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12...本当のこころ

 ささやくような声だった。

 だから、吐息のようにか細く紡ぎだされたそれをエリザが認識できたのは、まったくの偶然であったといえるだろう。

 おもむろに瞼を持ち上げると、薄暗い部屋の中、寝台に沈むエリザを見下ろしている誰かが目に入った。


「……アデル?」


 確信を持てないまま声をかけると相手はわずかに反応を示した。――が、いかんせん芳しくない。どうやらエリザが目覚めたことに驚いている様子だ。その証拠に、寸分遅れて安堵の息が吐き出される。

 そのようすをじっと見つめながら、エリザは自分の身に起こったできごとを徐々に思い出しはじめた。


 川に落ちて、レオンハルトに助けられ、そして意識を失って――……。


 いったいあれからどのくらいの時間が経過したのだろう。

 長いこと混濁した夢の中を彷徨っていた気がする。

 エリザはずきずきと痛むこめかみをほぐしながら上体を起こした。


「待て。まだ横になっていたほうがいい」

「あら……」


 突然口を開いた彼の人に動きを制されながら、エリザは二重の意味で目を瞠った。

 理由のひとつは、相手がエリザの想像と異なっていたことである。


「誰かと思えば、陛下ではありませんか。気づきませんでしたわ、申し訳ございません」


 頭を下げると、彼の人――レオンハルトは仏頂面で「別に構わない」と告げた。


「いまのお前は病人のようなものだろう。そんな人間に無理をされても迷惑なだけだ」


 あいかわらずの刺々しい言葉が降りかかるが、エリザはいつものように眉をひそめる代わりに苦笑をもらした。

 それを聞きとめたレオンハルトは不快そうにくちびるをゆがめる。


「なにがおかしい」

「いえ。ただ、陛下に心配していただけたことに驚いただけです」


 先ほどエリザが驚いたもう一つの理由というは、まさしくこれである。

 命の危機を救ってもらったことが効いたのか、レオンハルトに対する嫌悪感と偏見が少し薄らいだエリザは、彼の冷酷ともとれる言葉のそっけない優しさにふと気づいたのだった。

 労わりが素直に嬉しくて、しかしこれまでの仕打ちを考えると喜ぶ自分の安直さが悔しくもあり、エリザは苦い笑みをこぼさずにはいられない。

 そんな態度になにを思ったのか、王はふ、と皮肉げに吐息を吐いた。


「心配くらいする。後宮での不祥事は、下手をすると王の責任問題になりかねないからな」

「…………」


 この言いようには、さすがのエリザとて落胆を抱かずにはいられない。

 いや、もとよりそのような計算が働いているだろうことには薄々勘付いてはいたが、出来ることならばそういう嬉しくない裏事情は聞きたくなかったものである。


「――そういえば、本日はどのようなご用事でこちらにいらっしゃったのですか?」


 話題を強引に転換し窓辺に目をやる。

 視線の先では、カーテンの隙間から細く差し込む光芒が言外に朝を告げていた。

 夜ならばまだしも、この時間に王が後宮を訪ねてくるのは珍しい。

 おそらく、ほかの妃へ通った帰りに寄ったとか、そういうきまぐれのたぐいなのだろう。

 出会いの夜からというもの、レオンハルトは、昼夜問わずふらりとエリザのもとに現れては、ちょっかいをだして去っていく。まったく迷惑極まりない話だが、一介の側妃であるエリザには何も言えない。いまだって、今日くらいは勘弁してほしいと心の中で思いながら彼の返事を待つだけしかできないでいる。

