14...それをフラグというのです
「ぎゃあああああ!!!」
「うわっ!」
淑女には程遠い悲鳴を上げて倒れるエリザ。その身体をアデルが見事にキャッチする。
そこまではよかった。
予想外だったのは、上手く力を逃がしきれなかったアデルの身体さえもが後ろへ傾いたことだ。
不幸中の幸いは、折り重なって倒れる二人の後方に寝台が位置していたことか。
とても上等とはいえないマットレスが、ギシギシと悲鳴を上げながら二人分の体重を受け止める。アデルはエリザを守るように抱きしめたまま、身体を数度マットレスの上でバウンドさせた。
床に激突するという最悪の事態は免れたものの、ずいぶんとひどい有様である。
「ひどいな……エリザ、怪我はない?」
「わたしは大丈夫だけど……」
至近距離で見下ろす紫の目と見上げる緑の目が、互いに見つめ合う。
寝台の上。吐息を感じ取れる距離。お互いの瞳にうつる、相手の間の抜けた顔。
それらが揃えばもう、どちらともなく笑いだすのは必然だった。
広くはない部屋いっぱいに、二人の笑い声が弾ける。
「ふふふ……あー、笑った笑った! まさかドレス姿の美人を押し倒す日が来るなんて思わなかったわ」
「僕もだよ。女装したまま女性に押し倒されるとはね……いい体験をさせてもらった」
未だに腹の奥にくすぶる笑いの衝動を噛み殺しながら、ゆっくりとアデルの胸から身を起こす。
笑いすぎて胸元がくるしい。きつく締めすぎたのかもしれないと思い、エリザは背中のボタンを留めかねていたことなどすっかりと忘れて、胸元のリボンに手を伸ばした。
しゅるり。そんな音とともに、唯一の砦があっけなく陥落する。
「あ」
はじめに声を上げたのは、エリザかアデルか。
まあどちらにせよ結果は変わらない。
はらりと肌蹴るドレス。露わになる胸。圧迫感が苦手でコルセットはつけていなかった。
目を瞠るアデルと、声にならないエリザ。
寸分遅れて我に返り、あわててドレスを両手でおさえるが、その行動は遅すぎた。
エリザは馬乗りになったまま、妙に冷静な頭で、アデルを視線を合わせる。
目が合ったと思った瞬間、緑の目はあらぬ方向を向いた。
「……アデル」
「……」
「見た?」
「…………」
「見た?」
「………………」
もはや答えがないこと自体が答えだ。
エリザはみるみるうちに顔を真っ赤に染め上げた。
「ありえない……まだ嫁入り前の体なのに……!」
「いやいやいや。エリザ、きみは一応陛下の妻だろ」
厳密には王に選ばれた一人の正妃のみが、法律上、王と婚姻を結ぶことになる。
しかし、後宮に正妃候補、あるいは側妃候補として入った娘たちはまとめて王の妻であるというのが一般的な見解であるので、それと照らし合わせれば、エリザはまごうことなきレオンハルトの妻である。
しかし、まだ“お手つき”ではないなので、気持ちとしては嫁入り前なのだった。
「男のひとに体を見られるなんて……もう、お嫁に行けないわ……」
「大丈夫。これくらいでいちいち興奮しないから、安心して」
「それフォローのつもり!?」
エリザの頭突きがアデルの額に命中する。クリーンヒットだった。
ただし被害をこうむったのは加害者であるエリザも同じで、ううう、と情けない悲鳴をもらしながらアデルの胸につっぷすこととなった。
「ひどい……ひどいわ、アデルのばか……」
「その言葉、そっくりそのままエリザに返すよ……」
「わたしが嫁き遅れたら責任とってね、絶対よ!」
「はいはい。きみの仰せのままに」
アデルは額の鈍痛を外に逃すかのごとく深く息を吐くと、両手をエリザの背中にまわした。
びくり、とエリザの身体が跳ねる。
恐怖と怯えがうかがえる表情を向けられたアデルは苦笑した。
「そんな顔しないで。ボタンを留めるだけだから」
「あ。ボタン……ボタンね。なるほど」
ぎくしゃくとうなずく。
正直、彼によこしまなことをされるのではないかと疑ってしまった。
友人の行動を邪推するなんて、人間として最低だ。
居た堪れないやら恥ずかしいやら。穴があったら入りたい。
エリザはアデルから逃げようと身をよじったが、すかさず耳元で制止がかかる。
「動かないで。ボタンがとめられないし、ほかにもいろいろ厄介だからこのままくっついてて」
