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序章

 イシュヴァから堕ちた者がいる。風の便りでそう聞いた。

 イシュヴァとバハールドートは近くて遠い。古の時代に関係を断ち切った世界。自分は数万年という長く短い年月を無為に過ごしてきたが、それでもただの一度もイシュヴァの民を見た事がなければ、正確な記録や証言を見聞きした事もない。

 どのような者がこの地へ来たのか――、強く興味を惹かれた。

 居場所はすぐにわかった。騒乱と血と死の匂いがそれを教えてくれた。



 一体どれだけの数を蹴散らしただろう…。岩肌に背を預け、自分の周囲に転がる異形の死体をぼんやりと眺める。

 肢体が裂け、内臓をぶちまけ、周囲に血と死臭を撒き散らすそれらを作り上げたのは――…この自分だ。

 ため息が出る。

 物珍しい物があれば見たい触りたい欲しいと思うのは、幼子のそれと同じ衝動。純粋に己の欲と願望を叶えようとするのがバハールドートの民。

 ――そう聞いてはいたが、これらのおかげで実際によくわかった。確かにそのとおりだ。これは子供の欲求だ。


 ――…羨ましいものだ。


「何が、羨ましいと?」

 自分の中で呟いた言葉を問われ、またか、とうんざりした気持ちになった。興味を惹かれた魔族がまた来たようだ。

 だが…、その声を聞いただけで、今までの魔族とは格が違う、と本能的に悟った。

 空から一瞬で降り立ったその男は、まるで闇を具現化させたかのような存在だった。どこまでも美しい漆黒の長髪と羽根。

「君らは己の心に素直に行動する。何の躊躇いもなく。…それが羨ましいと思っただけだ」

「貴様はそうではないと?」

「あいにく、そういう行動は恥だという思想を植え付けられているんでね」

 ほぉ…、と闇の男が目を細める。

「貴様もそう思うか?」

 さぁ…、と目を伏せ、自嘲する。

「どうだろうな…。君らを羨ましく思う時点で、そうではないのかも」

「ほぉ…、面白い奴よの」

 すぐ前で身をかがめた男が、す…っと長い指で自分の顎をとらえ、顔を上げさせた。そこで初めて男の顔をまともに見た。…驚いた。

 先程も感じてはいたが、この魔族は他の魔族とは明らかに何かが違う。…これは一体なんだ? この魔族が持つ圧倒的な美と存在感と、そしてこの覇気はなんだ…?

 漆黒の髪、長い睫、整った目鼻、真紅の唇、褐色の肌――何もかもが完璧だった。美しい者は、相手の性別年齢など関係なく魅了し虜にしてしまうのではと、普通ならば思える。しかしこの男のそれは、格が違う。対峙した相手は畏怖を覚え、遠ざかることだろう。そして、この目…。

 ――…冷たい目だった。まるで何も感情がないかのよう…。漆黒の瞳にはただ静かに冷たい光が宿っている。

 相手を遠ざけ、自身を孤立させる冷酷な光を…。



 男は純粋に驚きを感じた。魔力を使い果たし、傷つき、力なくぐったりと岩肌に背を預けるだけでしかないこの者は、この自分の目をまっすぐと見据えてきたのだ。

 こんなにまっすぐと自分の目を見られる者など、これまでに出会った記憶がない。

 面白い…。

 目を細め、睨むようにして《力》を送った。



 男の鋭い視線が自分を貫いた瞬間、まるで刃が突き刺さったかような鋭痛を全身に感じた。苦痛の声が漏れ、顔を歪める。

 指先で額に触れた男が、ほぉ…、と感慨深げでありながら無感情な声音で呟く。

「呪を受けておるのか。哀れな」

 とても意外な言葉を聞いた気がして、ふ…っと笑う。

「この世界にも哀れみという言葉が存在するのか」

「哀れむ事が可笑しいか?」

「可笑しいね」

 なら、と。挑発に似た笑みで男を見据えた。

「哀れむなら、助けてくれないか? この呪いから」

「それは…どうであろうな」

「何故?」



 なるほど。ここで、何故、と問うか。

 男は少し声を出して笑った。

「哀れむ事と、助力する事は、別物だとは思わぬか?」

 すると、この者はとても意外そうな表情を浮かべた。そして数回瞬いた後に、なるほど、と呟く。

「そういう考え方をするのか」

「可笑しいか?」

 …いや、と。この者は小さく自嘲した。

「まぁ…、わからなくもない気がする」



 目には見えぬ呪いの刻印を刻まれた額が痛む。長い沈黙と共にこの痛みが訪れたのだから、どうやらこの男がこの呪印に何やらしているらしい。

 疲れ果てた自分には抵抗する力もなく――そもそも抵抗という行為を思い浮かぶまでの余力もなく、ただされるがままにじっとしていた。

 しばらくした後、痛みが嘘のように消えた。男が呪いへの干渉をやめたのだろう。目を細めて考える素振りを見せる。

「頑固だな。今の私には解けぬ」

「…だろうな」

 ほぉ、と男が眉をはね上げた。

「わかっていながら、助けろ、と?」

「俺が一番よくわかっている。これは解けないと。…愚か者の戯れ言だ。気分を害したのなら、謝る」

「面白いな、貴様」

 無意識に伏していた顔が、再び男の指によって無理矢理持ち上げられる。

 目を開くと、まるで楽しい玩具を見つけた子供のような表情。このような顔をしながら、その瞳には冷たい光だけが宿っている。この男は何故こんな目をしているのだろう…?

