15...王の番犬
陽が昇ったにもかかわらず、中殿の廊下はぼんやりと薄暗い。
これは単に建築上の理由なのだが、そこを重い足取りで進むエレオノーラは、まるで己の心模様を反映しているようだと感じた。
ほう、と憂鬱そうなため息をつく。
うつむけば、ふわふわと揺れる真っ赤なドレスが目に入った。レースとフリルがこれでもかとあしらわれた可愛らしいそれはエレオノーラのお気に入りだが、今ばかりは見るのもうんざりだ。
暗然たる心もちの彼女は、人生初の謝罪をしにエリザの部屋へ向かう途中である。
そりゃあ気持ちも塞ぐってものだわ、と再びため息。
すると、先導していたシェリルが顔だけ振り返った。
「ノーラ様、いい加減覚悟をお決めくださいませ。いつまでそうしてウジウジなさっているおつもりですか?」
「ウジウジなんかしてないわよ、失礼ねっ!」
「そのわりには足取りが重いようですが?」
「それは……その……あっ、そうだわ、こんな朝早くに部屋を尋ねるのは無礼じゃないかしら、と思っていたのよ。私、礼儀も知らない女として他の女たちに嗤われたくないわ」
人目がないのをいいことに頬を膨らませるエレオノーラ。
彼女が内心、我ながら良い出来だと思っている言い分は、傍から見れば渋っているのがバレバレである。
シェリルは呆れ半分、怒り半分でエレオノーラを見下ろした。
「朝早く、って……私たち侍女の制止に聞く耳も持たず部屋を飛び出したのは、ノーラ様でしょうに……」
「うっ!」
何を隠そう、「思い立ったが吉日、やると決めたらちゃっちゃとやるわよ!」と言いだしたのは、エレオノーラ自身なのであった。
今思うと、それは両親に怒られるという恐怖と徹夜明けのテンションの賜物であるとしかいいようがない。
しかし、その異様な興奮も中殿に入ったあたりで冷め始め、冷静を取り戻したエレオノーラは、今さらながらにエリザの元へ行くのが恐ろしくなっていたのである。
シェリルも主人の感情の変移は理解しているが、それでもなお容赦はしない。
ここで優しくするとエレオノーラが増長するのは、長年の付き合いで嫌というほど理解しているからだ。
「大事な大事な朝礼をサボってまでやってきたと思えば、このザマですか」
「あぐ……」
朝礼といえば、四方の方の大事な職務のひとつだ。
内容は王に朝の挨拶をして礼拝に臨むだけなのであるが、たいていの人間は、ぬきさしならない事情がない限りこれを休んだりはしない。
ましてやサボるなど、同じく朝儀に参加するエレオノーラの父が聞けば、その場で卒倒しかねない事態である。
「愛する娘が続けて不祥事を起こしたのですから、公爵閣下はさぞお嘆きでしょうねえ」
「……」
想像以上の事の重さに、もはや声もでない様子だ。青ざめてプルプル震える姿は哀れを誘うものがある。
少しやり過ぎたかと反省したシェリルは、主人の背中を優しくなでた。
「ま、過ぎたことは忘れましょう。今はエリザ様に謝罪することだけを考えればよろしいのです」
「……」
「公爵閣下には後で私が上手く説明して差し上げますから、そんなにしょげないないでください」
「……本当に?」
エレオノーラが上目づかいにシェリル見上げる。
シェリルはその視線に応えるようにうなずいた。
「ええ、もちろんです」
説明するからと言って、公爵の怒りが収まるとは限らないが――ということは伏せておく。
よく言えば天真爛漫、悪く言えば単純なエレオノーラはまんまと策略に引っ掛かり、すっかり元気を取り戻してツンとあごをそらした。
「じゃあ、行きましょう」
およそ淑女らしからぬ悲鳴が聞こえたのは、その時である。
そのころ、王宮の大聖堂では、朝礼が粛々と執り行われていた。
荘厳かつ優美な音楽が流れる最中を、正装に身を包んだ重臣たちが次々と王に謁見する。
皆、いかにも貴族らしい沈着な面持ちでいるのだが、それに紛れるようにして一人、沈着を通り越して陰鬱な空気を醸し出している男が、やけに存在感を放っている。
その男こそ、かの令嬢エレオノーラの父、ダンテ・ブライトンだ。
常ならば胸を張って堂々たる佇まいでいるのに、今日は大柄で筋骨隆々とした体躯を縮こまらせている。
さらには、今まさに死地に赴かんとするが如き表情をしているものだから、不幸にも彼の姿を目にとめてしまった貴婦人方は絹を裂くような悲鳴を上げて失神するし、文官の澄まし顔も驚愕で歪むありさまだ。
そんなわけで、この日の朝礼は、ブライトン公爵に何があったのかという話題で賑わいをみせていた。
貴族たちの根も葉もない噂話においては、奥方と一悶着あったのではないか、というのが最も信憑性が高いとされる説のようだ。
“閣下は顔に似合わず愛妻家だからなあ”
“そして恐妻家でもありますものね”
などと話に花を咲かせている。彼らは常ならぬブライトン公爵の様子に恐れを抱きつつも、一方で微笑ましく感じているようだ。
ブライトン公爵家の夫婦の仲睦まじきは、ここレガリア王国では有名な話である。
他方、好き勝手に話のネタにされているブライトン公爵はというと、
(ベアトリーチェー! ベアトリーチェーーー!! ベアトリチェェェエエエッッッ!!!)
