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11...微笑み、 夢路、交錯する想い

 ずぶ濡れの身体に容赦なく吹きつける風がいたく冷たい。

 エリザはレオンハルトの腕の中でちいさく身体を震わせた。


「冷えたか」

「……ええ、少しだけ」


 頷くと、抱きしめる力がわずかに――それこそ、まるで華奢な硝子細工を扱うかのような繊細さを伴って、強くなる。

 エリザはそっと睫毛を伏せた。

 水を重たい衣服の布ごしに伝わるレオンハルトの体温が妙に居心地悪い。

 居心地悪いとはいっても、それは嫌悪感からくるものではない。それどころか、今エリザの胸を占めている気持ちは嫌悪感とは真逆ともいえる。つまり居心地悪いというのは、常時ではありえないその感情を抱くということに起因しているのだった。

 きっとこれは、恐怖と生存本能に基づく自己欺瞞的心理操作なんだわ。曲がりなりにも命の危機を救ってもらったことへの感謝が生み出す過度の安心と、精神の消耗が生み出す人恋しさが変な反応を起こしているだけよ。そう結論づけたエリザは、これ以上の思考を放棄した。


 半ば強制的に、視界に移り込んだ己のドレスへと関心を移す。

 数十分前まで日の光を浴びてあざやかに輝くようだった緑の美しい布地は、今や濡れそぼってくすんだ色へと変色していた。

 視線を下ろしていくと、ドレスは膝のあたりで切り裂かれている。

 美しかったドレスの無残な変貌をありありと目にしたエリザは顔をしかめた。

 俗物的な感情にもほどがあるが、もったいないと思う。

 せめてあと数回は着たかったのだけど、と持ち前の貧乏性がここぞとばかりに疼くのである。

 エリザはすっかりしょげかえって言った。


「ごめんなさい」


 頭上で、レオンハルトが息を詰めるのが分かった。

 見えないけれど、たぶん、眉をひそめているだろうとエリザは思う。


「なぜ謝る?」

「だって、あなたからいただいたドレスを駄目にしてしまったわ」


 ほぼ無理やり押し付けられたものではあるが、だからといってドレスそのものに罪はない。

 とても高価で作りのいいドレスをエリザは気にいっていたし、だからこそ大事に長く着ていこうと思っていたのだが、その矢先にこれである。

 がっくりと肩を落とすエリザ。

 対して、王の返事は淡泊だった。


「お前は馬鹿か……」


 呆れをたっぷりと含んだため息がエリザのつむじをくすぐる。


「こんなとき、まっさきに衣服の心配をする女がいるか」

「……」

「出会った夜も思ったが、エリザ、おまえはつくづく変な女だな」

「…………」


 反応に困ったエリザが黙っている間も、レオンハルトは何度か「変な女」と繰り返す。

 それが変にやわらかい声音で耳にすべりこんでくるから、はたして褒められたと受け止めればいいのか、馬鹿にされたと受け止めればいいのか、ちっとも分からない。

 エリザは困惑したままゆっくりと顔を上げ、彼の顔を覗きこんだ。

 ――――笑っている。

 いつも張り詰めている美しいかんばせは穏やかに笑んで、翠玉の瞳には昏い感情など一片もなく、ただ静かに凪いでエリザを映していた。

 はじめてみる王の温和な微笑みにエリザは思わず目を瞠った。

 訳もなく動揺し、笑顔のレオンハルトから視線をそらす。

 そのあからさまな態度が不興を買うかもしれないと思ったが、予想は外れ、彼は自嘲とも苦笑ともつかない息をもらしただけ。


「エリザ」


 耳触りのいい低音が名を紡ぐ。

 その先に続くはずの言葉は、レオンハルトが口ごもってしまったがためにエリザは知らない。

 黙り込んでしまった彼を急かすように風が吹き抜けていく。

 耳に届くのは、草木のざわめきと馬の足音と、濡れた布越しに聞こえる彼の心拍だけ。

