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Ⅴ・風が流れる(1)

 自分に残ったチカラの全てを振り絞り、自力で何とか動けるまでに体を回復させたシロンは、何度も何度も何度も《彼ら》に懇願し続ける。

 矜持も何もかもどうでもいい風体で、弟を返してくれ、と叫び続けた。

「もうやめてくれ! お願いだから、リオンを放してくれ! その子に罪はないんだ。罪があるのは私だ…ッ!

 頼む、やめてくれ! お願いだから…ッ! あぁ、リオン…」

 リオンからの返事はない。意識がない、というよりも――…返事をするための機能が、もはや体にないのだろう。

 周囲に響くのは、グジュクジュ、という肉の音。骨は全て砕かれ、体は肉塊と化していて…。


 それでも。

 リオンは――…生きているのだ。


「もうやめてくれ! リオンは死ねないんだッ、そんなになっても…!」

 不死とは、なんとおぞましいのだろう…! シロンは握り締めた拳を震わせる。

「もうこれ以上は…! リオンを返して! もう、これ以上はもう…! 」

 額を床に押し付けて懇願する大天使長を嘲笑うかのように、肉を弄ぶ生々しい音が一段と響いた。

 群がるモノ達の僅かな隙間から、流れる血すら失った肉片が見える。凄まじい血と肉の臭いに充ちた謁見の間。

「…ぅ…」

 あまりの光景に吐気を感じてしまい…、シロンは罪悪感に駆られる。

 リオンは自分の唯一無二の家族だ。大切な最愛の弟だ。その姿に、あろう事か吐気を感じてしまうだなんて…。

「…リオン…」

 お前を巻き込みたくはなかった…。お前、だけは…。


 ――うなだれて涸れた涙を流すシロンは気付かない。開かれたままの謁見の間の大扉で、人影が動いた事に。

 シロンの心には、ただ強く深い罪悪感だけが存在していて……。



「…ほぉ? 確かにイシュヴァの者にはちと刺激が強い光景ではあるな。余は少々興を覚えるが」



 唐突に聞こえた――威厳がありながらも、どこかのほほんとした声。シロンはハッと我に返る。

 この場に在るのは、自分とリオンと《彼ら》だけのはず。今のは、一体、誰が…?

 戸惑って周囲を見回すシロンの様子が可笑しいのか、くすり、と響きがある笑いが聞こえた。

「余をお捜しかな、大天使長殿?」

 黒く心地良い一群の風が吹き抜けた後、その声の主が忽然と姿を現す。ヒラリ、とその周囲を舞ったのは、抜け落ちた美しき漆黒の羽根。

 力なく床に座り込んだままのシロンの前に現れたその者は、長く艶やかな黒髪を背に遊ばせて壇上を見ている。濁りのない漆黒――。その美しさに魅入られていたシロンは、その背にある翼に気が付き、息を呑む。

 漆黒の――…まさか。

「な…何故…、何故ここに…」

「さて、何と答えれば良いものか。これ程にイシュヴァが荒れるなど、そうは起きぬであろうからな。少しばかり興味を持ったまでよ」

 言葉通りに興味を抱いているようには聞こえない淡々とした口調。振り返った彼は、シロンに向かって実に洗練された動作で一礼した。

「お初にお目にかかる。シロン大天使長」

 上げられた男の顔を見て、シロンは再び絶句する。


 ――…この存在は…神だ。


 どこまでも綺麗な褐色の肌。整った目鼻と形の良い紅の唇が、その顔に当たり前のように存在している。闇夜を思わせる黒の長髪は果てしなく艶やかだ。そして、漆黒の目。吸い込まれるように美しいその瞳には、他の誰にも屈する事のない気高さと冷酷な光が宿っている。

