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13...あなたに捧げる懺悔

 ふいにノックの音が聞こえ、エリザは「げ」と淑女らしからぬ声を上げた。

 あいにく着替えの真っ最中だ。背中のボタンと格闘している手前、来客をどうこうする余裕はない。

 固まって立ちつくしていると、返事も待たずに外から扉が開いた。背中に手を回したまま焦るエリザなどそっちのけで、音もなく誰かが中へとすべりこんでくる。

 ゆれるライラックのドレスに包まれた、平均よりも頭ひとつ分高い身長が目に入る。

 なんだアデルか、とエリザはほっと息を吐いた。

 女装姿が板についてきた麗しい宦官は、エリザを見とめると表向きの澄まし顔を一瞬にして笑み崩した。


「よかった……目が覚めたんだね!!」


 水差しとコップがのった銀の盆を無造作に手近なテーブルに置くと、ドレスの裾がはしたなく翻るのもお構いなしにエリザに向かってくる。

 それはまさに突進という勢いだったので、エリザは思わず後ずさった。


「え、ちょ、待っ」

「エリザ!!」


 制止の声などそっちのけで、ぱっと伸ばされた両腕がエリザを閉じ込める。

 のけぞる背は瞬く間に引き寄せられ、アデルの胸にすっぽりとおさまる体勢になる。

 つまるところ抱きしめられたわけだが、なんせ相手は女装した宦官だ、ロマンスもへったくれもない。

 胸は高鳴ったが、乙女向きの小説にありがちな理由からくるそれではなく、ただ単にアデルの豊満な偽乳を押し付けられて呼吸困難に陥っただけだった。

 そのせいで、「離して!離してちょうだい!!」と言ったつもりの言葉も、くぐもって「ふが!ふがふご!!」と変な音になってしまう始末。他人が聞けば下手くそな豚の鳴き真似である。

 しかしそこは流石エリザの友人というべきか、アデルは一瞬にしてエリザの意を汲んだらしい。おやおや、と苦笑しながら腕の拘束を緩める。


「ごめんね、苦しかった?」

「当然でしょう。偽乳に埋もれて窒息死するかと思った!」

「あはは、いいじゃないか。男の夢だよ」

「わたしは女よ……。ていうか、笑いごとじゃないわ……」

「まあまあ。機嫌を直してよ、僕の姫君」


 アデルの手が頬に伸ばされる。

 ひやりと冷たい感触。エリザは目をきゅっと細めた。

 顔を上げると、至近距離にアデルの花顔がある。長い睫毛に縁取られた瞳の中にはエリザが映っていた。おだやかな色をたたえたエメラルドの中に自分の顔がとじこめられているさまはとても不思議に思える。

 まじまじと見上げていると、だしぬけにアデルの眦が下がり、ふ、と笑み交じりの吐息が顔の産毛をくすぐった。

 そして、一度は緩められた腕の拘束が再び強いものになる。しかし今度は手加減をしてくれたようで、偽乳に窒息することはなく、密着したところからただよってくる彼の香水の匂いに気付く程度の余裕があった。


「エリザ」


 用心深い猫みたいに肩に擦り寄せられたアデルの頭。ふわふわと肌をなぞる髪がくすぐったくて身をよじった。しかし、エリザを解放する気配はちっともない。

 かといって腕の拘束が強まりはしないが、代わりにどこか躊躇するようなぎこちなさで更に引き寄せられる。

 首筋にかかる吐息がやけに熱い気がしてなんだか落ち着かない。

 離してよ、と照れ交じりに告げようとしたとき、アデルのかわいたくちびるが肌の上で動いた。


「ごめんね」


 淡々とした声だった。温度のない音が首筋をつたい、骨に到達し、身体の中で響いた。

 アデルの懺悔が身体のすみずみまで沁み込んでいくのを聞きながら、エリザは氷の芯が頭の真ん中にできたような心地だった。だいたいはうすぼんやりとして曖昧なのに、いちばん深いところは驚くほどに冷えている。

 それを他人事のように認識しながら、エリザは自分でも気付かないうちに、一つの言葉を喉の奥からすべりおとした。


「わたしを助けてくれるのはあなただと思っていたのよ」


 アデルにも負けず劣らずの抑揚のない声が自分のくちびるから出ていったことに狼狽する。

 しかし同時に、水底に沈んだときからずっと胸の奥で釈然としなかったものが、いまこの瞬間、たちまちすべてがあるべき姿であるべき場所に還ったことも理解した。

 おそらくエリザは、あの冷たい水の中、自分でも無意識のうちに、アデルを求めていたのだ。

 それは愛だとか、恋だとか、友情だとかいう、うつくしい感情に起因するものではなくて。

 ただ単に、来るのは彼だと思った(・・・・・・・・・・)