 荒野の風が男の背の翼の羽を揺らす。それに自然と目が行き…、初めて気が付いた。

「あ…、二対…」

 二対の漆黒…四の翼…。

 ――…この男はイシュヴァにおける大天使に匹敵する強大な魔族。そう悟り…、笑った。何が可笑しいのかはわからない。この危機的状況で笑える自分も可笑しいが。

 男が眉をひそめる。

「何が可笑しい」

「さぁ…、自分の不幸が可笑しいのかも。どうやら俺は、かなり厄介な相手に目をつけられたようだからな…」

 この世界ではイシュヴァにいた頃と同じように力を振るう事ができない。いや、それ以前に――…永遠に続くかのように湧き出た魔物や魔族を蹴散らした時点で、すでに力は使い果たしていた。



「俺はもう動けやしない。…煮るなり焼くなり好きにするといいさ」

 絶望を前にした自棄の言葉――。そうとも聞こえるが、実態は違う、と男は思う。

 この者の目には絶望はおろか怯えの色さえ映っていない。絶望を前にしても怯えぬのがこの者の誇りなのか、そもそもイシュヴァの民には絶望という感情がないのか。

 確かめたい。

 そう思い、躊躇いなく右手で首を鷲掴みした。

「…く……ぅ…あぁ…っ」

 首の骨が軋むほどに締め上げると、苦悶の表情で呻く相手。鷲掴みの手を両手で引き剥がそうとしているが、力のない体での抵抗は無意味でしかない。

「どうした? 好きにしろと言いながら、実際はもがくのか?」

 当然の抵抗に対し残酷に言い放ち、楽しげに口元を歪め、囁く。

「ほれ、助けを請うてみよ。跪き、命乞いをしてみせよ。我が前で無様な姿をさらすがいい。されば、助けやろうぞ? ほれ、どうした」

 キ…ッ、と鋭い睨みが飛んできた。殺気すら混ざった力強い目。

 ――…この状況においても、余に対しこのような目を向けるか…。

 グ…ッと背後の岩場に頭を押し付け、更に強く締め付ける。身動きもとれぬほどに、強く。

 そして今度は優しく囁く。まるで、幼子をあやすかのように…。

「たとえ死ねぬ体でも、苦しいのは苦しいであろう? 苦しいのは嫌であろう? 辛いのは嫌であろう? 可哀想にのぉ…。

 ただ一度、助けを請えば良い。泣いてすがりつけば良い。たったそれだけでこの苦しみから逃れられる。

 …さぁ、いい子だ。助けて欲しいのであろう? んん?」

 苦しみから堅く閉じられた目。力なくもがく手は、締める手をただ撫でるのみ。それでいて…、この者はこう言い放ったのだ。

 息もできず、声も出ない。だが、何を言ったのかは唇の動きでわかった。


『だれが そんなまねをするか』


 ――…驚きを通り越し、新鮮な気分になった。

 ここまできてまだ気持ちが折れぬというのか。相手は不死の呪いを受けた身、もう少々凝った趣向をしてもいいだろう。いっそのこと、このまま首をへし折ってしまおうか。気を失う事も許さずに腹を裂き、臓物を引きずり出してくれようか。醒めた意識のまま頭蓋骨を砕き、脳を掻き出すのもいい。心臓を抉り、鼓動するそれを自身の口にくわえさせるのも楽しそうだ。

 そこまですれば、さすがにこの者も助けを請うだろう。情けない声を出し、すがりついてくるだろう。ふむ…、愉快極まりない。是が非でも見てみたいものよ…。

 そこまで考え…、ふと、思った。

 ――…何を、熱くなっておるのだ?

 この余が。

 ――…この余が、まさか、躍起になっておるのか…?

 そう気が付き…、自然と笑いが込み上げてきた。

 そして、生まれ初めて腹の底から声を上げて笑った。

 何という事であろう…! 何という、滑稽な…!

