Ⅰ・白き夢(2)
* * *
夜。寝付く事ができずにテラスに出たリオンは、中庭へと降りる階段に腰を下ろした。
こんな時は空の散歩に限るのだが…、随分と鈍ってしまった体では難しい。背中の翼を広げて空を舞うのは、本来ならば呼吸や瞬きのように自然な行為。それが思うように出来ないとは窮屈極まりない。…ため息が出る。
中庭を照らす月は二つ。互いに相反する満ち欠けをする蒼月だ。
今はこのように静かな月光を放っている月だが、満月になれば赤い月光がバハールドート中を照らし、魔の血を騒がす。最初の頃は、この世界では自分の常識は通用しないのだと、不安と畏怖を感じたものだ。
――だが、安堵もした。このバハールドートは想像していた世界とは完全に異なっていたのだ。
魔界と称されるバハールドート。そこは陽光もなく、草木も生えず、汚らわしい魔物が跋扈する。そんな薄気味の悪い世界に違いない。――かつての自分は、他のイシュヴァの民達と同様に、この世界の事をそう思っていた。
ところが、実際のバハールドートはとても純粋で美しい世界だ。自分が生まれ育ったイシュヴァは年中が春の気候であったが、この世界には四季がある。季節の変化も、その風の中での飛翔も、楽しさと嬉しさで満ち溢れている。今では、イシュヴァよりもバハールドートの方が生命力に光輝いているのでは、とさえ思うほどに。
だが――…この世界の民である悪魔達は、純粋過ぎる性質故に、時には少々恐ろしい。十年前のあの時など、初めて見る天使に興味津々で、大挙してリオンにちょっかいをかけてきた。
あれはまるで…、無邪気に虫の手足をもぎ取り遊ぶ純真無垢な幼子のようだった。
「…昔の事を思い出すとはな」
あのような夢を見たためだろうか。それにしても、あの夢は一体…?
――…深く考えに更けていたために、上空から現れた黒い影に気が付いたのは、その影の主が視界に入ってからの事だった。
「何をシリアスしていやがるんだ? ガラじゃねぇぜ」
漆黒の翼をバサッと鳴らして降り立ったのはタオだ。羽ばたきの反動で抜けた黒い羽根がヒラヒラと舞う。
それを目で追い…、ムッとした。
「お前はいいよな、お前は」
「おおっ、なんだなんだ? 自分がまだ満足に飛べねぇから拗ねていやがるのか? 抱っこでもしてやろうか? 貴様一人程度なら軽く持ち上げられるからな。そんで、一緒に空の散歩を」
「…却下だな。そんな格好の悪い真似が出来るかっ」
「なら拗ねんなよ。可愛いねぇ」
今度は、可愛い、ときた…。絶句したリオンに、タオは憎らしい程のニヤリとした顔を向けてくる。
「拗ねた顔が可愛いなんてガキの証拠だな。や~い、ガキ」
「…ったく、お前なぁ…」
怒りも呆れも通り越した目を向けると、タオは何が面白いのか無邪気に笑い、無意識に翼をバサバサと羽ばたかせた。その漆黒の翼は――二対。
二対の翼を有する事は、バハールドートであれイシュヴァであれ、その身に絶大なチカラを有する証。イシュヴァでは二対の翼を持つ者を《大天使》と呼び敬うのだが、今いる大天使は自分と兄のみ。
そして――このタオは、バハールドートで唯一、二対の翼を持つ者なのだ。
タオは未だに腹を抱えて馬鹿笑いをしている。今の彼を相手にしていると全くそうは感じさせないが、このタオは恐ろしいまでに凄まじい力の持ち主だ。実はこの世界で最も強い魔族なのではないか…、彼の力は身を持って知っているのでそう思う。
タオは抜け落ちたリオンの羽根を拾っては「珍しいから」とコレクションしている。ただ大天使の羽根に興味があるだけならば、単にリオンから翼をもぎ取ればいいだけの事。それが面倒ならば、蝶や昆虫のように標本と化せばいい。――この世界の考え方では、それは普通に有り得るのだから。
