10...虚像の天使
あ、と声をもらしたときにはもうすべてが遅く、エリザは唖然としながら己の背中が水面に叩きつけられる音を聞いた。
とたんに視界がめまぐるしく流転する。
たちのぼる泡。
ほどけた髪。
たよりげなく揺れるドレスのスカート。
空から射しこむ陽光は不可思議な紋様を描きながら水面をただよう。
光に焦がれるかのように伸ばされたエリザの手は、わずかに一回水面を叩いただけに終わった。
水を吸って重くなったドレスが身体を水底へと静かに誘う。
宮殿のまわりを囲むように流れている川は敵の侵入を防ぐ役割を担っているのか、水深が思いのほかあるようでちっとも足がつかない。水中でばたつかせた足からはヒールが脱げ落ち、ゆっくりと水底へ沈んでいった。
これは危険な状況だ。
刻一刻と近づいてくる死神の気配を感じながら、エリザは眉をひそめた。
傍から見れば溺れている状態なのだろうが、冷静な面持ちで水の中をたゆたうエリザはあまりにもそれらしくない。
実際、エリザはこの状況にひどく恐怖しているわけでも、混乱しているわけでもなかった。
この世ならざる美貌のひとを父にもってしまったがゆえに、生命の危機に瀕するのは日常の一部のようなものだったのである。
だからエリザにとって、このアクシデントは「またか」とため息交じりの一言で一蹴できる程度のことなのだ。
しかし、そうはいってもここは水中。
潜水泳法もマスターしている母ならばともかく、そんな特殊技能をもたないエリザでは到底生きてゆけない環境であることは明確である。
このままこうしていたらやがて窒息して死んでしまうだろう。新鮮な溺死体の完成というわけだ。
そうなる前に一秒でも水の中から脱出せねばならない。
エリザは思いっきり水を蹴った。
せめて顔だけでも水の中からでるように、両手で力いっぱい水を掻きわける。
纏わりつくドレスのせいで思うほどの効果はでなかったものの、エリザの身体はどうにか希望通り水上へと浮上した――はずだったのに。
上昇する力が加わっているにもかかわらず、なぜか身体が動かない。
なにか、下から引きとめるように力が働いているのを感じた。
エリザは不吉な予感を胸に背後下方に視線を投げ……皮肉にも自分の推測が的中したことを知った。
レオンハルトに贈られた目に鮮やかな緑のドレスが、水底からのびる木のようなものの尖端にからまっている様子が目に飛び込んできたのである。
これにはさすがのエリザも狼狽せざるを得なかった。
あまりにもタイミングが悪すぎる。
顔をひきつらせながら懸命にドレスを引き離そうとするが、頑張れば頑張るほどドレスは枝と強固にからまってしまう。
時間の経過と比例するように焦燥がつのる。
呼吸もそろそろ限界だし、意識も朦朧としてきた。
スカートを引っ張る手に力が上手くはいらない。
もはや苦しいのかどうかさえ曖昧だ。
しぬのかしら。
ぼんやりとそう思った。
そうならば、霞む視界に飛び込んできた人影は死神……否、天使にちがいない。
エリザは近づいてくる黄金の髪の天使に力なく手を伸ばした。
手と手が触れ合う。指先が絡み、引き寄せられ――気付けば力強く抱きしめられていた。
ほどかれた指がエリザの輪郭をなぞり、その頤をやさしく固定する。
天使の男の顔がすぐ近くにあるのがわかる。よく見えないけれど、きっととても美しいのだろうと思った。
エリザは知らずのうちに微笑む。
その直後、柔い感触がエリザのくちびるに触れた。
いささか乱暴にこじ開けられた口の中にあたたかな吐息がふきこまれる。
長い一瞬だった。
不意打ちの口付けのぬくもりは、その行為自体が幻だったかのようにあっさり遠ざかっていく。
それからの出来事はめまぐるしかった。
男は鞘から抜き放った短剣で枝にからまったドレスをいとも簡単に引き裂いた。