 一定の感覚で繰り返される心地よい拍動の音は、エリザのなかでわだかまっていた緊張を溶かし、穏やかな安堵で心を満たす。

 濡れた布越しにわずかに感じる体温はやさしい。ぬくい温度にくるまれると赤子のころにもどったような幸せな気持ちが訪れて、それを合図に身体から余分な力が抜けていく。

 そうすると当然、次第にまぶたが重くなる。エリザはうとうとしながらあくびをかみ殺した。

 恐れ多くも王の腕に抱かれているが、できることなら今すぐ眠ってしまいたい。

 この腕があたたかい布団だったらよかったのに、とエリザは半ば本気で思った。

 すると、あたかも彼女の無礼な思考を読みとったかのごとく絶妙な間合いでレオンハルトがエリザの頬に触れる。何の天変地異の前触れか、慈愛に満ちた手つきだった。

 そのことにエリザが驚く間もなく彼は静かに言葉を紡ぐ。


「あとのことは心配しなくていい。いまは眠っていろ」


 それが引き金になった。耳元でささやかれた声がエリザを現に繋ぎとめていた糸の最後の一本を断ち切る。閉じたまぶたの裏に広がるたわやかな闇は、たちまちすべてを塗りつくした。

 はたして「ありがとう」というエリザの声が王の耳に届いたか否か――それを確かめる暇もなく、エリザは深い深い眠りの海へ沈んでいった。








 ずっと遠く。

 瞼の裏、はてしない眠りの深き底よりなお遠く。

 夢か現かうつつかゆめか。その境界さえあいまいに揺れる記憶がある。

 現実というには現実味がなさすぎて。

 とはいえ夢と言い切るにはあまりにも鮮明すぎる。

 そんな記憶をエリザはもっている。



 幾千の星々が撒き散らされた藍色の空。

 頭上はるかに煌々と輝くまろい月。

 金とも銀ともつかぬ神々しい月の光が降り注いで大地をあまねく照らす。


 ――そんな夜だった。


 エリザは楽園にいた。

 そこはいちめんの白。

 見渡すかぎりの大地が白い花でおおわれて、甘く清らかな香りがしめやかにうち薫る場所だった。

 そこがいったいどこであるのか、エリザはしらない。あまりにもうつくしい場所であったから、ただ楽園とよんでいた。どうして自分がそこにいたのかも、わからなかった。しかし、そのときはいつにもまして華やかに装っていたことだけはたしかだ。

 記憶の中の幼いエリザは薄い布地を何枚も重ね広げたドレスを纏い、髪をゆるく結って花を飾り、妖精のように愛くるしい姿で楽園のただ中にいた。

 華奢なヒールで楽園を彷徨う。ドレスの裾がふわふわと揺れるたびに、白い花びらが宙をたゆたった。どこまで歩いても景色は一向に変わらない。

 満天の星空、一面の白花。

 それだけがどこまでもどこまでも続いて、白き楽園に果てなどないかのように思われた。







 馬の歩みが止まる。

 女を抱えた人影がひとつ、颯爽と馬上から飛び降りた。

 それを待ち構えていたかのように、どこからか別の人影が忍び寄る。

 後宮は中殿――こじんまりとした象牙色の館の前であった。

 まだ日は高いというのに館からは物音一つしないのは、住まう人びとの性質ゆえなのか。

 閑静なというよりはむしろ、もの悲しい類の静寂が中殿にただよっている。

 沈黙の館に見下ろされながら、は己の腕の中で昏々と眠る女を見つめた。

 今しがた柔かなタオルで包んだばかりの彼女はひどく軽くて弱々しい。少しでも力加減を間違えたら、いまにも砕け散ってしまいそうな儚ささえある。

 未だかつてない彼女の姿を映す彼の瞳には、憐憫と情愛が揺れていた。


「かわいそうに。こんなに青ざめてぐったりとして」

――川に落ちたからな。それもこの季節の冷たい水だ。冷えないわけがないだろう。


 の冷淡な物言いが彼の琴線に触れた。

 厳しい非難の目を向けて、強い声で男を詰る。


「そうなるように仕向けたのは、あなただろう?」

――ずいぶんと怖い顔だな。何がそんなに気に喰わない?


