『「お前のような女は婚約破棄だ」と薔薇気取りの王子が仰るので、目下に「ありがとう」が言える素敵な騎士様をお持ち帰りします』
「クラリス・フォン・ランベール公爵令嬢! 貴様との婚約を、本日この場をもって破棄する!」
王立学園の卒業記念舞踏会。
豪奢なシャンデリアの下、第二王子セドリック殿下の声が大広間に響き渡った。
金髪碧眼、彫刻のように整った顔立ち。仕立ての良い燕尾服に身を包んだその姿は、確かに物語の王子様そのものだった。
その腕には、薄桃色のドレスを着た男爵令嬢マリアが、潤んだ瞳でしがみついている。
周囲の貴族たちが息を呑んだ。
扇の陰から好奇の視線が注がれ、ざわめきが波のように広がっていく。
そんな中、名指しされた私、クラリス・フォン・ランベールは、静かに瞬きをした。
「……殿下。今、なんとおっしゃいました?」
「聞こえなかったのか! 婚約破棄だ! 貴様のような無愛想で色気のない女は、王太子妃に相応しくない! 私は真実の愛に目覚めたのだ!」
セドリック殿下は胸を張り、これ見よがしに顎を上げた。
ああ、本当に。
昔と少しも変わらない。
十四歳の頃の私なら、今の言葉に泣き崩れていたかもしれない。
あの頃の私は、華やかなものが大好きだった。
大輪の薔薇。気品ある百合。艶やかな牡丹。
誰もが振り返るような美しさこそ、何より価値のあるものだと信じていた。
だから、殿方を見る目も同じだった。
美しい顔立ち、高貴な身分、溢れる富。
そのすべてを備えたセドリック殿下は、幼い私にとって、まさに理想の王子様だったのである。
けれど、人の好みというものは変わるらしい。
二十歳を目前にした今、私が心惹かれるのは、庭の隅に咲く小さな野の花だった。
雨に濡れても、風に吹かれても、静かに根を張る草花。
日陰で育つ青紫蘇や、葉を揺らすたび爽やかな香りを放つミント。
そんな控えめな美しさに、いつしか心が安らぐようになっていた。
そして、人を見る目も変わった。
「……おい、クラリス! 黙り込んでどうした! 悲しくて声も出ないのか!」
セドリック殿下が勝ち誇ったように笑う。
私はその顔を見つめた。
確かに、美しい。
けれど、もう胸はときめかなかった。
代わりに、私の視線は自然と殿下の背後へ向かっていた。
壇上の隅に控える、一人の近衛騎士。
短く整えられた漆黒の髪。広い肩。日に焼けた肌。飾り気のない、実直そうな顔立ち。
近衛騎士団副隊長、レオンハルト・フォン・アシュフォード伯爵令息。
私がここ一年ほど、誰にも知られぬように目で追っていた方だった。
彼は、決して目立とうとしない。
けれど、誰も見ていないところで、誰よりも優しい。
冬の夜、廊下で寒さに震えていた下働きの老婆に、自分のショールをそっと掛けていた。
雨の日には、庭師に向かって「いつも花を美しく咲かせてくださって、ありがとうございます」と頭を下げていた。
騎士でありながら、相手の身分によって態度を変えない。
その姿を見かけるたび、私の胸は温かくなった。
そして、いつしか気づいてしまったのだ。
私は、あの方が好きなのだと。
もちろん、婚約者のいる身で、そんな気持ちを抱くことは許されない。
だからこそ、胸の奥にしまい込んできた。
けれど。
今、殿下は何とおっしゃっただろう。
婚約破棄。
そう、確かにおっしゃった。
「クラリス様ぁ……」
甘ったるい声が、私の思考を遮った。
マリア男爵令嬢が、セドリック殿下の腕にしがみついたまま、ぽろぽろと涙をこぼしている。
「ごめんなさい、クラリス様! 私、殿下を奪うつもりなんてなかったんです! でも、殿下がどうしても私でなければ駄目だとおっしゃるから……!」
「おお、マリア。なんと心優しいのだ!」
セドリック殿下は感極まったように彼女を抱き寄せた。
「見ろ、クラリス! この健気さを! 貴様にはない美徳だ!」
私は静かに扇を閉じた。
「殿下。一つだけ確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「ふん! 命乞いなら聞かんぞ!」
「いいえ。先ほどの婚約破棄のお申し出についてです」