そして、事態についていけないエリザを再び抱きしめ水を蹴る。
身体の鍛え方が違うのか、天使はエリザという大きな荷物を抱えているにも関わらず、あっという間に浮上した。
ひどくむせながら深く息を吸い込むと、新鮮な空気がエリザの肺を満たす。
「エリザさま……エリザ様なの!?」
エレオノーラが、傾斜のある道を転がるように駆けてくる。
よほど泣いたのか目が充血している。
涙でぐしゃぐしゃになった顔からは、いつもの澄ました表情の面影を見つけることは出来なかった。
「ノーラ、お前は上からエリザを引きあげろ」
岸辺の植木につかまりながら件の男であるレオンハルトが言う。
エレオノーラは手の甲で乱暴に目の周りをこすると、深くうなずいた。
手袋をはずし、ふっくらとやわらかそうなてのひらをエリザの前に伸ばす。
「エリザ様、早く掴まりなさいっ!!」
言うが早いか、エレオノーラの方からエリザの腕をつかんだ。
低い声が合図を出すと、見事な連係プレーがエリザの身体をたちまち陸の上に引きずりあげる。
勢い余って尻もちをつくエレオノーラ。
常ならば痛みとショックで泣き出しているところだが、この時ばかりは痛みなど感じている暇もない様子でエリザにしがみつく。
「バカバカバカ! ちょっと押しただけなのに、どうして川に落ちるのよ! なんで浮かび上がってこないのよ! 本当に本当に心配したのよ!? エリザ様が死んでしまったらどうしようって!! 私にこんなに苦しい想いをさせるなんてひどいわ……エリザ様なんて大っきらいなんだから!!」
「エレオノーラ様……すみません、心配させてしまって……」
「どうして謝るのよぉ……ばかぁっ!!」
言葉とは裏腹に、エレオノーラはエリザにかじりつく力を強めた。
正直言うと押し付けられる頭が腹にめりこんで少々痛いのだが、今のエリザにエレオノーラを押しのける元気はない。
仕方がないのでなだめるように背中をなでていると、ふいに背後から声がかかった。
「エレオノーラ、退け」
しがみつかれたままのエリザは、名前を呼ばれた少女の身体がかわいそうなほど震えたのが良く分かった。
エレオノーラが怯えるのも仕方がない。
そう思うほどに、落とされた声はひどく冷えきっていた。
しかし、エレオノーラは青ざめながらも気丈に顔を上げ、己の名を呼んだ者と目を合わせる。
「へ、へいか……」
勇気とともにおずおずとしぼりだされた声。
しかしレオンハルトの返答はその勇気を無下にするものだった。
「聞こえなかったのか? 私はお前にそこを退けと言ったんだ」
「で、でも」
「でも? いつからお前は私に意見できるほど偉くなったんだ、エレオノーラ?」
「……っ!」
「分かったならば早く動け。お前は私とエリザに風邪をひかせるつもりか?」
これみよがしなため息に、エレオノーラの華奢な肩がふるえる。
エリザは気遣わしげに少女の顔を覗きこんだが、うっすら膜を張った涙をくちびるを噛みしめて耐えるエレオノーラは、それにきづいていないようだ。おそらく、そんな余裕もないのだろう。
それでもなんとか立ち上がり、幽鬼さながらの緩慢な動きでエリザの傍を離れる。
だが、それに対するレオンハルトの態度は容赦なく追い打ちをかけるようなものだった。
「エレオノーラ……お前には失望した。今回は寛大な心を以て許すが、次はないぞ」
紡がれた言葉のひとつひとつが氷の刃のごとくエレオノーラの心を抉る。
泣いてしまいたかった。身のうちで凝る恐怖と絶望を燃やして泣きわめくことができればどんなに楽だろう。
――だが、そんなことが許されるはずがない。
そのことはエレオノーラ自身が最もよく理解していた。
レオンハルトは怯える少女に冷ややかな一瞥をくれる。
やがて憔悴しきったエリザを抱き上げると、エレオノーラを置き去りにしてその場を去ってしまった。