16...フィルタリングされる真実
「なあに、この下品な声……エリザ様かしら」
例の淑女らしからぬ悲鳴が聞こえたほうへ目をやりながら、エレオノーラは眉をひそめた。
見つめる廊下の先はどこまでも薄暗く、得も言えぬ不気味な雰囲気が漂っている。
「なにか……あったのでしょうか」
「まあ、いやだ」
「衛兵を呼んだ方が良いのではなくて?」
「こわいわ」
控えていた侍女のひとりが不安そうに言ったのを切欠に、ほかの侍女たちも口々に騒ぎ立てる。どうやらただならぬ悲鳴に怯えているらしい。
一方でシェリルは、彼女たちの発言に眉をひそめていた。
「あなたたち、そういうことを言うのはおよしなさい」
侍女たるもの、主の心を乱す言動は慎まねばならない。
叱られた侍女たちははっとした様子で口をつぐみ、一様に謝罪を始めるのだが、もう遅いとシェリルは内心ため息をついた。
なんせ、窺い見たエレオノーラの顔色は芳しくない。
侍女たちに影響されたか、あるいははじめからそうであったのか、エレオノーラもまた、侍女たちの案じるところの『なにか』を憂慮しているのだろう。
「エリザ様は大丈夫かしら……」
エレオノーラが浮かない様子でつぶやく。
彼女の脳裏に浮かんだのは、以前後宮に存在したエスメラルダという娘にまつわる悲劇である。
エスメラルダはいわゆる賎妃で、歌姫だったか舞姫だったか、本来ならば後宮に入ることも、王に見えることも許されない立場の娘だった。
王は彼女を愛したが、それに嫉妬した他の妃たちは、エスメラルダの身分が低く後ろ盾がないのをいいことに、散々嬲り倒し、挙句毒を盛って彼女を後宮から追い出した。
一方のエリザは、名門伯爵家を生家にもつが、その家は先代の伯爵――つまりはエリザの父のとある悪癖によって瞬く間に没落している。
それゆえ、由緒正しい血筋ではあるが、なによりも権力が物を言うこの後宮においてのヒエラルキーはめっぽう低い。
そんな彼女が王の寵愛を一心に受けているのだから、身分も気位も並み並ならぬ妃たちが面白いわけがない。
日ごとに嫉妬と鬱憤は高まり、今や爆発寸前であろうことは、エレオノーラとて手に取るように分かる。
しかし、とエレオノーラは淡く色づいたくちびるを噛みしめた。
悋気で目を曇らせ、王の庭を荒らす僭上を許すことは彼女の――王の番犬の道理に反する。
「シェリル」
エレオノーラは堅い声で腹心の侍女の名を呼んだ。
シェリルは返事をする代わりに数度睫毛を震わせる。
「誰かに様子を見に行かせてちょうだい」
「そう言うと思って、もう間諜をやりましたよ」
シェリルがにたりといけすかない笑みを浮かべる。
ここは気がきく彼女を褒めてやるべきなのだろうが、己の内心を見透かされているような感じがなんだか気にいらなくて、エレオノーラはしかめっ面で鼻を鳴らした。
「……ふん。じゃあ、さっさと引き返しましょう」
自身に危険が及ばぬうちに撤退するのも高貴なる血筋の務めである。
気は乗らないが、自室で報告を待つことにした。
ほどなくして帰還した間諜に報告を受けたエレオノーラは、まずはじめに「うん?」と首を傾げ、間諜に偵察の内容を今一度繰り返すよう命じた。
「中殿に異変はございません」
官庁によって淡々と繰り返された説明は、エレオノーラの疑問を深めるばかりだ。
「そんなはずないわ、だって、あんなに普通じゃない悲鳴があったのよ?」
「しかし姫様、中殿をくまなく回って参りましたが、どこにも異変はございません」
「血だまりは?」
「ございません」
「死体は?」
「ございません」
「えー……」
エレオノーラは釈然としない面持ちで頬杖をつき、胡乱な視線を間諜に浴びせる。