 この美を持つ者が如何なる存在であろうが、そんな事は関係ない。そんな些細な事など遥かに超越した――…神の領域。

「何故、貴殿がここに…」

「同じ問いに二度は答えぬ。

 ――こうも変われば、貴殿や奴と同じ民とは思えぬな」

 視線を壇上のモノ達に向けた漆黒の男は淡々と述べる。シロンもいたたまれない思いで、壇上に視線を戻した。

 先程まではリオンを切り刻む事でシロンをからかっているようだった《彼ら》だが…、それすら忘れたのか、今はただただソレを弄んでいる。この新たに現れた強烈な存在にも気が付かぬ程に夢中らしい。一体何をしているのか…、びちゃっ、という音が聞こえた。

「リオン…」

「弟が心配か? 案ずるな、今は完全に意識を失っておる。痛みも何も感じず、ひたすら無の感覚に漂うておるわ。

 ――次に目覚めた時にどうなっておるかはわからぬが、な」

「それは、どういう…?」

「生きたままであのような目に遭えば、自我の崩壊は起きて当然。――リオンとやらは、壊れておるやも知れぬな」

「リオンが…壊れる……?」

「自己犠牲の極みよのぉ。あやつの事よ、貴殿の代わりを申し出たのだろう? しかしまぁ、良いではないか。それで壊れるのであれば、あやつも本望であろう」

「な…!」

 絶句したシロンに、男は残酷に嫌味を含んで笑う。

「自己犠牲はイシュヴァの民の美徳と聞く。ならば、拍手のひとつでも贈ってやるのだな。

 ――…ほんに、馬鹿な奴よ」

 最後に呟かれた言葉は、シロンの耳には届いていない。シロンはそれどころではなかったのだ。

 自分のせいで、最愛の弟が壊れてしまうかもしれない。それだけが心を占めていく――…。


「弟を救いたいか?」


 放心したシロンに、漆黒の男は静かに囁く。――救いのようであり、罠のようでもある魅惑の声音で。

「――今、なんと?」

「弟を救いたいか、と訊いたのだが?」

「と…当然だッ」

 声を荒げるシロンに対し、男は無感情な様子でその美しい指で顎を撫でている。

「ふむ…。ならば、方法はあるぞ」

「そ、それは一体…? 教えてくれ!」

 男が纏う裾の長い外套にすがりつき、シロンは必死で懇願した。

「あの子は何も悪くないんだ! あの子があんな目に遭う理由なんてないッ。あの子を救うためなら、私は何でもする…! 頼む、教えてくれ!」

「何でもする――、か」

 感慨深げに呟く男に、シロンはなおもすがりつく。

「私はどうなっても構わないッ。私はリオンを――私の弟を助けたいだけなんだ…ッ!」

 非力の手ですがりつくシロンに手を貸す事もなく、男はただ淡々とした視線をシロンへと向ける。矜持も何もかも捨て去り懇願する大天使長に向けられた目には、特に感情はない。また、次に発せられた言葉にも、感情は全く存在してはいなかった。

