2 ポタジェの冬 狩りとワイン
フォーゲル公爵領であるポタジェ地方は、薄く積もった雪に覆われていた。
降雪量はさほど多くないが、それでも冬景色は白に包まれる。瘦せた土地は収穫量も低く、トウモロコシとジャガイモくらいしか満足に育たない。それさえも、頻繁に出現する害獣や魔物のせいで、村人の生活は困窮していた。
アリスヴェルチェ・フォーゲル公爵令嬢が、弟アーネストと共に、初めてその土地を訪れたのは、今から3年ほど前だった。
両親を亡くし追われるように王都を出たアリスヴェルチェは、毛布で包まれた病弱の弟を抱きしめながら、簡素な馬車でポタジェ村に着いた。
村人は皆痩せこけ、虚ろな目を向けるばかり。村の家々も、今にも崩れ落ちそうなあばら家ばかりだ。
アリスヴェルチェは、ただ唇を噛み締めて弟を抱く腕に力を籠めるだけだった。
けれど彼女は、現状を嘆いて泣き暮らす少女では無かった。
弱冠15歳の身で、必死に考え、出来ることに全力で立ち向かう。
前領主が住んでいた館は、公爵家の人間が暮らすにはあまりにもお粗末な物だったが、多少の家具や調度品もある。アリスヴェルチェは、それらの家具や何とか持ち出せた自分のドレスや宝石を売ってお金を作る。たった1人で王都と領地を往復し、ある程度まとまった金額を得ると、それを使って村人を何人か雇った。
何度か王都を訪れる間に、以前からフォーゲル公爵家に仕えていた者たちが、ポタジェに来てくれるようになる。アリスヴェルチェが産まれる前から働いていた下働きの中年夫婦、ハーピン・ブリックスとミリッサ、そして退役騎士のドレフォン・ステートの3人だ。
最初の年は、彼らへの給金と食費だけで貯えは無くなったが、その間アリスヴェルチェはひたすら狩りをした。畑を荒らすオオネズミやノウサギ、ウズラやノバトやカラス。最初は1日で1匹狩れれば良いほうだったが、半年もたてば腕も上がる。
愛馬グラーネに跨って毎日狩りをする15歳の少女は、魔法の独学も続けながら、やがて魔物退治も出来るほどの狩人になっていた。
そして今、片足を失いながらも女騎士として叙勲されたアリスヴェルチェは、村人から暖かく迎え入れられる。相変わらず質素で貧し気な村人だが、粗末な家々から出て来る姿は、少なくとも飢えている人間のそれでは無い。
アリスヴェルチェも、穏やかに挨拶を返しながら、館で待つアーネストの元へ急いだ。
数日後、いつものように狩りを終わらせたアリスヴェルチェは、獲物を括りつけた愛馬グラーネに跨って狩り小屋に戻って来た。すると粗末な掘立小屋の前に、背の高い男の姿がある。彼はアリスヴェルチェに気付くと、片手を上げて振って見せた。
「ジーク、来てたの」
グラーネを少し急がせて駆けて来たアリスヴェルチェは、ひらりと馬から降りた。
義足であることを感じさせない身のこなしは自然で、彼女がもうすっかりそれに慣れていることを思わせる。
「ああ、昼過ぎに着いた。アーネストには挨拶を済ませたよ。アリスは狩りに行ってると聞いたから、ここで待ってた」
「冬なのに、何で来たの?」
「冬だからこそ、研究できる対象はいくらでもあるのさ」
ジークは『戦う力』を持たない。魔力に関しては寧ろ『癒す力』の方で、それゆえ検定を通れず専門教育を受けていない。
王弟という身分なので生活に不自由は無いが、彼は自分の生きる道を模索し、その結果、学者として生きることを選んだ。現在は王国の学会にも入り、市井の学者たちとも交流をしながら著書を出していたりもする。
専門は動植物の生態研究で、その範囲は魔物にまで及んでいる。農作物や家畜、その害獣に至るまで系統的に調べ上げた書物は、大いに役立っていた。
狩り小屋の前で和やかに話す2人の元へ、森の方角から馬に乗った初老の男が駆けて来た。
「アリスヴェルチェ様・・・おっと、ジーク殿下。いらしておられたのですな。失礼を致しました」
男はサッと馬を降り、礼に適った挨拶をする。
白髪混じりの髪ではあるが、鍛え上げられた身体で騎士として振舞うドレフォン・ステートは、現役を退いてからずっと、フォーゲル公爵家に仕えている。アーネストとアリスヴェルチェがこのポタジェ村に来てからも、直ぐにやって来て2人の支えになってくれた。
「今日は獲物もそこそこ多かったので、いつも通り村へ届けておきましょう」
自分の馬に乗せている獲物を指して、ドレフォンは優しい眼でアリスヴェルチェを見る。
「ええ、お願い。ベリル村長によろしくね。あ、それと例のビッグボアの件だけど、明日の夜明け前に討伐に出るからって伝えておいて。足跡の様子からだと、多分東の森で遭遇できると思うの」