私は姿勢を正した。
「殿下は、王家とランベール公爵家の間で結ばれた婚約を、正式に解消なさるおつもりなのですね?」
「当然だ!」
「国王陛下にも、ご相談済みでいらっしゃいますか?」
「父上には話してある! 好きにしろと言われたぞ!」
「……まあ」
思わず感嘆の息が漏れた。
国王陛下が、そのようなことをおっしゃるとは。
おそらく殿下の愚痴に疲れ果て、「好きにしろ。ただし責任は自分で取れ」とでも告げられたのだろう。
もっとも、今ここで私が国王陛下のお言葉を推測しても仕方がない。
正式な婚約解消には、王家と公爵家の手続きが必要だ。
けれど、殿下の意思は十分に確認できた。
「承知いたしました」
私はドレスの裾をつまみ、深々とカーテシーを披露した。
「婚約解消のお申し出、謹んでお受けいたします」
「……は?」
セドリック殿下の口が、ぽかんと開いた。
「う、受けるのか?」
「はい」
「泣かないのか?」
「なぜでしょう?」
「私を失うのだぞ! この私を!」
殿下は自分の胸を指差した。
「王位継承権を持つ、この国でも指折りの美男子だぞ!」
私は少し考えた。
「確かに、殿下のお顔立ちは大変お美しいと思います」
「そ、そうだろう!」
「ですが、美しいことと、一緒に暮らして幸せになれることは、別のお話ですわ」
「なっ……!」
「私は、ようやくその違いが分かる年齢になりましたの」
殿下の顔がみるみる赤くなっていく。
「貴様、私を愚弄するつもりか!」
「いいえ。ただ、昔の私は薔薇の華やかさばかりを見ておりました。けれど今は、花を育てる方の手にも目が向くようになったのです」
「何をわけの分からんことを!」
「殿下には、お分かりにならなくても結構ですわ」
私は微笑んだ。
「これからはマリア様と、どうぞお幸せに」
すると、マリアが嬉しそうに顔を輝かせた。
「ありがとうございます、クラリス様! 私、殿下を絶対に幸せにします!」
「それは何よりです」
私は頷いた。
「では、今後のお二人の生活についても、ご自身で責任をお持ちくださいませね」
「……え?」
マリアが瞬きをした。
「実は、ランベール公爵家から殿下個人へお渡ししている特別援助金がございます」
「と、特別援助金?」
「はい。殿下の馬車の維持費、衣装代、狩猟会の費用などに充てられているものです」
セドリック殿下の肩が、ぴくりと揺れた。
「そ、それがどうした!」
「婚約を前提とした私的な援助ですので、婚約解消が正式に成立した時点で終了いたします」
「なっ……!」
「また、殿下が王都の宝飾店でお買い求めになった品々のうち、我が家に請求書が送られてきているものについては、今後はお支払いできません」
「ま、待て! それでは困る!」
「なぜでしょう?」
「マリアへの贈り物が……!」
殿下は、はっと口を押さえた。
マリアの顔から笑みが消えた。
「殿下……? 私にくださった首飾りも、指輪も、全部ご自分のお金で買ったと……」
「そ、それは、その……」
「まさか、公爵家のお金だったのですか!?」
「違う! いや、少しだけ……!」
私は扇で口元を隠した。
「正確には、殿下個人への援助金からお支払いになったものです。婚約者としての私が、殿下のご活動を支えるために認めていた費用ですわ」
「そんな……!」
マリアが青ざめる。
「では、これから私のドレスや宝石は、誰が買ってくださるんですか!?」
私は首を傾げた。
「殿下では?」
「そ、そんな!」
マリアがセドリック殿下を見上げた。
「殿下、王子様なんでしょう!? お金持ちなんでしょう!?」
「も、もちろんだ! 私は王子だぞ!」
「でしたら、何も問題ございませんわね」
私がにっこり笑うと、殿下は苦しそうに唇を噛んだ。
「そ、それでも、王家には国庫がある!」
「国庫は国民のためのお金ですわ。殿下が恋人に宝石を贈るためのものではございません」
「ぐっ……!」
「なお、ランベール公爵家が王国へ供給している兵糧や資材については、国民の生活に関わりますので、今後も正式な契約に従って継続いたします」
私は静かに続けた。
