Ⅲ・赫に近い黒の光(4)
* * *
イシュヴァで何が起きているのか――…バハールドートにいる限り、それを知る術はない。しかし、このままでいるのも釈然としない。
もう一度実際に扉を見に行く、と主張するリオンを、タオはあっさりと退けた。
「それで夢みたく貴様が拉致されるような事になったら、俺は本気でブチ切れて扉を破壊しかねないぜ? 俺があの扉をぶっ壊せないと思っているのなら、それは完全に間違いだからな」
タオの性格と実力ならば、可能かもしれない…。黙り込むリオンに、タオは、俺が代わりに行く、と提案した。故郷の異変が気になるリオンとは別の意味で、タオもまたイシュヴァの異変が気になっているようだ。
眠らずにタオの帰宅を待ち――…。うつらうつらとしていたリオンは、窓の外に広がる空がぼんやりと明るくなりつつある事に気付く。
「…タオ、遅いな…」
単に扉を見に行くだけなのに、何故こんなに時間が掛かるのだろう…。
――…胸騒ぎを覚えた。
ラピちゃん達の制止を振り切って館を出たリオンは、扉がある無の空間に足を踏み入れた。
――途端、場に満ちる異様な空気に顔をしかめる。
夢と同じ…否、それ以上の穢れだ。その証拠のように、闇に飲まれそうな程に赤黒く変色した扉が見える。扉に近寄るほどに、瘴気は強さを増していく。
ハタ、とリオンは足を止める。
「…あ…、開いてる…」
そう――扉が開いているのだ。このどす黒い瘴気は、開いた隙間から流れ込んできているのだ。
――…あのイシュヴァが、こんな…。これでは…、イシュヴァの民は、皆、死んでしまう…。
しばし唖然としていたリオンだったが…、扉の前にある二つの人影に気付く。
見慣れた黒の二対の翼はタオだが、もう一つの影は、白の――。
「…ん? 大人しく留守番していろ、って言っただろうが」
呆然と近付くリオンに顔を上げるタオ。彼は扉の隙間から身を乗り出して倒れている者に手を添えている。その背にある翼は、間違いなく白だ。
全身が血まみれで、傷だらけで、翼も残骸でしかない。うつぶせに倒れているために、顔はわからない。
「んー…、死んだかな?」
「こッ、殺すなよッ!!」
「俺は何もしてねーよ」
「タオならやりかねないだろーがッ!!」
「わー…、ひでー…」
「とッ、とにかく治癒を…!」
「無駄だ。効かねぇ」
忠告は無視し、リオンは強引にタオを押し退けて手をかざす。だが――…治癒魔法に全く反応を見せない傷に愕然とする。
「え…? な、なんで…?」
困惑したリオンの声に反応したのか。それまで死体のように動かなかった体が、ピクッ…、と動いた。
「……し…きょ……司教…?」
「! 俺がわかるのか!? しっかりしろッ!」
服が血で汚れる事になど構わず、リオンは自分を司教と呼んだその者を抱き起こす。見覚えのある顔だ。
リオンより年上に見える彼は、力なく開けた目でリオンを見て、ふわ…っ、と微笑む。
「……し…司教……あぁ…ごぶ…じで…ッ……うッ…」
「お前――…テリョウか!? おいッ、一体何があった!?」
かつての自分付きの文官だと気付き、抱き起こす手に思わず力が入る。せめて苦痛だけでも取り除けないかと、先程から色々と試みているのだが――…効果が出てこない。
一体何故…、リオンは顔を歪める。
「司教…、お会いしたかっ…た……」
「何があった? この瘴気は一体なんだ!?」
「……げ…猊下が…」
「兄貴…? あいつが何をやらかしたんだ!?」
リオンだけが言えるその言葉に、苦悶の表情を浮かべていたテリョウが微かに笑った。
