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Ⅲ・赫に近い黒の光(1)

 とても気持ち良く眠っていたというのに、あまりの騒々しさに目が覚めたのは、最後に扉の夢を見てから三ヶ月程が経った初冬の夜の事であった。

 静かであるべきはずのこの時間に遠くから響く、正体不明の無数の物音。艶やかな女の声と子供の無邪気な笑い声、タオの罵声がその上に掛かる。

「うっせーぞッ、人が寝てい――!」

 中庭に面した自室のガラス戸を力いっぱいに引き開けて抗議を発しかけたのだが――…、女の楽しげな、まぁ、という歓喜の声が続きをかき消した。

「白ちゃん、寝ぼけた顔も可愛いわねぇ」

「わーいわーいっ、白ちゃんが起きたーっ」

「…」

 状況が飲み込めず、リオンはぐるりと周囲を見回す。

 周囲に満ちた夜の闇が赤いのは、今この世界を照らしている月光が赤いためだ。その赤き闇の中庭にある人影は三つ。コウモリの羽を持つグラマーな女と、コウモリの羽と頭に角が生えた小さな子供。そして、不機嫌そうに二人を睨んでいるタオ。

 赤き月光が目に映る全ての存在を赤く染めている。遠くから聞こえるザワザワという物音は、流れる帯のように夜空をひしめく無数の影が放つ音。それは不気味なほどに赤く巨大な満月を横切り、ゆったりと蛇行しながら地平線から地平線へと移動している。

