Ⅱ・追憶(4)
* * *
無の空間に存在する白き大扉。リオンはその前に降り立った。
「バハールドートとイシュヴァの狭間である空間、か…。ここに来たのは三千年振りだな。相変わらず殺風景だなぁ〜」
すぐ後ろでキョロキョロとしているタオの何気ない呟きに、リオンはギョッとして振り返った。
「タオ…、お前って何歳だよ?」
「あ? そんなモン、いちいち数えていねぇっての。
そうだなぁ――…四千五百…六百…いや三百…?」
しきりに首を傾げている友に、リオンはガックリと肩を落とした。さすがは二対の翼を持つ魔族、桁が違う…。
「で、貴様は?」
「…お前よりは下だ」
「や〜い、ガキ」
「うるせぇっ、このジジイッ」
「あははっ。とか言って、実は俺より上なんじゃねっ?」
「違うわっ。俺は七十二歳だっ!」
「はぁ!? 貴様は赤ん坊か!?」
本気で身構えたタオに、リオンはますますガックリと脱力する。
「…バハールドートの民って、どれぐらい生きるんだ?」
「種族にもよるけどな、俺クラスは億超えもザラらしい。そっちは?」
「…。千かそこらだろ」
「はぁ? イシュヴァの連中って、そんなに短命なのかよ」
タオが向ける怪訝な視線。リオンは頭を振って気を取り直し、これは、と扉を示す。
「創世の時代に当時の大天使長が造った、って前大天使長から聞いた事がある」
らしいな、とタオが扉を仰ぎ見る。
「時代は創世。その当時、バハールドートとイシュヴァは、ひとつの大きな世界だった。だが、そっち側とこっち側で仲違いしての大戦争が勃発。まっ、天使と悪魔とじゃあ、どこの世界でもありそうな争いだな。
んで、このままだとマズい、と互いのトップが判断。こっち側のトップの魔王が世界をザックリと斬って分け、そっち側のトップの大天使長が扉を造って、両世界の唯一の接点である《道》を封じた。
扉を造ったのが古の大天使長だから、扉を開けられるのはイシュヴァ側にいる大天使だけ。こっちからでは、押しても引いても動かない。
それをいい事に、イシュヴァは罪人やらを扉からポイ捨てし、さっさと扉を閉めている。ゴミ箱代わりにしていやがるんだな、うん」
リオンはタオを唖然と見た。
「お前なぁ…、少しは言葉を選べよな」
「あ? 何か間違っていたか?」
「…。ポイとはされなかったからな」
――…すまない、と謝られた。
反逆者のお前をイシュヴァにいさせるわけにはいかない。
すまない、リオン…。
「こら〜っ。コイツをポイ捨てしがるんじゃねーよッ、ポイ捨てはッ! おらッ、聞いていやがんのかぁッ!? もッしも〜しッ!?」
ハッと我に返ると…、扉にげしげしと蹴りを入れているタオの姿が目に入った。
リオンは友の子供じみた行動につい苦笑する。
「そんな事をしても、向こう側には何も聞こえやしないさ」
「そんなこたぁわかってる」
「じゃ、なんで」
「この俺様の気が収まらんからだッ! だ〜ッ、おら〜ッ! どりゃァ〜ッ!!」
…こうなるとタオは止まらない。飽きるまで放っておいた方が良さそうだ。
リオンは気持ちを切り替えて、扉にそ…っと触れてみる。
――…こんなに薄汚れた色だっただろうか…?
追放時に見た扉も、あの夢の扉も、間違いなく白亜であった。
だが――…今実際に対峙している扉は、白に近い灰色をしている…。
リオンは扉の表面を擦るように撫でてみた。扉は凹凸のない滑らかな質感をリオンの指に返す。煤や埃の類は一切付着していない。表面が汚れているのではなく、扉の石自体が変色をしているようだ。
これはどういう事なのだろう? 何を意味する…?
「つまらんッ! うんともすんとも言わんッ!」
続けざまに、げしげしっ、と扉に蹴りを見舞ったタオが、苛立ちの咆哮をあげた。
リオンは苦笑するしかない。
「だから、向こうには何も聞こえ――」
「気に入らん! 壊すッ!」
破壊宣言をしたタオは、ますます躍起になって蹴りを入れ続ける。本気のタオならば破壊が可能かもしれない。だからこそ、単に扉を蹴りまくりたいだけなのだろう、とわかる。
何を熱くなっているのやら…、リオンは失笑しながら扉に視線を移した。
あの夢の意味がわかるのでは、と思いやってきたのだが…、目にしたのは、扉の不可解な変色。謎は深まるばかりだ。
それにしても、タオが一緒に付いて来たのには驚いた。彼も何か思う事があるのだろうか?