たとえ…、とリオンは思う。タオがそれらを実行しようとしても、自分は抵抗さえできないだろう。タオの力には到底敵わない。無邪気に羽根をむしられるのをただ耐えるだけしかない。
もしもイシュヴァにいた頃の実力で挑んだとしても――…、この男が本気を出せば、自分など簡単に潰されるだろう。
…だが、タオは自分にそんな野暮な真似はしない。これもまたわかりきっている事だ。
「タオ、目障りだからあっちに行けよ」
「ああ? 俺は秋の夜長を貴様と語り合――」
「あっち行けって言ってるだろ。考え事の邪魔だ。しッしッ」
「ああ? それが親友に対する仕打ちか?」
「気が変わった。お前は悪友だ」
「ひっでぇな。天使の台詞とは思えんなぁ」
楽しげにケラケラと笑い、タオは空へと戻っていった。魔界の夜空に漆黒の魔族が舞い躍る。
月光の下で悠々と舞うタオの姿は、見る者全てに魅了と畏怖を与える。この世界は魔界と呼ばれているくせに魔王はいないらしいが…、出会った当初のタオには、タオこそがこの世界を統べる者では、と思わせる圧倒的な覇気と存在感があった。
自分と接する中で徐々に言動が変わってきたタオだが…、あの口はどうにかならないものだろうか。
「ま…、タオだもんなぁ…」
ため息をつき立ち上がり、階段を降りる。
手入れが行き届いた芝生に寝転がり、ぼんやりと月を眺めて…、目が…閉じ――…。
無の空間に存在する白き大扉。リオンは自分がその前に立っている事に気が付いた。
何故、という当然の疑問が浮かぶ前に懐かしさを感じた自分に気が付き、自嘲する。それでも扉に歩み寄ったのは、やはり懐かしさからだろうか。
哀愁と切なさと言葉では言い表せない複雑な感情が駆けた。自嘲を浮かべながら扉の表面を撫で、ため息をついて扉を見上げる。あの頃の記憶がよぎるが、前回程の懐かしさを感じる事はなかった。
…前回?
その瞬間、これは夢だ、とはっきりと認識した。芝生に寝転んで考え事をしていたはずだが、いつの間にかそのまま寝入ってしまったらしい。早秋の夜風は肌寒い。早く起きないと、また風邪をひきかねない。
だが、何故…? 何故この前と同じ夢を…?
もう一度、扉の表面を撫でてみる。ひんやりとした冷たい石の質感。磨き上げられたような滑らかな感触。あまりにも現実味があるそれらに、リオンは恐怖すら感じる。
――…これが、夢なのだろうか?
冷や汗が頬を伝い、言い知れぬ恐怖だけが全身を覆っていく。一体何がどうなっているのか? 自分はどうしてしまったのか…?
――…ギギ…ィ、と。
錆び付いた蝶番が軋む音が空間に響いた。
「…え…?」
背中に冷たい汗が伝ったのは、原因がわからない緊張と恐怖、そして『前回の記憶』からだった。
…そんなはずはない。
信じられない思いでゆっくりと振り返り――体が、凍り付く。
扉が、開いている…。
ほんの僅かだが、確かに開かれている。隙間なくきっちりと閉ざされていた扉が…。
前回と、同様に!
「ひ…ッ」
全身から音を立てて血の気が引いていくのを感じながら、嫌だ、と思う。
嫌だ…嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だいやだいやだああぁぁァァーッ!!
「うわあああぁぁァーーッ!!」
恐怖のあまりに悲鳴を上げた。自分のものだと認識できない程の、恐怖と絶望が宿った叫び。
恐怖で腰が抜けてその場に崩れた事など、この際どうでもいい。間抜けでも何でもいい。何でもいいッ! もう――…もう何でもいいから助けてくれえぇ…ッ!!
