Ⅳ・帰郷(3)
* * *
かなりの時間を掛け、かなりの寄り道をして――…、決心がつかぬまま、リオンは大神殿の上空へとやって来た。
これほど怖気づいた心など経験がない。シロンに剣を向けたあの時でさえ――返り討ちに遭い死ぬかもしれない、と予想がついていたし、実際にそうなりかかったわけだが…、致命傷を負い血溜まりに沈んだ時でさえ、こんな感情はなかった。
穢れの空で思考を巡らせるうちに…、この瘴気が自分の心を蝕んでいる事に気が付く。しかし、それに気が付いたとしても…、重苦しい心境に変わりはない。
瘴気がこの感情を自分に植え付けたわけではないのだろう。自分が認識していない心の奥底で確かに存在しているそれを、瘴気が上へ上へと押し上げているのだ。つまりこれは、紛れもなく自分が抱いている、怯え、恐怖、そして――…。
「…ぅ…、いやだ…」
苦しみに、ギュッ、と目を閉じる。考えれば考えるほどに、自己嫌悪に陥ってしまう。
――…シロンを助けたい、という偽りなき気持ち――それと同時に、シロンを見捨ててバハールドートに逃げ戻りたい、という気持ちが、自分の中に確かに存在しているのだ、と思い知らされて。
……最低だ。
この自己嫌悪も穢れが――…否、どちらにしても、所詮は自分が大事なだけ、という事に変わりない。
自己犠牲。それはイシュヴァの美徳だ。それに今まで疑いもしなかった。
――…彼に会うまでは。
『どうも理解出来ぬな…。それらは真に賞賛されるべき行動と言えるのか?』
――…彼も自己犠牲の全てを否定するわけではないだろう。十年も共にいたのだ、わかる。
でも…。
迷いのままに、大神殿の前に降り立った。
意外な事に、外見上では大神殿は全くの無傷だった。壮麗な白亜の大神殿は、白い輝きも彫刻の一つさえも、自分がいたあの頃とちっとも変わっていない。…胸にチクリと痛みを感じた。
前大天使長に育てられた自分とシロンは、この神殿で育ってきた。神殿の全てが遊び場で、神殿の者全てを家族のように慕っていた。
――…自分達に笑顔を向けるこの大人達が、いずれ自分達を利用しようと企んでいたとは露にも思わず。
それでも、ここは――自分にとって唯一無二の故郷。それだけは違いない。
「誰もいない…」
かつては多くの神官や神兵がいた神殿の内部。外見的な破壊がないだけに不自然で、居心地の悪さを感じる。
明るい光に満ちた大回廊…。大理石に似た鉱石で作られた白い床が、リオンの軽快な足音だけを響かせている。こんなに音響効果があったんだな、などと思いつつ天井を見上げる。キラキラと輝くステンドグラスが見えた。衣を纏った大天使が舞い、風と鳥と世界がそれを祝福している画。
「…あれ?」
そういえば…、大神殿の中に入ってからは、瘴気をほとんど感じていない。だからこそ軽快に歩けるのだし、神殿内も光に満ちている。シロンの力で穢れの影響がないのか――…いや違う、とリオンは首を振る。
テリョウが訴えたように、兄に異変があったのだろう。自分を捜しにあの無の空間へ来て《何か》が起きた。そのせいでこの世界は瘴気に覆われ、多くの民が砂になった。
ならば、何故…?
赤子の頃より過ごした大神殿。迷うことなく目的の場所――自分が兄に剣先を向けた、あの謁見の間へとたどり着く。
この向こうに、大天使長たる兄はいるのだろうか…。未だに迷いが残る心が、扉に掛けた手を止めさせる。そもそも追放された身で彼に謁見などと――…、いや…自分は何を今になって考えているのだろう…、だが……。
――…呻き声が聞こえた。
リオンは耳を疑った。今のは…? いや、しかし…。
――…嫌な予感が、リオンの胸に重く黒い塊を落とす。
震える手で扉を重々しく押し開き――…。
「…ッ!」
それまでおそるおそると開けていた扉を一気に開け放ったのは、目に飛び込んだ光景があまりにも信じられなかったため。
――…大天使長の玉座がある壇上で、黒い何かが蠢いている。
獣なのか、軟体動物なのか…。特定の形を持たぬそれらは、終始形を変えながら不気味に蠢き《それ》を喰らっている。周囲に響く、骨を噛み砕く嫌な音。
黒いモノ達が群がって喰らっているものは――…黒いモノ達の体の僅かな隙間から見えた《それ》は……。
「あ…あにき……?」
呆然と発せられたリオンの声に、黒いモノ達は、ピクッ…、と耳らしき部位を動かした。そして。
「い…ッ!」
リオンは鳥肌を立てる。
コポコポと沸き立つような音と粘るような音を立て、じっ…くりと向きを変えた黒いモノ達が、無数の目らしきモノでこちらを凝視したのだ。その黒い胴体の中に、未曽有の数の人の顔を見た気がする。
恐怖に似た何かに支配されて動けなくなったリオンの耳に、弱々しいながらも聞き覚えがある声が聞こえた。
「――…オ…リオン…?」
「! 兄貴ッ!」
黒い塊の僅かな隙間から、少しだけ顔をのぞかせて苦笑いをしてみせたのは――…、間違いなく、兄シロンだった。
「ちょ…ッ、今何とかす――」
「駄目だッ!!」
駆け寄ろうとしたリオンを、シロンの威厳ある声が止めた。
そして、苦しげに顔を歪ませながら優しい笑みを向けてくる。
「――…駄目だ、リオン…。いい子だから、この者達をあまり刺激しないでおくれ…」
「で、でも…」
「いい子だから、そこにいるんだ」
今にも泣きそうなほどの優しい笑みでリオンに囁き――…そしてシロンは、自分を喰らうモノ達にも同様の優しい声を掛ける。
「頼む、君達…。少しだけ、私を放してはくれないか? あの子に話があるんだ…。頼むから…」
「…」
大天使長シロンが、あの異形の存在に懇願している…。
まるで相談するかのように震えた黒いモノ達。それが無造作にシロンを吐き出す様を呆然と見つめ――吐き出されて壇上の階段を落ちてくる兄にようやく、ハッ、と体が動く。
シロンがそれを再び制止した。
「待てッ!! 普通に私に触るなッ! お前もただではいられな――!!」
全身に不浄を受けたシロンはそこまでを言うと、苦しそうに激しくむせ、ドロリとした黒い血が吐き出す。
リオンは戸惑いと罪悪感に苛まれながら、自分に頑丈な破邪の結界を施し――…そして、やっと、シロンを抱き起こす事が出来たのだった。