心の中でひたすら妻の名前を絶叫していた。
顔に似合わず肝が小さい男である。
ちなみにブライトン公爵夫人ことベアトリーチェ・ブライトンは、女傑と名高い元女騎士だ。
そうこうしているうちに、謁見がブライトン公爵の番まで回ってきた。
重い足を引きずるようにして王の前に出て、跪く。
挨拶の定型文を紡ぐ声は、情けないことに震えていた。
「へ、陛下におかれましては……えー……ご機嫌麗しく……」
挨拶を受けた王――レオンハルトは、繊細美麗な細工が施された椅子にもたれたまま、頭を垂れるブライトン公爵に気だるげな一瞥をくれた。
異様な雰囲気を醸し出す巨体を目の当たりにし目を瞠る。無表情で通している彼にしてはめずらしいことだった。
「……貴殿はどうも体調が良くないように見えるな、ブライトン公爵。顔が青いぞ」
「はっ、仰せの通りにございますッ!」
沈黙が訪れる。
ブライトン公爵は、かっちりとした白い騎士服の下で滝のような汗を流した。
頭は混乱を極め、自分から話を切り出すべきなのか、己が主君から言葉をいただくのを待つべきなのか、その判断さえままならない。
戦場に送りだせば百万力、しかしこと政となると赤子ほどの役にも立たぬ、と言われる通り、彼は駆け引きの類が滅法弱いのだ。
いったいどうすればいいのか、ブライトン公爵は途方に暮れていた。
このままでは埒が明かない。
そう感じ取ったレオンハルトは、その碧玉をつうと細め、低い声で切り出した。
低い声といっても立腹しているわけではなく、ただ単に、周りに声が聞こえて話が大ごとになると面倒だと判断したからである。
「貴殿の娘――エレオノーラのことだが……」
熊のような身体がびくりと震えた。
いちいちリアクションが大きい男だと思ったが、つとめて気にしない方向で話を進める。
「あれは最近、どうもやんちゃが過ぎるように思」
「陛下ッ!!!」
レオンハルトの言葉は、ブライトン公爵の絶叫に遮られた。
その声の大きさたるや、楽団の音楽を打ち消して大聖堂の隅々に至るまで響き渡るほどである。
密やかに談笑していた人びとは驚愕の顔で固まり、二人に視線を向ける。
レオンハルトも秀麗な顔を歪め、舌を打った。
こうなってはせっかくの配慮が台無しである。レオンハルトはやるせない気持ちにかられ、額に手をあてた。
もうどうにでもなれとさえ思ったが、ふと一言。
「公爵、声量を落としてくれ」
これだけは譲れなかった。
「御意っ」
ブライトン公爵は主君の言葉を素直に受け止め、先ほどとは打って変わって小さな声で返事をした。
そこまではよかったのだが、レオンハルトが気を緩めた一瞬で、衆人環視の中で思い切りよく平伏したのはよろしくない。
ギャラリーがざわめき、困惑と好奇が入り乱れた視線が公爵に注がれる。
「静粛に!」
レオンハルトが強い口調で告げると、聖堂は一瞬にして静まり返った。視線も散布する。
しかし、人びとの意識だけはなおもブライトン公爵に向けられていたが、こればかりはさすがのレオンハルトとて如何ともしがたい。
「ブライトン公爵、続きを――……いや、その前に頭を上げてくれ。話はそれからだ」
「御意」
勢いよく上体を起こしたブライトン公爵の顔を見る。
目はぎらぎらと血走っていて、クマも濃い。今にも誰かを殺しそうな面――もとい、相当に思いつめている様子が手に取るようである。
これは謝罪を聞くまでもないだろうと判断したレオンハルトだったが、ここでブライトン公爵を放り出すのも酷であるから、無言のうちに先を促してやる。
「このたびは我が娘が、陛下の寵紀に大変なご無礼を致しまして……このダンテ、お詫びの申し上げようもございません。全ては私ども親の不徳の致すところで、深く反省しております。娘ともども、いかようにも処分していただきたく存じます」
釈明のひとつさえしないとは、なんと愚かで潔い態度だろう。
寵妃といえども、エリザは所詮没落した伯爵家の娘でしかない。格だけで言えばブライトン公爵の方が何倍も上であるのだから、それを匂わせて許しを乞えば、一も二もなく受け入れられるというのに。
「さすがは王の番犬」
レオンハルトは微かに笑んだ。
「その愚直なまでの忠誠に免じて、今回の件は不問としよう」
元より大事にする予定もなかった件だ――――相手の出方によっては。
ブライトン公爵の白が確実になった今、これ以上話をこじらせる必要はない。
レオンハルトが笑みを深めてブライトン公爵を見れば、彼は感極まった様子で目を潤ませ(ちょっとした視覚の暴力である)、本日二度目の平伏を華麗に決めた。
「陛下アァァッッッ!!!」
咆哮と呼ぶにふさわしい絶叫を目の当たりにし、レオンハルトは己の鼓膜が破れたのを感じた。
「陛下の寛大な処置には感謝の言葉も見つからないほどでございます! このダンテ・ブライトン、妻子ともども陛下にさらなる忠誠を捧げる所存であります!! どうか我らを、陛下――ひいてはこのレガリア王国のさらなる栄光と発展のためにお役立て下」
「ああ、分かった! もう十分だ!!」
だんまりを決め込んでいると、ブライトン公爵の賛辞と宣誓がいつまで続くか分かったものではないので、レオンハルトは話を強引に遮った。
過ぎた忠誠心――というかブライトン公爵の人柄――は若干鬱陶しいと思いながら、おざなりに命じる。
「頭を上げてくれ。謁見はもう終了だ」
「そういえば、公爵、今日はこの場に貴殿の娘の姿が見えないが」
「えっ」
「……」
「……」
「……」←余計なことをきいてしまったと思っている
「もっ、申し訳ござ(以下略)」