ビッグボアは、巨大な猪に似た魔物で雑食だ。時折作物目当てで畑に現れ、大きな身体に物を言わせて作物を食い荒らす。冬になった今、畑には何も植えられていないが、そこから侵入して貯蔵庫や家々まで荒らされると困る。
「了解しました。村長と村の若者も手伝うと言ってましたから、その相談もしておきますな。自分も今晩は、しっかり準備して早めに寝ておきましょう」
ドレフォン・ステートは、どこか楽しげな様子で駆け去った。
その晩、ジークとアリスヴェルチェは、アーネストの部屋で一緒に夕食をとった。
現在のフォーゲル公爵家当主であるアーネストは、15歳になったばかりだが、病弱な育ちのせいか体も小さく12歳くらいにしか見えない。けれど賢く素直な彼は、自分の状況をよく理解していて、我儘を言うことも無く周囲を気遣う優しさも備えている。
和やかで楽しい夕餉の時間がひと段落すると、アリスヴェルチェはふと立ち上がって暖炉の傍に立った。
「寒くない?もう少し、薪をくべようかしら」
弟を気遣って言う彼女は、暖炉の傍らにある火かき棒を手に取って振り向いた。
その姿に、ジークは思わずクスッと笑ってしまう。
「殿下?・・・何か可笑しなことでもあるのですか?」
無邪気なアーネストの言葉に、彼は片目を瞑って答えた。
「ちょっと懐かしい事を思い出してね。アリスが火かき棒を、八つ当たりで曲げた時のことさ」
あれはフォーゲル公爵が、謀反の疑いを掛けられる少し前の頃だった。
冬の園遊会で、アリスヴェルチェは1人館から出て、庭に降りようと石段の上にいた。
「・・・あら、アリスヴェルチェ様ですわ」
「落ちこぼれの公爵令嬢でしたわね。『癒しの力』を持たない」
「フォーゲル公爵家は由緒あるお家柄だけど、それもあと僅かで消えるってお父様が仰っていたのを、こっそり聞きましたわ・・・ふふっ」
石段の下で、3人の令嬢たちが囁き合っていた。
アリスヴェルチェはその声を聞いていたが、知らぬふりで階段を降りる。けれど3人は、擦れ違うように階段を上がり、足を掛けて彼女の肩を軽く押した。
小さな悲鳴と共に石段を転がり落ちたアリスヴェルチェを見て、令嬢たちはクスクスと笑う。
「あら、まあ・・・足元にお気をつけなさいませね」
「貴族の女性なら痛みも怪我も、直ぐに自己回復できますわよねぇ」
雪解け水が溜まった泥の中にべしゃりと落ちた姿勢のアリスヴェルチェは、顔を伏せたままのろのろと起き上がる。
「無様に転がり落ちたこと。その恰好じゃ、皆様の前に出られませんわね」
貴族の娘たちの間では、こういった嫌がらせや苛めは往々にしてあることだ。かなり程度の酷い場合が多いのは、彼女たちに『癒しの力』があるためで、多少の怪我は自分で治せるからかもしれない。
令嬢たちにとっては、ちょっとした遊び程度のことだったのだろう。楽しそうな笑い声と共にサッサと立ち去ってゆく後ろ姿を見ながら、アリスヴェルチェは立ち上がって館に戻った。
着ていたマントは、泥水でグショグショ。身体もあちこちが痛い。
とりあえず汚れを何とかしようと、アリスヴェルチェは厨房に向かった。
作業が終わった後らしい厨房は、人もおらず整頓されていたが、暖炉にはまだ火が残っていた。アリスヴェルチェはマントを脱いで広げると、椅子の背に掛けて暖炉の前にそれを置く。
「もう少し、火を起こした方がいいわね・・・」
小さく呟いて火かき棒を手にとるが、腹が立って仕方がない。
「・・・・ったく・・・あの、イジメトリオっ!」
つい、両手に力が入った。
ぐにゃり・・・
鉄製の火かき棒が、見事に曲がった。
怒りと苛立ちが、無意識にストレングスの魔法のスイッチをいれてしまったのだった。
「・・・・アリス・・・これ・・・あっちで顔を洗ってくれば?」
いつの間にか背後に、ジーク王子が来ていた。
厨房の棚にあったタオルを差し出した彼に驚いたアリスヴェルチェだが、とりあえずそれを受け取って洗い場に移動する。
そんなアリスヴェルチェを見ながら、ジークは火かき棒を拾い上げると、力を入れてそれを元に戻した。『戦う力』を持たなくても、自己鍛錬は欠かさず行ってきた彼は、充分な筋力を得ているのだと解る。
「ジーク、いつから来てたの?」
顔を拭きながら尋ねるアリスヴェルチェに、彼は少し眉を顰めて答えた。
「遠くから見てたんだ。階段を落ちる様子と立ち去っていく3人の女性たちの姿をね。で、心配になったから後を追って来たんだ」
