愛の鎖と精霊の涙
砕け散った黒い水晶から溢れ出したドロドロの霧が、楽園の空気を汚していく。
その霧を吸い込んだルナリアの瞳から光が消え、底知れぬ「闇」が渦を巻き始めた。
「……ああ、聞こえます。精霊たちが、私の本当の望みを叫んでいますわ。……アリシア様、邪魔なものは、全部消してしまいましょう?」
ルナリアが虚空に手をかざすと、清らかだった精霊たちが、どす黒い魔力を帯びた「魔霊」へと変質し、狂ったように荒れ狂う。
「ルナリア殿、正気に戻るでござる! その霧は偽聖女の罠でござるよ!」
シノブが叫び、自慢の胸を抑えながらクナイを構える。けれど、ルナリアの放つ突風がシノブを容赦なく吹き飛ばした。
「……黙れ、羽虫。アリシア様に触れていいのは、私だけ……!」
「くっ、生意気なエルフですわね! わたくしの魔術で、その頭を冷やしてあげますわ!」
フェリシアがスレンダーな指先で氷の槍を形成するが、ルナリアの周りに展開された精霊の障壁に虚しく弾かれる。呪いによって増幅された彼女の魔力は、もはや一人で太刀打ちできるレベルを超えていた。
「二人とも、やめて! ……ルナリア、私を見て!」
私は、吹き荒れる魔力の嵐の中を、一歩ずつルナリアへと歩み寄った。
肌を焼くような不吉な風。けれど、私の『植物鑑賞(神の権能)』が、彼女の魔力の奥底で震えている「泣き声」を聴き取っていた。
◆ ◆ ◆
「……こないで。近寄ったら、アリシア様を……殺して、私の中に閉じ込めてしまう……っ!」
ルナリアが頭を抱えて叫ぶ。
私は構わず、彼女のしなやかな、けれど今は硬く強張った身体を正面から抱きしめた。
「いいよ。閉じ込めたければ、そうすればいい。……でも、君を一人にはさせない」
「っ……ああ、あああぁぁぁ!!」
私は、ルナリアの胸元に手を当て、以前彼女に教わった『精神同調』を強引に起動させた。
――瞬間。
私の意識は、暗く、冷たいルナリアの深層心理へと引きずり込まれた。
そこは、光の届かない深い森の底。
幼いルナリアが、鉄の枷で繋がれ、無数の魔法陣に囲まれていた。
『精霊を呼べ。もっとだ。お前の身体を、精霊の兵器を貯める「器」にしろ』
王国の大人たちが、彼女に冷酷な言葉を浴びせる。
彼女は人間としての心を削られ、ただ精霊の力を流し込むだけの「導管」として扱われていた。
――誰も、私を見てくれない。
――私は、便利な道具でしかない。
その絶望の隙間に、ミーナの呪いが入り込み、囁くのだ。
『アリシアも同じよ。あの子も、あなたの力が必要なだけ。……捨てられる前に、檻に入れてしまいなさい』
「違う……! 違うよ、ルナリア!」
私は意識の闇の中で、泣きじゃくる幼い彼女の手を強く握った。
「私は、君の力が欲しいんじゃない。……君が、君と一緒に笑ってくれる時間が欲しいだけなんだよ!」
◆ ◆ ◆
「……はぁっ、あ、ああぁっ……っ!」
現実の世界で、ルナリアが大きくのけ反り、私にしがみついてきた。
同調によって、私の「心」が、彼女のトラウマを、呪いを、強引に上書きしていく。
彼女の感じる痛み、寂しさ、そして私への狂おしいほどの愛が、熱い奔流となって私の全身を駆け抜ける。
「ルナリア……、全部、私に預けて……っ!」
私は、彼女の首筋に顔を埋めた。
吸血鬼の儀式とは違う。けれど、肌と肌が密着し、鼓動が一つに重なるこの瞬間、私たちの魂は完全に混ざり合っていた。
彼女の柔らかな長身の身体が、私の腕の中で淫らに、激しく震える。
精霊たちが歓喜の歌を歌い、黒い霧を黄金の光が塗り替えていく。
「ん、ぁ……っ! アリシア様……あたたかい……。闇が、溶けて……っ!」
ルナリアの目から、大粒の涙が溢れ出した。
それは呪いの残滓ではなく、彼女が何十年も堪えてきた、孤独の涙だった。
私たちは、光り輝く精霊の乱舞の中で、互いの存在を確かめ合うように強く、強く抱きしめ合った。
◆ ◆ ◆
「……ふぅ。……お騒がせ、しましたわ……」
霧が晴れた楽園に、静寂が戻る。
ルナリアは、私の膝の上で、子供のように丸くなって眠っていた。
その表情は、今までにないほど穏やかで、満たされている。
「……全く、心臓に悪いでござるよ。でも、ルナリア殿のあの顔……拙者、ちょっとだけ、いいなと思ってしまったでござる」
シノブが、砂埃を払いながら苦笑いする。
フェリシアも、そっぽを向きながら「……ふん。今回だけは、あんたの根性に免じて許してあげますわ」と、氷の槍を消した。
全員が、少しずつ傷つきながらも、確かな絆を確認した瞬間だった。
けれど、私は見逃さなかった。
ルナリアの呪いが解けた瞬間、遠くの空へ向かって、小さな黒い鳥が飛び去っていったのを。
「……ミーナ」
彼女は、私たちの様子をすべて見ていたはずだ。
そして、この「呪い」さえも、彼女にとってはただのテストに過ぎなかったのかもしれない。
その頃、王国の聖堂。
使い魔からの報告を受けたミーナは、真っ暗な聖壇の前で、くつくつと肩を揺らして笑っていた。
「……素晴らしいわ、アリシア。呪いを『愛』で上書きするなんて。……でも、その愛が深まれば深まるほど、失った時の絶望は大きくなるのよ?」
彼女は、手元の黒い水晶を口づけするように持ち上げ、不気味な瞳を輝かせた。
「さあ、次は誰を壊してあげようかしら……」