 すべてだ。

 彼は男の仕組んだとある計画に賛同できないでいたのだった。


「……いったいなぜ、こんなことをする必要がある?」

――それをおまえが知る必要はないはずだ


 問いかけをにべもなく斬り捨てられ、彼は無意識のうちに歯がみする。

 男は常にこうであった。過程を秘して結果だけを求める、冷酷ともいえる冷淡さで人に接す。

 それは彼にとって一種の赦しであり、優しさであった。

 しかしそれは彼に限ったことであって、大多数の人間にとって男は単に畏怖の対象らしい。

 氷のような方。

 それが男に対するもっぱらの評価であり、それはおよそ間違いでもあるまいと彼は思う。

 遠い雪の日、返り血で白の正装を斑に染めた男の姿が網膜に焼きついてからというもの、それは確信となって彼の心にしんしんと降り積もっている。

 けれども、それがなんだというのだ――彼はふと乾いた笑みをこぼした。

 残酷だろうが、慈悲深かろうが、彼にとっては些細な問題である。

 しかし、今回の一連の行いには彼も許容しがたいものがあった。

 よりにもよって彼女を巻き込むとは。

 彼は揺れる心にふたをして男に向き合う。


「こんなことが知れたら、きっと彼女が悲しむ」

――それでもいい。計画に支障は出ない。

「支障は出ない? なぜそんなことを言えるんだ! あなたは……」


 一瞬の逡巡ののち、彼は苦しげに言葉を吐きだす。


「あなたは……彼女を愛しているんじゃないのか?」


 沈黙があった。

 男は何も言わず、無感動な瞳で目を閉ざしたままの彼女を見下ろしていた。


「愛しているんだろう? それくらいは……分かる。いったい何年あなたと共にいると思っているんだ」


 過ぎ去った日。

 外見ばかりが豪奢に飾られた空虚な部屋で男がぽつりと話した少女の話を、彼は今も忘れられずにいる。

 おもしろい娘がいたと語る男の表情はめずらしく柔和だったので彼をひどく驚かせ、他方で、男を笑ませる娘とはいったいどのような人物なのか興味を持った。

 ――そのときは、まさか件の娘と顔を突き合わせる日がくるとも、ましてやこんなことになるとも予想だにしなかったが。


「なぜ彼女を巻き込む? どうしてあなたは彼女を守らないんだ?」


 せめて、「守れ」と命じられると思っていた。そう望んでいた。

 だというのに、実際に男が口にしたのは「黙っていろ」の一言。

 彼女が陰謀の渦中にいるというのに、男は顔色一つ変えず事の静観を彼に命じるのである。

 恐ろしく頭の回る男のことだ、今回のことを含めた一連の騒動について、おおよその見当はついていただろうにも関わらず。


――なぜ、か。


 男が不意に口を開き、言う。

 それは噛みしめるようでも、一笑に付すようでもあった。


――ちょうどいい、私もお前に聞きたいことがあったんだ。


 どうしておまえはあんなこと(・・・・・)をした?

 男はそう問うた。ぞっとするほど静かな声だった。


――まさか……私のため、などと言うわけではないだろうな?

――お前は彼女を憂えてなどいなかった。むしろ厭っていたはずだ。

――何せ、憎くて仕方のない私が大切にしている娘だからな。


 違う、と言いたかった。

(なぜ?)

 彼女を厭ってなどいないと。

(本当に?)

 あなたを憎んでいないと。

(本当にそうだと言えるのか?)