「帰ろう」
このままずっとここにいても仕方がない…。引き上げを提案したリオンに対し、タオは強力な一撃を扉に食らわせてから振り返る。
「何だ、もういいのか。何しに来たんだ?」
「さぁ…、単に来たかっただけなのかも」
「なら、先に帰れ。俺はもう少し蹴りを見舞ってやらねぇと気が済まん」
「…。まだやる気か」
リオンの力ない目線に、タオは憎らしい程の笑みで応えた。
リオンを先に帰したのは何故か、それはタオにもわからない。何を思ってリオンがこの場所に来たがったのかは知らないが――彼が満足したのなら、それでいい。
タオは無表情で扉から離れ、スッ…、と身を屈める。静かに右手を伸ばし《ソレ》をすくう。手を開けば《ソレ》は指の間から零れ、サラサラと落ちていく。
扉に気をとられていたリオンは、気付かなかったようだが…。
「――…あぁ…、イシュヴァの民は死ぬと砂になるのだったか…」
暇つぶしの読書で得た知識が役立つ事もあるのだから、なかなか面白いものだ。タオの手から流れるように落ちていく砂はどこまでも白く、粒の大きさが全て綺麗に揃っていて美しい。これが死骸だとは思えぬ程に見事に綺麗な砂だ。
「リオンはこうはなれぬのか」
たとえ千々に身が裂けようとも、頭を吹き飛ばされようとも、長き苦痛を経て再生する。永遠の生。それが彼に課せられた呪いだ。
手の砂を払ったタオは立ち上がり、ぐるりと周囲を見回した。
一見すれば、ここは無が広がるだけの空間。――だが、魔力の目を開いて見渡せばわかる。
この空間はまるで――…墓場だ。
何千何万というイシュヴァの民の残骸が、この空間に放置されている。この場に在る波動からして、小さな子供や死者の腹にいた赤子のソレもあるようだ。
本来ここは自分程の力がある存在でなければ、自由に出入りが出来ぬ空間。リオンは大天使であったために、意識せずともバハールドートに抜け出る事が出来た。だが――ここに眠る者達には、この空間から出るまでの力がなかった。リオン以外にバハールドートの地を踏んだイシュヴァの民の話がないのはそのためだ。
「コレが例のゴミ捨て場化、か…。なかなかの光景だな。前は気が付かなんだが…」
呟きながら、無意識に顔をしかめてしまう。
――イシュヴァは自分達に都合が悪い者をこの場へと放り、さっさと扉を閉じている。捨てられた者達がどれほど泣き叫び扉を叩いても、イシュヴァには何も聞こえない。
罪人や異端者の追放という大義名分で同胞を捨てる連中は――捨てるだけ捨て、捨てた者達の末路など微塵も考えてもいないのだろう。
「ほんに、イシュヴァの考えは理解に苦しむわ…」
ため息混じりにぼやき、扉を仰ぎ見る。
バハールドートは満月の晩に《道》が開き、他の世界から来る者達もいる。大抵の《道》は人間界と繋がり、大抵の場合は人間がやって来る。自称勇者を名乗るめでたい連中もいれば、死罪として送り込まれた罪人達もいる。ここまではほぼイシュヴァと変わらぬが、イシュヴァよりの例よりはまだマシだろう。バハールドートに来れば魔物や魔族が喜んで処分するし、生き延びる場合もある。人間が作った集落すら存在するので、機嫌を損ねた馬鹿な悪魔が襲撃しなければ、普通に暮らしていける。
だが、イシュヴァの場合は違う。
バハールドートの民の餌食になる事も、ましてや生き延びる事もない。死骸だけが存在するこの空間から出られず、孤独と飢えと渇きと絶望を味わいながら、じわじわと死を迎えるしかない。…残酷という言葉がイシュヴァには存在しないのだろうか。
「このような事実すら、イシュヴァは知らぬのだろうな」
見たくないものは見ない。気に入らないものは断じて認めない。都合の悪いものは何であろうと排除する。――…なるほど、これが天国と称されるイシュヴァか。
「さて…、これをリオンが知ればどう思うか」
相当の衝撃を受けるだろう。すでにイシュヴァとは関係がない身とはいえ、彼はかなりのショックを受け、深く傷付く。
――私がそれを避けた、と? だから、あえてリオンを先に帰した…?
自分の行動を振り返り、タオはやれやれとため息をつく。
まったく…、自分らしからぬ行動だ。
この扉は幾度開き、何人の民を吐き出してきたのだろう。魔族ゆえに心が痛むという事はないのだが…、どうも気に入らない。
タオは扉へと冷ややかな眼差しを向け、冷酷な光を瞳に宿す。
――天国と称されるイシュヴァ、か…。
実に、気に入らない…。