「ただし、殿下個人の贅沢を公爵家が負担する理由は、もうございません」
「待て、クラリス!」
殿下の声が裏返った。
「そんな話は聞いていない!」
「婚約誓約書に付随する援助契約に、きちんと記載されておりますわ」
「そんな細かいもの、読んでいるわけがないだろう!」
会場が静まり返った。
私は思わず、目を瞬かせた。
「……殿下」
「何だ!」
「読んでいらっしゃらないことを、そんなに堂々とおっしゃらなくても」
どこかで、誰かが吹き出した。
殿下の顔が真っ赤になる。
「き、貴様ぁ!」
「ご安心くださいませ。正式な手続きは、両家の当主と王宮の担当官を通して進めます。殿下が今夜のうちに書類を探し回る必要はございません」
「安心できるか!」
私は小さく息を吐いた。
昔の私なら、殿下が怒るたびに胸を痛め、機嫌を直していただこうと必死になっていた。
けれど今は、何も感じない。
むしろ、不思議なほど心が軽かった。
長い間、重たい宝石を首から下げていたことに、外して初めて気づいたような気分だった。
「それでは、私はこれで失礼いたします」
踵を返した、そのときだった。
「待て!」
セドリック殿下が壇上から駆け下りようとした。
ところが、慌てた拍子に自分の足をもつれさせたのである。
「うわっ!」
殿下の身体が、給仕の少年が押していたワゴンにぶつかった。
ワゴンには、飲み物を注いだクリスタルグラスがいくつも並んでいた。
ガシャン!
激しい音とともに、グラスが宙を舞った。
「危ない!」
誰かが叫ぶ。
きらきらと光る破片が、私の方へ飛んできた。
避けなければ。
そう思った瞬間、身体が動かなかった。
次の瞬間。
強い腕が、私の肩を抱き寄せた。
「クラリス様!」
視界がぐるりと回る。
私は、広く温かな胸に包まれていた。
硬い制服の布地。清潔な石鹸の香り。
そして、耳元に落ちてきた低い声。
「お怪我はありませんか」
顔を上げる。
そこには、レオンハルト様がいた。
「レオンハルト様……!」
彼は私を庇うように立ち、割れたグラスから守ってくださっていた。
その手袋の甲には、小さな裂け目があった。
「お手が……!」
「大丈夫です。少しかすっただけですから」
「ですが!」
「それより、あなたに怪我がなくてよかった」
そう言って、彼はほっとしたように微笑んだ。
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
ああ。
この笑顔が好きだ。
誰かを安心させようとするとき、少しだけ眉尻が下がるところも。
自分の怪我より、他人の無事を先に確かめるところも。
何もかもが、愛おしかった。
けれど、レオンハルト様はすぐに私から一歩離れた。
そして、ワゴンのそばで震えている給仕の少年へ向き直った。
「君は大丈夫ですか?」
「も、申し訳ございません! 私がもっと気をつけていれば……!」
「いいえ。殿下が急にぶつかられたのです。君の責任ではありません」
レオンハルト様は落ち着いた声で言った。
「怪我はありませんか? 破片には触らず、まず周囲の方を離してください。片付けは道具を用意してからにしましょう」
「は、はい!」
「いつも舞踏会の準備をありがとうございます。今日も大変だったでしょう」
少年の目が、大きく見開かれた。
「……騎士様」
「君たちが働いてくれるから、皆が安心して楽しめるのです。助かっていますよ」
少年は、泣きそうな顔で深々と頭を下げた。
私は、その光景を見つめていた。
大広間には、きらびやかな宝石を身につけた貴族が大勢いる。
けれど、誰よりも美しく見えたのは、給仕の少年に目線を合わせて話す、この人だった。
目下の者に礼を言うことを、恥ずかしいと思わない。
誰かを守ることを、特別な功績だとも思わない。
その誠実さが、当たり前のように身についている。
私は、そんなレオンハルト様が好きだった。
ずっと、ずっと前から。
「レオンハルト様」
私が声をかけると、彼は振り返った。
「はい、クラリス様。まだどこか痛みますか?」
「いいえ。おかげさまで、どこも」
「それはよかった」
彼は安堵したように微笑んだ。