 そんなエリザの想いなど知りもしないであろうレオンハルトは、表情を変えることもなく淡々と返事を返した。


「別段何もない」

「そうですか」

「ああ。もう帰る」

「わかりました」


 見送りのために身体を起こそうとするが、再度レオンハルトに止められた。

 顔をしかめて「いいから寝ていろ」と若干きつい口調で命じた彼は、それといった別れの言葉もなしに踵を返す。このような冷淡さも、日常茶飯事といえばそれまでである。

 ただ、今日はめずらしいことに、想定外のことが次から次へと転がりこんでくるようで。


「――エリザ」


 扉の目の前でレオンハルトがふいに振り向く。

 エリザは思わず身体をこわばらせた。うっすらとデジャヴを感じるこの状況には、あまり良い予感がしない。

 「はい」とこわごわ返事をすると、視線の先の彼はいささかの逡巡の後、神妙な顔つきで口を開く。


「…………くれぐれも、安静にしているように」


 何を言うのかと思えば、本日二度目の念押しである。

 しかも、予想外の言葉に咄嗟に返事ができないうちに、用は済んだとばかりにさっさと部屋を出て行ってしまった。

 あいかわらず、気まぐれというか突拍子がないというか――……。

 レオンハルトの本心がどこにあるかさっぱり分からない。

 軋みながら閉まる扉を見つめながら、エリザはためいきをついた。


「あの言葉、やっぱり聞き間違いなのかしら……」


 悪い、と。

 目覚める瞬間、エリザは確かに懺悔する低い声を聞いた。

 聞いているこちらが苦しくなるような、思いつめた声だった。

 あれが幻聴であるはずがない。

 ただ、一方で、レオンハルトがそんなことを言うはずがないとも思う。


「だってあの人、私を嫌っているもの」


 自分を諭すようにぽつりと呟いた言葉は、思いのほか心に重くのしかかった。

 負の感情には慣れっこのエリザといえど、理由のわからない悪意は痛い。

 ましてやそれが面識のない相手、それも一国の王にして自分の夫である人間であればなおさらだ。


「いったい何を信じたらいいの……」


 嘆く声は、薄暗い部屋の彼方へと消えてゆく。









「いったいどうしたらいいのよぉ……」


 ところは、南殿の一室、もっとも高貴な妃のひとりが住まう『朱雀の間』。

 その部屋では、紗の天蓋におおわれたふかふかの寝台の上を、真っ赤な塊がごろごろと転がっていた。

 洗練された調度品で飾られた豪奢な部屋の中、ただそれだけが異様な雰囲気を醸し出している。

 はたしてその塊は何ぞやといえば、お気に入りのドレスに皺がつくことも厭わず寝台に転がって泣きじゃくるエレオノーラである。


「なんでエリザ様は川に落っこちたのよ……どうして私が陛下に怒られなきゃいけないのよー!!」


 泣きすぎて充血した目をカッと見開いたエレオノーラが衝動的に枕に噛みつく。

 哀れな枕は小さな獣に布を引き裂かれ、血のかわりに羽毛がひらひらと舞い散った。

 まさにヒステリーである。

 傍に控えている侍女たちは戦々恐々とエレオノーラの乱心を見守る。見守るというか、ぶっちゃけ距離をとっているだけである。

 しかし、ただ一人、エレオノーラの腹心の侍女であるシェリルだけは、部屋の隅で身体を震わせることもなく、呆れかえった様子で主の錯乱に水をさした。


「エリザ様が川に落ちたのはノーラ様が怒りにまかせてエリザ様を突き飛ばしたせいで、ノーラ様が陛下に怒られたのは、ノーラ様が怒りにまかせてエリザさまを突き飛ばし川に落としてあわや溺死という惨事を引き起こしたからですわ。そして、撒き散らされた羽毛の後片付けが大変なので、枕を噛みちぎるのはお止めになってください」


 まさしく正論である。

 ただ、その正論も荒ぶるエレオノーラには通じない。


「そんなこと、言われなくてもいやってくらい分かってるわよっ! シェリルは黙ってて!!!」

「酷い言いようですねえ。尋ねたのはノーラ様ではありませんか」

「答えなさいなんて命令してないでしょー!!!」


 もはや屁理屈だとその場にいた誰もが思った。

 しかし、それを口にしたら怒れるエレオノーラに何をされるか分かったものではないので、大多数の人間はなにも言えない。

 しかし、大多数の人間に含まれないシェリルは、あえて空気を読まずに口を開いた。


「あのですねえノーラ様、恐れ多くも申し上げますけれど、こんなところでうじうじちんたらへそ曲げて泣きじゃくって屁理屈言ってる暇があるんですか?」

「なんですってぇ……?」


 ヒィッ!?

 気の弱い侍女が悲鳴を上げて倒れた。


「はっきり申し上げます、そんな暇はございません。ノーラ様がいまこうしてカーテンを閉ざした部屋の中にひきこもってぴーぴー小うるさく泣いていらっしゃる最中も、寵妃を傷つけられた陛下の機嫌とノーラ様への評価は暴落の一途をたどっているのです」

「うるさいっっっ!!!」


 ひゅっと息が漏れる音に続いて、ばたばたと人の倒れる音がした。

 恐怖に耐えきれなかった侍女たちが、一人、また一人と気絶したのだ。


「うるさい、とおっしゃられるということは、ノーラ様もそれについては重々承知なのですね?」

「だったらなによ」

「ノーラ様は頭が足りないのではありませんか?」


 刹那、クマのぬいぐるみが天蓋を切り裂いた。

 ぬいぐるみにあるまじき風切り音が鳴る。もはや弾丸と化したパードレ(ぬいぐるみの名前)がシェリルの目前に迫りくる。

 しかしシェリルとて一筋縄ではいかない。

 護衛としても優秀な彼女の身体能力が悪いはずもなく、涼しい顔でひょいと身体をずらしただけでパードレを避ける。

 その結果、パードレの餌食になったのはシェリルの背後で怯えていた侍女たちであった。

 幸いにして命中はなかったが、自分のすぐ脇を疾風の速さで駆け抜けて壁に突き刺さった(突き刺さったのである)パードレを見て意識を保っていられる侍女はいなかった。みな御臨終である。


 一方、哀れな侍女たちの屍の山の向かいでは、怒りの極限に達したエレオノーラが、顔を熟れたリンゴのように真っ赤にしてぷるぷる震えていた。

 げきオコスティックファイナリアリティぷんぷんドリームである。


「誇り高きブライトン公爵家の令嬢であるこの私、エレオノーラ・ブライトンに向かって、あろうことか馬鹿ですって?」


 いや、シェリルは一言たりとも馬鹿とは言っていない。

 ゆえにシェリルは、自覚があったのかノーラ様、と内心思ったのだが、まあそれは置いておくとして。


「その誇り高きブライトン公爵家の令嬢が、自らの軽率な行いのせいで王の怒りを買い家名を傷つけたことをゆめゆめお忘れなきよう」

「……」


 エレオノーラの肩が震える。


「さてはて、公爵閣下はこれをいったいどう思われるでしょうねえ」

「…………」


 エレオノーラの顔から色が消える。


「また、憤怒の女神の化身となった公爵夫人にお尻ペンペンされたいのですか?」

「………………」


 もはや、勝負は決した。

 寝台に歩み寄ったシェリルは、それは見事な微笑みを浮かべ、がくがくと震えるエレオノーラへ恭しく手を伸ばす。


「さあ、謝罪に参りましょう」


 新たな波乱の幕開けであった。

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