 ひとしきり笑い――…ふと右手を見ると、首を締めていた者はぐったりと頭を垂れていた。死んだようにも見えるが…、所詮死ねぬ身だ、失神したのだろう。まぁ無理もない事か。

 笑いの余韻に浸りながらその体を地へと無造作に投げ捨て――…それに気が付く。

 地面に転がったその者の背には、薄汚れてボロボロになった白い翼があった。白の翼は天使と称されるイシュヴァの民の証だ、今更驚く事ではない。

 だが…、男は驚愕に目を見開く。

「な――…二対、だと…?」

 純白の二対。四の翼。



 ――…意識が戻ると、肺が新鮮な空気を求めて暴れ、咳き込むように呼吸をした。視界はぼやけ、光の羽虫が舞っている。時間を掛けて呼吸を整えていく…。

 落ち着きを取り戻して目を開けると、すでに周囲は夜の闇に支配されていた。気絶して、どれほどの時間が経ったのだろう…。

 痛みと倦怠感に支配された体をゆっくり起こすと、すぐ近くにあの魔族の男がいた。あぐらに頬杖をつき、空を眺めている。

 ――…空…か…。

 見上げると…、そこにはとても澄んだ夜空が広がっていた。雲は晴れ、星々が瞬き、二つの月が静かに光を放っている。

 空を見上げる余裕なんて…、この世界に来てから一度もなかった…。

「綺麗だな…」

 無意識の呟きに、ああ、と応えが返ってきた。視線を向けると、男は変わらず夜空を眺めている。

「…もう勘弁してくれるのか? と言っても、首を絞められるのはもう御免だが」

 ふ…っ、と男の口元が和んだ。

「気が変わったのでな。貴様を嬲るのは、やめだ」

「猫のように気紛れだな…」

「それが、魔族だ。――…大天使殿」

 付け足された言葉に一瞬きょとんとしたが、可笑しくなって笑ってしまった。

「うわ、やめてくれ。鳥肌が立ったぞ」

「イシュヴァから追放された分際でよく言う」

「そう思うなら、なおさらやめてくれ」

 不自由な体を何とか動かして男の隣に座ると、一瞬ちらりと視線を向けられる。

 夜の風がその背の翼を揺らす。圧倒的な存在感…、二対の漆黒を持つ男…。

「君は――…この世界の上に位置する者なのか?」

 緊張の声音で問うと男は、フ…ッ、と吐息のような笑いを漏らす。

「だとしたら? 私に取り入る術でも考えておるのか?」

「な…っ! 俺はそんなつもりで訊いたわけじゃ…」

 予想外の言葉に狼狽えていると、男がまた小さく笑った。何故かとても楽しそうだ。

「名は?」

「何故?」

「大天使と呼ばれるのは嫌なのだろう? ならば名で呼ぶしかあるまい」

 それはさっき首を絞めた相手に対して言う台詞か。――そう言い返そうとも思ったのだが、やめた。…名で相手を縛り使役する魔術もあるのだ、この魔族も自分をそうするつもりなのだろう…。

 どうにでもなれ、と思いつつ名乗った。

「リオンだ」

「そうか。私はタオ」

 あまりにもサラリと名乗られ…ぎょっとした。

「えっ? 名を教えてくれるのか?」

(あざな)だ。光栄に思え」

「いや…、リオンも(あざな)だけど…」

「なんだ、不満か」

「え、いや、だって、あ…あのなぁ――…」

 俺にあんたの名を教えたら、俺に名の呪縛が出来なくなるだろう――。そう言い掛けて、苦笑した。この魔族は自分を名の呪縛で支配するつもりなどないのだと、ようやく悟ったのだ。

 …全く、魔族が考える事はよくわからない。特にこの男は。

「…あんたの相手は疲れるな」

「そうか? 私は愉快極まりないわ。貴様の相手は、ほんに飽きぬ」

「…そーですか…」

 こんなたわいもないやりとりをしていたら…、それまで張り詰めていた緊張の糸が切れ、強烈な睡魔が襲ってきてしまった。

 座った体勢から崩れるように地へと寝転ぶと、冷やかな眼光を向けられる。

「ここで寝る気か?」

「俺…、こっちへ来てから一睡もしていないんだ…。もう限界…。寝たい…」

「ついてくるか?」

 睡魔に侵食された思考では、突然の言葉を理解するのは難しかった。

 ぼやけた目でタオを見上げるが、月光の影にあるその表情はよくわからない。

「え…、なんだって…?」

「聞こえなんだか? 私のねぐらに来る気はあるか、と訊いたのだが」

「…え…?」

「それともこのままここで眠りこけるか? 貴様が惰眠を貪る間に、そこらの小鬼の餌か玩具になるであろうが。貴様自身がそれで構わぬのなら、私は帰る」

 言うなり身軽に立ち上がったタオを、待て、と掠れた声で呼びとめる。

「た…助けてくれるのか…?」

「助けて欲しいか?」

「…頼む。助けてくれ」

 地に沈んだ天使のすがる声に、魔族の男は鋭く目を細める。

「ほぉ? 先ほどは命乞いしなかった者が、助けてくれ、だと?」

「も…無理…。頼む…。助けて、タオ…」

 瞼が勝手に閉じていく。沈む感覚で必死に手を伸ばす。


 ――…睡魔に飲み込まれる瞬間、その意外にも温かく力強い手が自分の腕を掴んだのを、確かに感じた…。



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