお菓子を差し出す。
もちろん衛兵は遠慮したのだが、エレオノーラとしては、彼が受け取ってくれないと、もはや引っ込みがつかない。
「いいから食べて!」
半ば押しつけるようにしてお菓子を衛兵に渡し、そそくさと書院へ入った。
後宮で唯一の知識のありかである書院は、優美な曲線を描きながらドーム型の天井近くまで伸びている螺旋階段がとても印象的な施設である。
壁面は本棚となっており、上から下まで余すことなく本で埋め尽くされている。
さして本を読まぬ後宮の女たちのためにこのような書院をつくるとは、と呆れとも感動ともつかない心もちで、エレオノーラはしげしげと内装を鑑賞する。
彼女も、これがはじめての来院なのだ。
(しかしまあ、こんなに本がたくさんあっても、どれが目当てのものだかわからないわね……)
本の数が並大抵ではないために、目当ての辞書が見つからない。
辞書などすぐに見つかるだろうと高をくくっていたのだが、どうやら見込みが甘かったようだ。
こうして探していると、壁という壁に整然と収納された本の大群に眩暈すら覚える。
それでも諦めず捜索を続け、苦心して辞書を探し当てたのはいいが、ここでまた問題が発生した。
(と、とれない……っ!?)
身長が足りなかったのである。
背伸びして限界まで伸ばした指先が、辞書の背表紙に届きそうで届かない。
「んーーーっ!!」
懸命に手を伸ばすも、やはりおしいところをかすめるばかりだ。
エレオノーラは悔しさと腹立たしさで泣きたくなってきた。
それでも諦めきれずもう一度手を伸ばす。
「――ちょっと失礼」
ふいに横から手が伸びた。
ほっそりとしたその白い手は、エレオノーラの目当てを颯爽と本棚から抜きとってしまう。
「あーっ!?」
苦心して取ろうとしていた辞書を掠め取られたエレオノーラは堪ったものではない。
よくも私の本を!と怒りの形相で振り返る。
「無礼者! それは私が――」
とろうとしていた本よ、と続くべき言葉は、しかし半ばで途切れた。
代わりに紡がれたのは、エレオノーラの青き双眸に映ったひとの名だ。
「エ、エリザさま……」
どうしてここにいらっしゃるの。
そう言いたかったが、上手く言葉にならない。
「ごきげんよう、エレオノーラさま」
紫の瞳を細めながらエリザが辞書を差し出す。
エレオノーラはようやく、伸ばされた手の意味を悟った。
躊躇いながら受け取った辞書は、ずっしりと重い。
「ありがとう……その、取ってくれて」
おずおずと感謝を伝えると、エリザは屈託のない微笑みを見せた。
「どういたしまして」