私は、その笑顔を見つめながら、胸の前で両手を握りしめた。
今なら、言えるだろうか。
もう、婚約者への義理に縛られる必要はないのだから。
「……レオンハルト様。私、以前からお伝えしたいことがございましたの」
「私に、ですか?」
「はい」
心臓が、うるさいほど鳴っている。
先ほどまで、王子殿下に婚約破棄を告げられても平然としていたのに。
この方の前では、どうしてこんなに緊張するのだろう。
「私、ずっと見ておりましたの」
「……え?」
「あなたが、寒そうにしていた下働きの方にショールを掛けて差し上げたことも。雨の日に、庭師にお礼をおっしゃっていたことも」
レオンハルト様が、驚いたように目を見開いた。
「そんなことまで……」
「はい。誰も見ていないところで、あなたがどれほど優しい方なのか、私は存じております」
私は微笑んだ。
「昔の私は、華やかな薔薇ばかりを好んでおりました。美しく咲き誇るものこそ、一番素敵だと思っていたのです」
ちらりと壇上へ目を向ける。
セドリック殿下は、マリアと何やら言い争っていた。
その姿を見ても、もう胸は痛まない。
「けれど今は、雨風に耐え、誰かを守るように枝を広げる大樹の美しさが分かるようになりました」
私はレオンハルト様に向き直った。
「あなたのような方が、何より素敵だと思うのです」
レオンハルト様の頬が、ゆっくり赤く染まった。
「クラリス様……」
「それで、あの……」
私は一度、深呼吸した。
「私、たった今、婚約解消のお申し出を受けましたの。正式な手続きはこれからですが、もう殿下との結婚を望んではおりません」
「……はい」
「ですから、その……手続きが済みましたら」
どうしよう。
声が震える。
こんなこと、社交界の作法書には載っていなかった。
けれど、今ここで言わなければ、きっと後悔する。
「我が家の庭で、青紫蘇やミントを愛でるお茶会に、お付き合いいただけませんでしょうか?」
言ってしまった。
私は思わず俯いた。
すると、少しの沈黙のあと、頭上から柔らかな声が降ってきた。
「……実は、私も」
顔を上げる。
レオンハルト様は、困ったように微笑んでいた。
「以前から、クラリス様をお見かけするたび、素敵な方だと思っておりました」
「……え?」
「学園の庭師たちの名前を、一人ずつ覚えていらっしゃるでしょう」
今度は私が驚く番だった。
「そんなことまで、ご存じでしたの?」
「はい。以前、年老いた庭師が足を痛めたとき、あなたが人目につかないように椅子を用意していらっしゃいましたね」
ああ。
そんなこともあった。
庭仕事の途中で足を痛めた老人が、周囲に迷惑をかけまいと無理をしていたので、少し休んでいただいただけのことだ。
「それに、花壇の端に咲く小さな花を、踏まないように歩いていらっしゃる」
「……まあ」
「私は、そんなあなたを、いつも美しいと思っておりました」
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
見ていたのは、私だけではなかったのだ。
私が彼の優しさを見つけていたように。
彼もまた、私の小さな行いを見つけてくださっていた。
「レオンハルト様……」
「ただ、あなたには婚約者がいらっしゃいましたから」
彼は少しだけ視線を伏せた。
「この気持ちは、胸の内にしまっておくつもりでした」
「私も、ですわ」
思わず答えると、彼が目を丸くした。
「……あなたも?」
「はい。婚約者のいる身で、ほかの方を好きになるなど、許されないと思っておりました」
頬が熱い。
けれど、今度は目を逸らさなかった。
「ですから、殿下から婚約破棄を告げられたとき……悲しいより先に、ほっとしてしまったのです」
レオンハルト様はしばらく黙っていた。
やがて、ふっと笑った。
「それを聞いて、私も少し安心してしまいました」
「まあ」
「不謹慎でしょうか」
「でしたら、私たちはお揃いですわね」
二人で顔を見合わせた。
そして、同時に笑ってしまった。
そのときだった。
「おい、クラリス!」
背後から、聞き慣れた声が響いた。
セドリック殿下だった。