体が動かず、扉から視線を外す事ができない。見るな…、そう自分に言い聞かせても、体は完全にその思いを裏切っていた。
――…見るな…見るな……。
だって、前回は――。
呼吸を忘れ、息苦しさすら忘れ、扉の隙間にだけ集中してしまう。恐怖も自我も何もかもが薄れ、扉の隙間に視線が奪われる。
…この空間以上に暗く、ただただ無が広がっている扉の《向こう》へと…。
――…扉の《向こう》から…白い手が掛かった。
「――…起きろッ!!」
パンッ、という大きな音と頬の衝撃に、リオンがハッと目を開けた。
目を開け――混乱する。「てッ、手が…手がッ……手がァッ!!」
痙攣し舌を噛み切りそうになっている口をこじ開けて左手をねじ込み、漆黒の翼を持つ青年は冷静な声音で、大丈夫だ、と囁く。
「もう大丈夫だ。もう終わった。もう恐れるものは何もない。もう、怖くない」
激しく震え、瞳孔が開いている。しがみつく体に力の加減を忘れて爪を立てている事は黙殺し、青年はまるで幼子をなだめるかのような穏やかで優しい声を囁き続ける。
「もう大丈夫だ。私の声が聞こえるだろう? これは現実だ。怖い夢は終わった。夢の中の事は全て幻。幻はないもの。さぁ、現実の今は何も怖くない。私の声がわかるだろう? もう大丈夫だ。何も怖くない。ほらいい子だ…、いい子だ…」
とろけるような甘美な声音…、全てを委ねてもいいとさえ思える魔性の声…。自然と体から力が抜け、もうどうにでもされてもいいとさえ感じて…。
ぽんぽんと背中を叩いてあやされている自分に気が付き…、自分は夢から醒めたのだと――…ここがタオの腕の中なのだと気が付き、それでもリオンは放心していた。
「…もう、大丈夫か?」
震えが小さくなり、体の強張りも徐々に解け始めている。先程までは全身を痙攣させ震え上がっていたリオンが落ち着いてきた事を確かめ、タオは《かつての声音》と今の声音を混ぜて声を掛けた。
「もう大丈夫か?」
再度問われ、リオンは微かに頷く。応える事で現実へと確実に引き戻されていく。
よかった、と表情を和らげるタオ。同じく表情を和らげたリオンは、自分が何かを噛んでいる事にようやく気が付く。何だろう、とぼんやりと考えて――…それがタオの手なのだと、そして自分はその手に思いっきり歯を立てていたのだと気が付き、ギョッとした。
「ッ!? ご、ごめ…っ」
「どわぁっ、馬鹿がッ! 急に口から放すなっ! てか、急に降りるなぁ~ッ!! 俺は足が…っ、足が痺れてんだっつ~の…ッ!!」
慌てて口から出した勢いでタオの膝から転がり落ちると、タオは芝生の上でもんどりうった。その間にも歯形から血が溢れ出ている左手を魔力で癒したり、痺れで感覚のない両足首を庇ったりと忙しない。
痺れに意味不明な呻きを発しているタオは、すっかりいつもの調子だ。そんな友の姿が更なる安堵を与え、リオンはほっと息をつく。
「俺は――…いや、タオはなんで…?」
口にするとまた恐怖が這い上がってきそうで、リオンはとっさに言葉を変えた。
タオは足の痺れによってひきつった笑いを返す。
「だってよぉ、夜空の散歩で充足感に満たされて帰ってきたら、どこぞのアホ天使が庭で転がってうなされていやがるんだぜ? 一晩中そのままだったら不愉快極まりねぇからな、叩き起こしてやったってワケだ」
俺は別に単なる親切心で起こしてやったわけじゃねぇからな、だいたい貴様は大天使の分際で――…と、タオの言葉はまだまだ続く。
そんな友にリオンは笑い、そのまま芝生に寝転がった。風邪がぶり返しやがったら迷惑だから寝入るんじゃねぇぞ、などと言いながら、タオもまたその隣にゴロンと寝転がる。その後も何やらブツブツとぼやいていたが…、やがては完全に沈黙した。
そうして訪れたのは、いつもと変わらない平穏で静かな夜の時間――…。
優しい木立のざわめき。コロコロという虫達の声。
見上げると、翼ある者をいつも温かく迎えてくれる美しい夜空。瞬く星々。仲良く浮かぶ蒼い月。
そして隣に居るのは――、この時間を自分に取り戻してくれた存在だ。
「…ありがとな」
視線は夜空に向けたまま、ただそれだけを言った。
すると彼も夜空を見上げたままで、ただ、おう、とだけ応えた。