 それは――信頼にも似た依存でしかありえない。

 なにもできない雛が親鳥を慕うのにも似ている、と思ってエリザは嗤った。


「わたしってばかだわ。あなたはわたしだけのあなたじゃないのにね」


 エリザがエリザの事情で後宮にいるように、アデルにはアデルの、レオンハルトにはレオンハルトの事情がある。そして彼らは、それに基づいて動いているのだろう。

 ――おそらく、エリザには到底はかりしれない、複雑で崇高な何かのために。

 彼らはそれについて何も話してはくれないが、冷酷な瞳の奥のかすかな罪悪感や、やさしさの中に潜む鋭利な無慈悲が彼らの抱くなにかを示唆するから、エリザは否応なしにその存在に気づくしかなかった。

 そして、気づいてしまったからには、それを妨げてまで自分の独りよがりな感情を押し付けたくないと思う。

 だというのに、現実はどうだろう。

 邪魔したくないと思ったくせに、一方では勝手に頼って、望むものが与えられないと知ると、勝手に落ち込んで、挙句アデルに謝らせてしまう始末だ。


「謝るべきはわたしなのに」


 自嘲の声が静寂に消える。

 エリザはだらんとおろしていた両手をそっとアデルの背に回した。

 そして。


「でも、わたしを助けに来なかったことは十分反省してくれないといや。信頼を置く侍女に見捨てられて、わたしとっても悲しかったんだから!」


 冗談だと分かる声でアデルを非難し、じゃれつくように背を叩く。

 両手で叩いたからか思いのほか威力が出たようで、アデルはくぐもった声を上げた。そして、痛みでわずかばかり歪めた顔を上げて、笑み交じりにエリザを非難する。


「痛いなあ……。暴力的なレディは可愛くないよ」


 上目づかいで覗きこむ顔が、計算されつくした角度で傾けられる。

 文句なしの美しさ。ここに男がいれば、即座に求婚するに違いない。

 女として馬鹿にされたエリザはひくりと頬をひきつらせ、お返しとばかりに微笑んだ。


「ふん、女装趣味の男に可愛くないと思われたって別にかまわないわ」

「趣味じゃなくて仕事だってば」

「えー……本当かしら? そのわりにはノリノリに見えるけど」


 頭のてっぺんからつま先まで舐めるように見回してやると、アデルの眉が不愉快そうにぴくりと動いた。それすらも絵になるのだから、やはり美人はずるい。


「それ以上言ったら怒るよ」

「だって、疑いたくもなるわ。香水だって女モノを使っている気の凝りようだし」

「エリザ」

「そのドレスはあなたの好み?」

「言うなって言ってるのに。きみはそんなにお仕置きされたいの?」


 ぞくりとするほどの甘い低音が耳に吹き込まれる。

 うわあ嫌な予感、とエリザが身構えた次の瞬間には、アデルの長い指がぴんっとエリザの額をはじいていた。


「痛っ! ……女に暴力振るうなんて最ッ低の男ね!!」

「だからって、男に殴りかかってくる女もそうそういないと思うよ?」


 下からのパンチを避けようと反射的に飛びずさったアデルが眉を寄せた。

 アデルの動きに一拍遅れて広がったスカートが、ふわふわとレースとフリルを躍らせながら元の形にもどっていく。

 

「煩わしいひとね。紳士なら黙って殴り飛ばされてちょうだい!」

「いや、その理屈はどうかと――って、エリザ、足元!」

「え?」


 拳を振り上げたまま床を見れば、いままさに踏みしめようとしている場所に寝間着が落ちているではないか。

 ああそういえば先ほど脱ぎ散らかしたまま放置していたんだっけ、と冷静に分析する一方、行き場のない足は重力には逆らえず、必然的にそのまま滑りのよい寝間着を思いっきり踏みつけた。

 足が滑る。

 振り上げた拳の反動もあって、エリザの身体は思いっきり前へ――そらみろ言わんこっちゃないとばかりの呆れた顔をしているアデルへと突っ込んだ。

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