 だけど、声が出ない。

(つまりそれは、)


――お前はただ、私を傷つけ貶めたかっただけ。

――そのために彼女を利用した。命令に応じたのも策略のうち……そうだろう?


 彼は立ちすくんでいた。

 問いを否定するはずの声は喉の奥に張り付いて、ついぞ音になることはなかった。


――答えられない、か。ずいぶん立派な返答だな。


 さむざむとした嘲笑が漏れ聞こえ、彼はわずかに肩を震わせる。

 それを横目に見た男は、ふいに冷ややかな怒りを潜めた。

 もう彼を相手にするのは終わりだという意志表示である。


――残念だが、お前の可愛い謀は失敗だ。私も彼女もあの程度の悪意で潰れたりはしない。


 そう告げると男は彼女を抱えて中殿へと足を踏み出す。

 もはや彼に興味はないらしい。

 その無関心が妙に癪に触ったのも一因なのか、すれ違いざま、彼はやっとのことで言葉を絞り出すことに成功した。


「あなたはともかく、彼女は限界だろう。はやく後宮ここから出してやるべきでは?」


 苦し紛れに紡いだ言葉は、しかしそうであったからこそ、嘘いつわりのない彼の本心だった。

 男は足を止め、振り向くことなく答える。


――彼女がそんな軟な性質なら、私が興味をもつわけがないだろう?


 その残酷なまでに無邪気な声に、彼は心の奥の澱が沸き立つのを感じた。

 いまだかつてない激情。憎いとさえ思った。そして、そう思ったことに絶望までもを感じる。

 まとまりのない心に少なからず動揺しながら、彼は震える声で言う。ほぼ本能的な行動だった。


「あなたは最低だ」


 彼の糾弾は一瞬ののちに虚空で霧散した。

 男は笑う。先ほどとは違って、自嘲の色が見え隠れしていた。


――そんなこと、とうの昔から知っている。


 男の背中からは、なにもうかがい知れなかった。








 もう長いこと楽園を彷徨ったように思う。

 エリザはうつくしい光景に出合った。

 まず、白い石版があった。それは大きな長方形の形で、滑らかに整えられた面には見たこともない文字が刻まれており、人の目を避けるようにして地にはめ込まれていた。

 次いで、その石板に伏しているものに気付き、エリザは思わず悲鳴をあげそうになった。

 人がいる。

 年のころはエリザとそう変わらないであろう、少年だった。月光にさらされた首筋と、ややはだけた襟元から覗く胸は驚くほど白い。やわらかそうな金の髪が横顔を覆っているせいで表情は見えないが、それでも髪を払ったかんばせのうつくしさを予感させるには充分だった。

 エリザはおそるおそる少年と距離を詰めてその場に屈んだ。伸ばした指先でそっと少年の顔にかかっている髪をよける。想像通りのうつくしい顔が現れたことには驚かなかった。むしろ、お父様にも引けをとらない美人ね、と感心した。

 そして、ふと、この少年は人ではないのかもしれないと思い付いた。楽園には天使が棲まうと聞く。もしやこの少年は、その類なのではないだろうか。

 そう考えるとなにやらしっくりと嵌まった。ねえ、と言って少年の頬をつつく。あなたは天使さまなの?

 答えは静寂となって返された。死んだみたいに動かないのね、とエリザは呆れた。少女の心は飽きっぽく、たちまち少年への興味が薄れていく。

 しかしその時、少年の睫毛がうっすらと震えた。生まれたての蝶が羽を開こうとするようにゆっくりと、少年の目が開かれる。視線はしばし彷徨ったのち、しかとエリザを捕えた。見つめる瞳には絶望によく似た気だるさがあった。

 少年は瞳にエリザをうつしてゆるりと笑む。瞳とは不釣り合いの、ただただ純粋な微笑みだった。


 ――きみは、血にまみれた天使がいると思うの?


 おかしなひとだね、と笑みを深める少年の白い服は、たしかに赤く染まっていた。

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