「貴様! 私の目の前で、ほかの男と何をしている!」
私は振り返った。
「お話をしておりますが」
「見れば分かる!」
「でしたら、なぜお尋ねになるのです?」
近くにいた貴族の令嬢が、扇の陰で吹き出した。
「貴様は、つい先ほどまで私の婚約者だったのだぞ!」
「はい。そして殿下は、つい先ほど、その婚約を破棄すると宣言なさいました」
「そ、それはそうだが!」
「殿下はマリア様と真実の愛を貫かれるのでしょう?」
「もちろんだ!」
「でしたら、私がどなたとお話ししていても、問題ございませんわね」
「ぐっ……!」
殿下は言葉に詰まった。
その横から、マリアが腕を引っ張る。
「殿下! そんなことより、私への贈り物はどうなるんですか!」
「今それどころではない!」
「だって、約束したじゃないですか! 毎月新しいドレスを買ってくださるって!」
「分かっている! 少し黙っていろ!」
「ひどい! さっきまで私が一番大切だって言ってくださったのに!」
再び始まった二人の言い争いを、私は静かに眺めた。
かつては、あの輪の中に私もいた。
殿下の機嫌を取り、怒りを鎮め、誰かに迷惑がかからないように頭を下げる。
それが、未来の王子妃としての務めだと思っていた。
けれど、もう違う。
私には、私の人生がある。
「レオンハルト様」
私は彼に向き直った。
「先ほどのお茶会のお返事を、まだ伺っておりませんでしたわ」
彼は少し驚いたあと、柔らかく微笑んだ。
「もちろん、喜んで」
「本当ですか?」
「はい。青紫蘇もミントも、私は好きですよ」
「まあ!」
「ただ、一つお願いがございます」
「何でしょう?」
レオンハルト様は、少し照れたように笑った。
「お茶会では、庭の花を一緒に見せていただけませんか。あなたが大切になさっているものを、私も知りたいのです」
私は胸がいっぱいになった。
美しい宝石を贈ると約束されたときよりも。
豪華な舞踏会へ連れていくと言われたときよりも。
ずっと、ずっと嬉しかった。
「……はい。もちろんですわ」
私は笑った。
「庭の隅に、小さな薄紫の花が咲いておりますの。とても控えめで、見落としてしまいそうな花なのですけれど」
「ぜひ、見せてください」
「それから、ミントの香りがとても爽やかで……」
「楽しみです」
私たちは、そんな何気ない話をしながら、大広間の出口へ向かった。
背後では、セドリック殿下がまだ何か叫んでいる。
「待て、クラリス! 公爵家の援助がなくなったら困るんだ!」
私は足を止めた。
ほんの一瞬だけ、昔の癖が顔を出す。
困っているのなら、助けなければ。
殿下が怒っているのなら、なだめなければ。
そう思いかけた、そのとき。
「クラリス様」
隣から、穏やかな声がした。
「外は少し冷えるようです。よろしければ、私の上着をお使いください」
レオンハルト様が、そっと上着を差し出してくださった。
私はそれを受け取り、肩に掛けた。
温かかった。
誰かの機嫌を取るためではなく。
誰かに認めてもらうためでもなく。
ただ、私が寒くないようにと差し出された優しさ。
それだけで、十分だった。
「ありがとうございます、レオンハルト様」
「どういたしまして」
私はもう、振り返らなかった。
大広間の扉を抜けると、春の夜風が頬を撫でた。
庭園には、月明かりに照らされた花々が静かに揺れている。
華やかな薔薇も、気品ある百合も、美しい。
けれど、今の私には、それだけが花の美しさではないと分かっている。
雨に耐えて咲く小さな花も。
人知れず香る草木も。
誰かを守るように枝を広げる大樹も。
みんな、それぞれに美しい。
「クラリス様」
レオンハルト様が、私の隣で微笑んだ。
「お茶会の日を、楽しみにしております」
「私もですわ」
私は心から笑った。
若い頃の私は、誰よりも華やかな薔薇を手に入れたいと思っていた。
けれど今、ようやく分かったのだ。
私が本当に欲しかったのは、誰かに見せびらかすための美しい花ではない。
雨の日にも、風の日にも、隣に立ってくれる人だったのだと。
春の夜空に、星が瞬いていた。
私の新しい恋は、きっと、ここから始まる。
おしまい。