「そっか、今夜は満月か…。

 で、一体どうし…ったぁぁっ!?」

 空を見上げながらテラスの階段を降りていたリオンが、昼間のみぞれが作った水溜まりに足をとられてすっ転んだ。

 それを見た小悪魔がケラケラと笑い転げる中、タオは特大のため息をつき、友に蔑みと呆れの眼差しを向けている。リオンが起き上がる際に手を貸しもしない。

「人界と《道》が開いたらしい。空のアレは、こちらに来た連中を狩りに向かう集団だ。コイツらはご丁寧な事に、俺を狩りの誘いに来た」

「か――…つまり獲物は」

「人間」

 服や肌に付いた泥を払っていたリオンは、う…っ、と顔をしかめたが、女は艶めかしい笑みを深めている。

「白ちゃんも一緒にどーお?」

「そうしよーよっ。白ちゃんにはトクベツに取りたての心臓と目ぇ分けたげるよーっ」

 言うなり早速翼を広げた小悪魔が、リオンの裾を掴んで空へと引き上げようとする。リオンはその手を慌てて引き剥がし、タオの背後へと避難した。

「お、俺は行かないっ! タオ…」

 情けない声と目で助けを求められ、タオが渋々と怪訝な顔を訪問者に向ける。

「さっさと貴様らだけで行け。俺もコイツも行かんからな」

「えーっ? 白ちゃん、人間嫌いなのー?」

 リオンは、食べない食べないッ、と手と首をブンブン振って全力で否定する。

「えーっ? 白ちゃん、好き嫌いはダメだよーぅ。あのね、目はとくにおいしーんだよー? ぷるぷる〜ってしてて――…あ〜ん、よだれぇぇ〜」

 うっとりと口元を拭う小悪魔に戦慄するリオン。タオがまた大きなため息をついた。

「とにかく、俺もコイツも断じて行かん」

「ええー? なんでなんでーっ?」

「第一に、リオンは天使だから人間は喰わん。第二に、俺は美食家だから人間は喰わん」

 その言葉に、季節を無視して露出の多い衣装を纏う女が妖艶に微笑む。

「あらぁ? 公も昔はこうした時に、一番にはりきっていらしたわよねぇ?」

「…そーなのか?」

 力のない目を向けられ、タオは苦虫を噛んだかのような表情を浮かべる。

「勘違いするな。俺は殺す専門であって、喰いはしない。人肉は硬くて実に不味い」

「…。そーですか」

 とにかく、とタオは二人を睨む。

「さっさと失せろ。俺の機嫌がこれ以上悪くなる前にな。

 ――さもなくば、知らぬぞ」

 低く放たれた声――。そのあまりの殺気に小悪魔は震え上がり、脱兎のごとく空の集団の中へと逃げていった。

 その情けない後ろ姿に、女が色気と湿気を帯びたため息をつく。

「あら、お父様ったら。この機会に公と仲良しに、と言い出したのはお父様なのに」

「よく言う。貴様らは単に私の魔力を喰らいたいだけであろう。夜魔ごときが叶わぬ夢を抱くでないわ」

「ねぇ白ちゃん、公の血を一滴だけでいいから入手してくれなぁい?」

「貴様は夜魔らしく、人間の血でも魂でも啜ってこい」

 苛立つタオにむしろ興奮したのか、夜魔の女が、パチン、と一つ手を合わせる。

「名案が浮かびましたわ。白ちゃんのを食べるの。天使はどんな味かしら」

「魔族が喰える代物ではあるまい」

「あら。それは、公がもう味見済み、という意味でして? うふっ…独り占めは、駄目よ?」

「…このアマ…」

「白ちゃん、こっちにいらっしゃいな。大丈夫よ、痛くしないから」

 うぅ…、と呻くリオン。この会話には完全についていけない。

 パキパキと手の関節を鳴らしたタオが、我慢の限界とばかりの風体で一歩前に出た。

「リオン、穢れに触れたくなくば下がっておれ。耐え切れぬわ、始末する」

「まぁ怖い! ご機嫌よう」

 ふふふ、と妖艶に微笑んだ女は、投げキスを残して素早く夜空へと消えていった。蓄積した感情を発散するように、フンと鼻を鳴らすタオ。

 リオンも安堵と嫌な疲れにため息をつき、白い吐息を夜風に吐きつつ赤い月を見上げた。

 通常この世界の月は二つだが、今宵夜空に浮かぶ月は満月が一つのみ。普段の月の倍以上はある大きさで夜空に収まり、赤い月光を放っている。

 バハールドートの満月は、不気味な赤い月光を放つ。初めて見た時は驚いたものだ。

「何度見ても見慣れないな…」

「バハールドートの民にとっては至高の光だ。血が騒ぐ」

「…大丈夫か?」

 興奮気味のタオに声を掛けると、漆黒の魔族は残酷な笑みを浮かべた。

「今この目の前に手頃の魔族がいたら、ぶちぶちといたぶって殺したい気分だ」

「…そーですか」

 リオンが最初にこの満月を体験した時にタオは、満月の晩は出歩かぬ事だ、と忠告した。その理由を訊ねる必要などなかった。忠告をするタオ自身の目がすでに危なかったので、あぁなるほどね、と納得したのだから。

 満月の魔力は強力過ぎるために均衡が綻び、異界と通じる《道》を開ける事がある。興奮のままに異界へ攻めても良さそうだが、バハールドートの民が《道》を使う事はほぼない。こうした面を知る度に、平和な魔界の住人達だよな…、とリオンは思う。

 大抵の《道》は人界と結び、大抵の場合は人間がやってくる。悪魔退治などと無謀極まる大義を掲げた自称勇者達は立派だが、こちらの住人にとってはただのご馳走でしかない。

「こっちからの生還例がないからと、罪人を放り込む場合もあるらしい。今回は数が多いからな、このパターンだろ。まるでどこかの誰かさん達と同じような行動だとは思わないか?」

「…お前なぁ…」

 血が疼くタオは、すでに魔族の性を見せ始めている。わざとらしくチクチクといたぶる声音は、普段のからかいとはまた違ったダークな印象を与える。くっくっ…、と笑う今のタオは普段の不良ではなく、残酷な魔族そのものだ。

 リオンはため息をついた。

「どうでもいいけどさ、俺はもう部屋に戻るから――…って、聞いているか?」

 リオンの声などは聞こえていないかのように、タオは腕組みをして夜空を見上げている。何度か声を掛けると、ようやく、なんだ、と素っ気ない返事が返ってきた。

「…本当に、大丈夫か?」

「ん…? ああ」

「…。そうには見えない」

「単に、あの連中を何秒で全滅させられるかを計算していただけだ」

 空をうねる無数の悪魔達を眺めながら淡々と言うタオ。…今のタオならやりかねない。

 リオンがため息をつく中、タオはその二対の翼をゆったりと広げた。見ると、すでに見る者全てを凍り付かせる威圧感を放っている。

「結局は行くのか?」

 バサリと羽ばたいて浮かんだタオを怪訝に見ると、タオは不敵な笑みを返して否を告げる。

「人間狩りにも雑魚の一掃にも興味はない。最近調子に乗っている北東の魔族をしばき倒してくる」

「…そーですか…」

 ため息混じりのリオンの返事など待たずに、漆黒の魔族は軽やかにサッと空高く舞っていった。

 タオに気が付いた集団が、彼を迂回しようと大きく蠢く。その様はまるで、イワシの大群がサメの襲撃を回避しているかのようだ。

 そんな事を思いつつ、リオンは頭を掻きながら館の中へと戻っていった。



 転んで付いた泥を落とすためと、すっかり冷え切った体を温めるために、自室ではなく浴室へと向かう。

 この風呂もリオンが来た十年前にはなかったのだが、不便だからとラピちゃん達とこしらえた。それまでタオはどうしていたかというと、森の川で水浴びをしたり、空の散歩がてらに山中の秘湯に行ったりとしていたらしい。最近では毎日の入浴が日課となったようだが…、魔族は毎日風呂に入らなくても平気でいられるのか、とカルチャーショックを受けたものだ。

「ま…、タオだしな」

 湯船の縁に顎をのせ、リオンは難解な友を思い苦笑する。

 中途半端な綺麗好きである上に、寝癖付きの姿でさえ画になってしまう彼の事だ。たとえ纏う物がボロであっても、見事に収まってしまうに違いない。あの独特の雰囲気と存在感は卑怯だと思う。

「アイツにもそういうのがもう少しあればなぁ…」

 ぼんやりと呟いて――…自分の呟きに気が付いて、リオンは表情を強張らせる。頭を振り、乳白色の湯をすくって顔を乱暴に洗う。

 ――…俺は未だにアイツを気に掛けているのか…。

 心の痛みに堅く目を閉ざした。


 ――シロン。

 今頃どうしているのだろう…。


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