「まったく…司教は……ほんと…に……お変わりない……お懐かしい…」
ひたすらに術をかけ続けた成果か、テリョウの呼吸が僅かにだが楽になったようだ。苦痛に満ちていた表情が、リオンとの再会に安堵したそれに変わっていく。
この調子で傷も癒せないかと、リオンは更に力を高めていくが――…そちらには全く効果が現れない。流れ続ける血。
このままでは、保たない…。
「司教…」
苦渋に顔を歪ませて唇を噛んだリオンに、テリョウが血まみれの手を伸ばす。必死の眼差し。
「どうした?」
「司教が…おられなくなってから…、猊下はとてもお寂しそうで……それで…」
「それで?」
「もう一度会えないかと…、ここへ…」
「シロンが…、ここに来たのか?」
「はい…。ですが……猊下が…ここから戻られて…から…は……」
「どうした? 何が…」
――テリョウの目から、涙が溢れた。
「司教…、猊下をお助け下さい。どうか…どうか…」
「…テリョウ? シロンがどうした!?」
「あれでは…猊下は……あんまりです…」
「シロンがどうし――…いや、もういい! もう喋っちゃ駄目だッ!」
「司教…、どうか…どうか猊下を…」
「あぁわかった――…わかったから、テリョウッ! もういいから…ッ!!」
「――…リオン…さま……」
「駄目だテリョウッ、駄目…ッ!!」
テリョウの体が、砂と化した――。
――…残されたのは、切り刻まれたような衣類の残骸と、布袋の御守。
「…ッ」
御守を拾い、リオンは静かに唇を噛み締める。
「――それは?」
「…俺が配下達にあげたものだ。魔除けの印と…俺の羽が入ってる…」
追放された自分を未だに慕ってくれていたのかと思うと、いたたまれない…。
周囲に蝶番が軋む音が響く。――扉を閉じようとしているタオに気が付き、リオンはハッと顔を上げた。
「ま…待てッ。閉ざすなッ!!」
「開けておくだけ無駄だ。これ以上の穢れにあたれば、貴様もただではいられないだろう?」
「俺は…っ、何とかしたいんだ…ッ!」
「お前に何が出来る? 何も出来ないだろう?」
「そんなの、わからないだろッ!」
「わかるね。…それに、貴様はイシュヴァには入れない」
リオンは顔をしかめた。試してみろ、という風に顎をしゃくって扉を指され、リオンは扉の《向こう》――穢れが渦巻くイシュヴァへと手を伸ばす。
「…ッ!」
指先に走った激痛に、瞬時に手を引っ込めた。指先の皮膚が裂け、血が流れ出ている。
「大天使の貴様がそれだ。普通の天使共なら、とっくに砂になっている」
「そ…んな……、テリョウは」
「貴様の御守とやらのおかげで、今の今まで生き延びられたんだろう」
「じゃあ…。厳重に結界を組めば、俺なら」
「それでイシュヴァへ行けたとしても、お前は何も出来ない。――する必要もない」
タオはただ淡々と述べる。
「貴様は不死の呪いを受け、追放された。そんな貴様が、何故、イシュヴァに関わる必要がある?」
「テリョウは俺に、あいつを助けてくれ、って…」
「頼まれても出来る事と出来ない事がある。お前の場合は後者だ」
「でも」
「でも、構わずに行きたいと?
いいか、貴様は不死の身だ。それを忘れるな。何が起きても死ねない。生ける肉塊に成り果てる覚悟があるか? 冷静に考えろ。貴様には無理だ」
「――…なんでだよ」
淡々としたタオに、やりきれない思いが膨れ上がった。
「なんでお前はそんな…そんな…ッ!」
「貴様を冷静にするために、だ。俺が止めなきゃ、間違いなく突っ込んでいただろう?」
「このまま何もせずにいろと!? テリョウみたいにまだ生きている者だっているはずだッ!