使えない間諜ねえ、とその目が物語っていた。
「まあまあノーラ様」
平身低頭する間諜と主の間に入ったのはシェリルだ。
彼女は朗らかな笑みを浮かべつつ、頬杖をつく腕をぴしゃりと叩く。
「喜ばしいことではないですか、何もないに越したことはありませんわ」
「うっ……まあそうだけど……ていうか、痛いんだけど。叩かないでちょうだい」
「それで、あなた、悲鳴の主は分かったのですか?」
主の苦情を全く無視して、シェリルが間諜に問う。
シェリル様強い、とその場にいた使用人の誰もが思った。
「はっ。それでしたら、エリザ・アーネット嬢の声のようです」
「あら、やっぱりエリザ様だったのね!」
エレオノーラが得心いった様子で手を叩く。
しかし、正解に喜んだのも一瞬で、すぐに眉を寄せて問うた。
「じゃあ、どうしてあんな悲鳴を上げたのよ?」
「それは……申し訳ありません、突き止められなかったのですが……」
「“ですが”?」
いかにも続きがありそうな口ぶりだ。
エレオノーラは視線で続きをうながしたが、間諜はなにやらばつが悪そうに口ごもってしまった。
「いえ……姫様の御耳に入れるようなことでは……」
「それは私が判断することだわ。早くおっしゃい」
「――はっ。姫様の御意のままに」
毅然と告げるエレオノーラの威光に打たれた間諜が深く頭を垂れた。
先ほどまでの躊躇はすでに頭から消え去ったらしい。
主人に忠実な僕は命じられるままに口を開く。
「エリザ嬢は、侍女とふしだらな行為をなさっているご様子でした」
瞬時に部屋の空気が凍りついた。
「……は? ふしだら?」
唯一、意味を理解できなかったエレオノーラだけが、のんきに首を傾げる。
「ねえシェリル、ふしだらってなに?」
「……」
シェリルは答えない。
否、答えられない。
シェリルたち使用人の雇主たるブライトン公爵の教育方針に反するからである。
「ねえ、ねえったら」
「……」
裾を引っ張られ、無言を貫きながら、シェリルは容易く主の威光に屈した間諜を呪った。
あなたさえ沈黙していれば面倒事にならなかったものを――その殺意を感じた間諜がぶるりと身を震わせる。
「また無視なの? もういいわ、別の人間に聞くから」
言葉通りエレオノーラが視線を別の侍女に向けるが――その侍女は一瞬にして青ざめて顔を伏せた。
ならば、とまた別の侍女を見るが、彼女もまた顔を伏せる。
次、また次、と視線を移動させても、同じことが繰り返されるばかり。
「な、なんなのよ……」
己を取り囲む人々の異様さに慄き、エレオノーラは知らず後ずさった。
しかし、ここでしっぽを巻いて逃げるだけの彼女ではない。
すぐに気を持ち直して周囲を睨みつけ、手近な辞書を掴む。
「みんなして私を馬鹿にするのね……もういいわ!」
決別を告げ、力の限り投げつけたのは先ほどの辞書である。
辞書は回転しながら壁に吸い込まれ、優美な柄の壁紙に亀裂を生じさせた。
そして、悲鳴を上げる侍女たちを涙目で射すくめて言うことには、
「教えてくれないなら、辞書で調べるっ!」
その辞書は今や壁にめりこんでいるのだが……。
主の行動と発言の矛盾を指摘すべきか周囲が悩んでいるうちに、エレオノーラは部屋を飛び出してしまった。
逃亡は激情した彼女のいつもの行動のひとつだ――もっとも、破壊力はいつもとは桁違いだが。
勢いよく閉じられた扉が悲鳴を上げる。
その衝撃が壁を伝ったのか、壁に突き刺さっていた辞書も床に落ち、壁紙がぱらぱらと剥がれた。
「…………」
部屋に取り残された者たちの間に沈黙が落ちる。
床に転がった辞書が開く頁は、奇しくもエレオノーラが知りたがった単語を示していた。