「ならば。今、ここで、死ぬのだな」

「!?」

 唖然としたシロンを引き剥がして悠然と裾を整え、男は首を傾げてみせる。

「おや、出来ぬのか? 貴殿は直前まで『何でもする』『自分はどうなっても構わない』などと、自己犠牲愛を語っておったと、余は記憶しておるのだが?」

「な…何故…? 理由がわからないのに死ねと言われれば、さすがに私も…」

 狼狽した大天使長を楽しげに見据え、男は悪戯っぽく微笑む。

「貴殿自身が言うておったではないか。自らも死に、あの者共を冥府へと誘うと。随分と呆れた発想だがの。

 だから、死ねと」

「だ…だが……」

「おや、死ぬのが怖いか? 死以上の苦痛をその身に幾度となく刻んだというのに?」

「…」

 そういうわけでは…ない。

 シロンは首を横に振って壇上を見る。

「《彼ら》は…、その怒りが収まらなければ、私がどんなに誘っても、付いてきてはくれないよ。今の、あの状態では…」

「余が少々脅してやろう。ここにおるだけ無駄だ、とな」

「脅す…?」

 シロンは怪訝な眼差しを男へ向けた――次の瞬間、あまりの畏怖に動けなくなった。

 男は少し目を眇めてシロンを見ただけ。それだけだというのに…、魂が凍りつくかと本気で怯えるほどの恐怖を感じた…。

 ――…大天使長である自分の魂を震え上がらせる、今の覇気…。自分とは格が違い過ぎる…。

「これならば、きゃつらも貴殿についていくであろうて。死した身とはいえ、恐怖から逃れたいと思うのが本能というものよ。おおそうだ、余が直々にかの門を開いてやろうぞ」

 シロンの様子など気にせずに一瞬であの威圧感を緩めた男は、さて、と小首を傾げる。

「どうする? 死ぬか?」

「…実に簡単に訊いてくれるね」

「死ぬのは怖いか?」

「――…いいや。自分でも驚くほどに恐怖はないんだ。…けれど……」

 壇上に視線を向け、シロンは切ない声を出す。

「もう二度とあの子には会えないのかと思うと…、生に未練がある」

「貴殿の言は矛盾しておるな」

「…そうだね。自分でもそう思うよ」

 呟くシロンに男が、だが…、と無関心でいて呆れたような眼差しを向ける。

「だからと、余の案を断る気もない、と?」

「…」

 シロンは苦しげに目を伏せる。

「私は――…もう私の未練ごときであの子を苦しませる真似はしたくない。あの不死の呪いも、私の『もう一度会いたい』という未練で施したのだから…。そのせいで、あの子は今…あの状態だ。

 唯一の家族を愛おしむ事はいいけれど、度が過ぎれば…ただの苦痛になる。

 ――…それに…、リオンはリオン。私の所有物じゃない」

「あやつはあやつなりに、己の足で歩く事が出来る」

「うん。…むしろ、リオンは私の手を引っ張ってくれていたんだ。躓き転びそうになる私を支えて、私が穴に落ちれば必死に引っ張り出してくれた…。

 ――…そう…、頼っていたのは…、私、なんだ。自分の足で立つ事を忘れ、リオンの支えがなければ立ち上がる事すら出来なかった。

 …最低だね」


 シロンは胸に手を当てると天を仰いで目を閉じ…、しばし涙を流した…。


 ――シロンは男に真摯な目を向ける。

「もうひとつ…、頼まれてくれるかい?」

「ん?」

「頼む。リオンを助けてやってくれ。目覚めたあの子が自分で立てなくなってしまっていたら…、再び立てるまで、どうかリオンを助けてやって欲しい。これは大天使長としてではなく、兄としての最後の願いだ」

「――よかろう。貴殿の願い、確かに引き受けた」

 ありがとう…、と。シロンはそれだけを呟いた。



 自分の背から抜いた白い羽根を、瞬時に短剣へと変化させる。それを己の喉笛に突きつけ――…そして、しまったな、と笑う。

 男が不思議そうに片眉をはね上げた。

「どうした?」

「イシュヴァの掟では、自害は禁忌なんだ。困ったな…。私が掟を破ったら後続が出そうだ」

「ほぉ? 殺してくれようか?」

「まさか。そこまで貴殿の手を煩わせるわけには」

 忘れておるようだがの…、と。男は心底呆れた顔をしていた。

「イシュヴァには、今の貴殿に素晴らしい口実があるではないか。

 ――自己犠牲というくだらぬ美徳が」

 シロンは一瞬破顔し――…、そして少しだけ声を上げて笑った。

「確かにそうだね。実に素晴らしい」

 ひとしきり笑い――…シロンは再び男に向き直る。向けるものは真剣な目。

「私の弟を頼む。――――魔界の王よ」

「承知した」


 …不思議と満ち足りた気分だった。

 シロンは再び、そっ…と目を閉じる。そして――。


 白い刃がその喉を貫いた――。

 床に散る白い羽根。

 彼は痛みに顔を歪める事もなく、僅かな微笑を残し――…。



 若き大天使長の身は、瞬時に白き砂と化した――。




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