「そ、そうよね。ごめんなさい」
たしかに、今動くと今度は胸の方がばっちり肌蹴てしまい、アデルの努力が元も子もないのだった。
エリザは気を取り直してアデルの上につっぷした。
だがよく考えると、これはこれでずいぶんとおかしな画である。
下に美人の侍女、上にはドレスを着崩した女主人……その手の人間――たとえば叔母とか――が狂喜乱舞しそうな状況だ。禁断の世界すぎる。
せめてわたしがもう少し整った顔出ちをしていれば――って違う違うそうじゃないわ、問題は女同士という点であって……あら、でもアデルは見た目こそ美女だけど中身は宦官なんだからそれほど問題ないかしら――いやいやいやいや、そもそも友人とこんなに密着していること事態がおかしいはずで……冷静になって考えてみると、そもそも宦官って、女性とそういう関係になれない身体だからこそ後宮で勤められるわけだから、諸事情を抜きにしてもこういう状況はやはりいけない……というかそういえば――――……高速回転する思考の中、エリザははたとあることに気付いた。
「ねえねえ、アデル」
「なに、エリザ。もうちょっとで終わるから大人しくしていて」
聞き分けのない子供を諭すような甘い口調の命令が返ってきた。
アデルはいったいエリザをなんだと思っているのか。
「ちっがーう!! そうじゃないのよ、ただ、ひとつ疑問があるの」
「疑問? なに?」
「あなたって宦官でしょう。だからこそ男子禁制の後宮で仕事ができるのよね?」
「まあ、おおざっぱに言うとそうなる」
「じゃあ……もしも、わたしとあなたのこういう状況を見られたら、いくら宦官とはいえ、好ましくない事態なのではなくて?」
「まあね」
「え、そんなに呑気で大丈夫なの?」
「大丈夫かって聞かれてもなあ。よくて左遷、悪くて関係者もろとも断頭台だろうね」
「なにそれ、大丈夫なんて程遠い事態じゃない!」
エリザの顔がさっと青ざめる。
なりゆきとはいえ、自分が押し倒したせいで友人が処刑されるのは我慢ならない。
エリザとて、望んで後宮に入った人間だ。後宮の女たちの目の敵にされ、つまらない醜聞で吊るしあげられたり、あらぬ罪を着せられる可能性についての覚悟はできている。
ただ、その汚い陰謀に友人が巻き込んでしまうとなれば話はまた別だ。
エリザは、憂いのただよう表情でくちびるを噛んだ。
「エリザ、お願いだからそんな顔をしないで」
「でも、」
「まだ見られたって決まったわけじゃない。杞憂は身体に毒だよ」
不安げにアデルを見つめると、彼は見るものを安心させるおだやかな笑みを浮かべた。
とんとん、とあやすように背中を叩かれる。
エリザはうなずいて、深く息を吸った。
「とりあえず、まずはこの体勢をどうにかしましょうか」
「そうしてくれると助かるよ。僕もそろそろ限界」
寝台とエリザの板挟みにされたアデルが悩ましげに眉を寄せる。
エリザはそれをずっと自分の下敷きになっていたせいだと解釈し、あわてて身体を起こした。
「ごめんなさい。さぞかし重かったでしょう?」
「いや、そうじゃなくて……まあいいや。エリザ、とりあえず胸の前をどうにかして」
「あ」
見ると、見事に肌蹴ていた。そういえば、胸元のリボンは解けたままであった。
道理でアデルが目を背けるわけである。
エリザは火照る頬など素知らぬふりをして、シーツの上に無造作に放り捨てていたリボンを手繰り寄せた。
そして、器用にリボンを操りながらつぶやく。
「まったく、こんなところを誰かに見られたら大変だわ」
言葉に出したら急に不安が増した。
おそるおそる視線をやった扉は、建付けの悪さが原因で爪の先ほどの間が空いていたが、これはいつものことである。空いていたのだと思うと少しひやりとしたが、外からは物音もしないし、覗きの可能性はないだろう。もとよりエリザの部屋のあたりに人がやってくることはめずらしいのだし。
「大丈夫……なにもないに決まってるもの」
エリザは自分にそう言い聞かせ、きつく目を閉じた。
――――しかし、そうは問屋が卸さないのが後宮という場所である。
女の園の見えざる魔力は、ゆっくりと、しかし確実に、エリザへと悪意の手を伸ばしていた。