Ⅳ・帰郷(2)
* * *
なに――大した事ではない。以前に戻っただけ。アレがいなかった頃の日々に戻っただけだ。
何も、変わりはしない――…。
黒き四の翼を持つ魔族は、書庫で馴染みのソファに身を沈めていた。しかし、手元の本には目を向けず、ただぼんやりと窓の外を眺める。
あの大天使に散々引っ掻き回された自分の内実は、ますますわからなくなっている。これではしばらく、己の感情に制御が効かないだろう。大天使だというのに、残酷な真似をしてくれる…。
何度目かわからないため息をついていると、モヒカンのラピちゃんが気を利かせて紅茶と茶菓子を持ってきた。主人の好みを知り尽くしているので、どちらの品も嬉しいものだ。
「…」
もしも、寂しい、などという無駄な感情が湧くようであれば――…またこいつらを造ればいい。
寂しさなど感じないほどに、たくさん。
――…馬鹿馬鹿しい。何を…。
自嘲し、ラピちゃんに酒の用意を命じる。今は茶よりも酒が飲みたい。命令されたラピちゃんが短く鳴いて退室していく。それを見届け、テーブルの本へと手を伸ばす。
表紙に手を掛けた瞬間――。小さな兎がその本に、ピョン、と跳び乗った。
跳ぶ事も着地もまだまだ下手な子兎。顔面を強打したが、タオの指を、キュッ…、と握ってつぶらな瞳を向けてくる。――リオンが特に可愛がっていたラピちゃんだった。
「なんだ?」
小さな小さな手でタオの指を掴み、しきりにピーピーと鳴いている。とても切ない鳴き声…。この必死な眼差しといい、言いたい事は嫌でもわかる。
「奴はもうここへは来ない。忘れろ」
わざと冷たい言い方をすると、ラピちゃんはますます必死にくっついて鳴いてきた。
「どんなに喚こうが、無駄だ。もう奴は戻らない」
ラピちゃんは、いやいや、という様に首を振り、涙をぽろぽろと零してピーピーと鳴く。
――…幼子の駄々のようなものか。切なく、胸が痛む。
「無駄だ、と言っているだろう」
なおも続く、全身での否定と拒絶。…タオは徐々に苛立った。
「貴様…、この私に楯突くつもりか?」
ラピちゃんの絶叫が一層に高まった。
「キサマいいかげんに――…ッ!!」
カッとなって子兎をひっ掴み、ガタンッ、と立ち上がる。そして、全力で床に叩きつけようと手を振り上げ――――…ふと、周囲が気になる。
書庫専属の兎達が息を呑んで凝視していた。止める事も助ける事もできず、ただただ硬直している。
対して。自分が握っている幼いラピちゃんは、何が起きたのかもわからずにキョトンとし、おとなしく自分の手の中に収まっていて――。
――…私は、何をしているのだろう。
「…ちッ」
叩きつけるのではなく、タオは子兎を床に落とした。まだ着地も苦手な子兎は転んだが、怪我をするような事はなかった。
子兎に五羽のラピちゃん達が近付き、顔を嘗めたり可愛らしいキスをしている。小さなラピちゃんは未だにキョトンとしており、仲間の抱擁を受けている。
「…」
くしゃりと前髪を掻き乱し、タオは大きなため息をつく。とても重い感情が自分の中を支配していた。
先程のモヒカンのラピちゃんが、酒の盆を運んできた。タオは大股でそれに近寄ると、酒のボトルを乱暴に掴み上げて口をつける。
そのまま一気に中身を飲み干す主人を、モヒカンのラピちゃんはキョトンと見上げていた。
「――…貴様ら、私が怖いか?」
どうしていいのかわからないのか、ただただ見つめるだけのラピちゃん達に、苦く笑いながら問い掛けた。ラピちゃん達は困ったような眼差しで、気遣うような小さな鳴き声を返してくる。
「ふっ…、所詮貴様らは私の所有物だからな。私には逆らえぬ、私の機嫌は損ねられぬと――…そうであろう?」
ラピちゃん達はますます困惑し、首を左右に振って鳴く。普段とは違う主人を心配そうに見つめて…。
――つい最近、似たような事をリオンに訊いた。それを思い出し…、更にやりきれない思いに苛まれる。
厳しい表情で黙り込んた主人を見つめるラピちゃん達が、心配そうに、ピー…、と鳴いた。
「……貴様ら、あいつがいなくなって寂しいか?」
主人の問いに、兎達は困惑した様子で互いの顔を見合わせて――…そして、ぎこちない動きで頷いた。
「…そうか…」
小間使達の反応に、タオはただそれだけを呟いた。
…この小間使達に『ラピちゃん』と名を与えたのは、リオンだ。それまでただ粗悪に扱われてきた小間使達に、初めて与えられたモノ。
あの時のラピちゃん達は、本当に嬉しそうだった――。
「…貴様らはあいつが好きだもんな」
――寂しくないはずがない。
再び酒をあおったタオは、更なる酒と料理を持ってくるようにとラピちゃん達に命じた。
――…酒のボトルやグラス、食い尽くした料理の皿が、テーブルだけでなく周囲の床にまで占領している。半ば強引にラピちゃん達も巻き込んで盛大な宴を開き――…いつの間にか寝入ってしまっていたようだ。いつの間にか、暖炉の火が消えている。
ソファに沈没したまま、ぼんやりと周囲を見回す。窓の外は夜。綺麗な月が二つ、仲良く並んでいた。
三羽のラピちゃんが自分の上ですやすや眠っている。ふわふわな毛皮が贅沢な布団代わりになり、寝冷えをせずに済んだ。よろめきながらも、兎達を起こさないように、ソファから落とさないように、と立ち上がる。
――…やれやれ、この私が小間使を気遣うとはな…。
飲みかけの酒のグラスを手に、窓辺へと歩む。充血した目の気だるげな顔が窓に映っている。
「ふっ…、我ながら酷い顔だな…」
窓に額を寄せ、目を閉じる。
「まだ朝は来ないのか…」
これまでも長くつまらない時間を持て余し生きてきたが、ここまで時の流れを遅く感じた事はなかった。冷たさが心地良くて窓ガラスに寄りかかり、グラスの中身を飲み干して書庫を見回す。
ピアノが見えた。
「…」
暇を持て余してピアノに打ち込んだ時期もあったが…、何百年も弾き続けるとさすがに飽き、つい十年前までは物置と化していた。それを不憫に思ったリオンが片付け、調律したのだ。
ピアノの椅子に座り、鍵盤に指を乗せる。実際の演奏は随分と久しいが、指が記憶していた。そうして、兎達の安眠を妨げぬようにと静かな曲を選んだのは…、やはり、あの大天使の影響だろう。
「あやつもよく弾いておったな…」
自分が読書をしている時は、邪魔にならぬようにと、静かな曲を弾いていたものだ。リオンが奏でる旋律には不快を感じず、むしろ心地良ささえ感じていた。その音色に触発され、ヴァイオリンを持ち出す時も珍しくはなかった。そうして共に奏でる時間は、とても心地良く素晴らしかった…。
それまで鍵盤の上を滑らかに踊っていた指が――…ふと、止まった。
「もう…、それも出来ぬのか…」
その瞬間――。それまで何とかごまかしていた喪失感が、ドッ、と押し寄せてきた。
それと同時に、この喪失感を何とか誤魔化そうとしていた自分に気が付き――…唖然とした。
「馬鹿馬鹿しい…。この、私が…」
呟いて――…、タオは静かに唇を噛んだ。