それに…。シロンが苦しんでいるのなら、俺のせいだ…」
悔しさに拳を握る。
「俺を捜しに来て、そのせいでイシュヴァとシロンに異変が起きたのなら――…俺の責任だッ」
「追放した配下を恋しがって捜すとは、まぁマヌケな大天使長殿だな」
「なんでお前はそういう風にしか思えないんだよッ!?」
タオの胸倉に掴み掛かり、リオンは半狂乱でわめき散らした。
「お前に何がわかる!? あいつは確かにマヌケだけどな、それだけで終わる奴じゃない! そうでないとあんな馬鹿げた世界と民をまとめる事は出来ないだろ!? 頭ん中がお花畑な連中を相手にずっと大天使長してきたんだ! あの中で感覚が狂うのも当然だが、統治者として公正で厳しい考えも必要だと、俺は何度も兄貴の狂った感覚を本来の兄貴の感覚に戻るように支えてきたんだ! それなのに、ふわふわした感覚の連中がシロンを唆して自分達の都合のいい政策を執らせ、都合の悪い者達は冤罪で処断させようとしやがったんだッ! 俺は、彼らは冤罪だ、罪があるのはあの連中の方だと、何度も何度も諫言し続けた! けど、あいつの耳にはもう俺の言葉は届きやしない…! 連中は俺を面白く思わず、俺に謀反の疑いがあると囁き、俺をあいつから遠ざけるために俺を監禁させやがった…ッ!! もう…、もう駄目だと思った! どうすればあいつの目を、連中の馬鹿げた感覚から解放出来るかと何日も何日も考えた! だから俺は、監禁先を無理やり出て、警備を強行突破し、あいつに剣を向けたんだ…ッ!! 殺
すつもりじゃないッ! 謀反でもないッ! 俺はもう一度あいつに俺の話を聞いてもらいたかっただけだったんだ…ッ!! それなのにッ、なのに…ッ!」
――…震える肩に、タオの手が置かれた。
「…貴様が背負い込むべき事ではない」
「お前に何がわかる!? 俺は…っ、俺は結局あいつを一人にしたんだぞ…ッ!? あいつの周りにいる連中は、あいつを自分の都合よく事を進める為の道具程度にしか思っていないんだッ! まともな神経をした味方なんていやしないんだ…ッ! 俺が追放なんかされた為に、あいつはそんな地獄に放り込まれたんだッ!!」
「揺るぎない自身の意志を持てぬ者に、統治者を名乗る資格などない」
「あんなおかしい場所では、どんなにしっかりとした意志を持つ者でも揺らぐ!」
「だが、貴様は違った」
「俺とあいつじゃ、置かれた立場も環境も違う! あいつは、俺なんかよりもずっと…ッ!!」
「その結果が、これだ」
タオが静かな視線を扉の《向こう》へと投げた。
「馬鹿共にはいい薬だ。地獄とやらで己の愚かさを悔やむであろうよ」
「あいつはどうなる!? シロン――俺の兄貴は…ッ!!」
言いかけ――タオの胸倉から乱暴に手を放し、リオンは扉の《向こう》を強く見据える。
「…俺は行く。俺は兄貴を助ける。助けたいんだッ!」
「…。どこへも行かぬと言った口でそれを言うのか?」
「あの時とは…状況が変わった」
「……私は行かぬぞ」
背後からの――親友の声。
リオンは振り返る事なく応える。
「構わない」
「そうか。
――ならば、ここで私と貴様の縁は終わりだ」
「……。構わない」
「…………そうか」
タオのどこか悲しげな声音に心が痛む。
それでも。リオンは静かに目を閉じ――…そして、開く。決意の目。そして。
リオンは扉をくぐった――。
――…無の空間にひとり残され、タオはしばらくその場で自嘲していた。
「結局、貴様も同じか…。信じろと言い、友だと言い、理解者だと言い、昨日まで傍にいたくせに……、それでも最後はひとりになる…」
――ひとりには、慣れている。
「そもそも、私は友など望んではならぬのだ」
――孤独には、慣れている。
「望むだけ無駄だとわかっておるのだ。…結局は、得られぬのだから」
――諦めには、慣れている。
「そう運命付けられておるのだからな、私は…」
――暗闇には、慣れている。
「所詮、私はひとりだ。――永遠に」
だが――…。
「貴様だけは…、違って欲しかったな……」
――タオは静かに扉を閉じた。