「見てたんだ・・・火かき棒を曲げちゃったトコ・・・」
八つ当たりの姿を見られて、流石に恥ずかしくなるアリスヴェルチェだ。
「まあね、ついでに声も聞いちゃったけど、イジメトリオって?」
「・・・イレーネ・アルアイン、ジルケ・スラヴィック、メラニー・マイネルよ。イレーネが公爵令嬢で、ジルケとメラニーは伯爵家だったかな。いつも色んな相手に、あんなことばっかりやってるわ。私だって、これが初めてじゃないしね」
(・・・ああ、それで イ・ジ・メ トリオってことか)
やってることも、充分その呼び方に相応しいだろうと思いながら、ジークは長椅子を暖炉の傍に引っ張って来てアリスヴェルチェを呼んだ。
「ここに座って・・・時間は掛かるけど、マントが乾く前には終わるから」
アリスヴェルチェは素直に腰を下ろすが、彼が隣に座ると、申し訳なさそうに言う。
「大したことは無いから、大丈夫よ」
「ここ、たんこぶが出来てる。ズキズキしてるんだろう?そういう時は、イライラもするだろうし」
ジークは、彼女の額に指先を当てた。ズキッとする痛みに眉を顰めながら、けれどアリスヴェルチェは素直に頷く。
肩を抱くように腕を回し、左の掌を彼女の額に当てたジークは、右腕を伸ばして暖炉の炎に掌をかざした。
「・・・回路開放・・・変換・・・継続・・・」
ジークが持つ魔法は、『癒しの力』に分類される。アリスヴェルチェと同じように独学で身に付けたその力は、最も低レベルな癒しではあるが、必要な魔力を外部のエネルギーから変換して補充することが出来た。そして一度その力を使えば、後は自動的に継続して癒し続けることが出来る。かなり時間が掛かるのだけが,難点と言えば言えるだろう。
今回ジークは、暖炉の熱エネルギーを変換して癒しの魔力にしていた。
アリスヴェルチェの額に置かれた掌からは、じんわりと優しい癒しが注がれ、少しずつ引いてゆく痛みが安らぎのように感じる。
「ありがと・・・ジーク。転げ落ちた時に、石段の角にぶつけちゃったのよね。咄嗟にグラビティで落ちる衝撃は減らしたけど・・・あの人たちに怒りが向かないように、気持ちを抑える方にばかり気を取られていたから。・・・だからかな、後になって怒りがこみ上げて来て、つい火かき棒に八つ当たりしちゃったわ」
呟くように話し出したアリスヴェルチェに、彼女の幼馴染は黙って頷いていた。
そんな思い出話を、ジークはかなり端折って話した。
「嫌なことがあってイライラしてたアリスは、火かき棒に八つ当たりして、見事にひん曲げちゃったんだ。それを見られた時のアリスは、顔を真っ赤にして恥ずかしがっていたんだよ」
アーネストに余計な心配をさせたくないと思い、嫌がらせの件には触れずに話したジークだったが、彼女の弟は楽しそうに笑いながら言った。
「・・・凄い!流石はアリス姉様です」
手放しで褒めるアーネストだが、アリスヴェルチェは本当に顔を真っ赤にして、ジークに声を上げた。
「八つ当たりの事なんて、言わなくたっていいでしょ!ジークの、いじわる!」
そしてくるりと背を向けると、サッサと部屋を出てゆく。
幼馴染同士の、些細な口喧嘩だった。
夜明け前の森で、勢子役の村人たちが大きな音と声を響かせる。
村長の指揮のもと、鍋や釜を包丁や鎌で叩きながら大声を上げる村人たちは、村中総出の老若男女だ。
ビッグボアの討伐が始まっていた。
遠巻きではあるが凄い人数の集団に、巨大猪のような魔物は煩そうな雰囲気を纏って森の中から出て来る。遮蔽物の無い畑には薄く雪が積もっているが、そこが討伐予定の場所だ。
「来ましたな・・・大きな個体だ」
初老の域に入ったとはいえ、まだまだ意気盛んなドレフォン・ステートは、愛用の槍を手にして淡々と言う。
「そうね、気を引き締めないと・・・」
アリスヴェルチェは、ジークから聞いていたビッグボアの生態を思い出した。
ビッグボアは、体が小さいうちは山の麓に暮らし、時折人里にも出て来るが、完全に成長すると高山地帯で生活するようになる。今目の前に出て来たビッグボアは、本来ならば村近くには出没しない個体だ。
(・・・何かあったのかしら?縄張り争いで、追われて山を下りて来たとか?)
特に手負いになっているようには見えないが、妙だなとは思う。
けれど今は、目の前の魔物を討伐することに集中しなければならない。
アリスヴェルチェとドレフォンは、二手に分かれてビッグボアに向かった。
彼女の愛馬グラーネは、6歳になる葦毛で黒と白の斑模様だ。遠目だと灰色に見えるが、決して見栄えが良い馬では無い。けれど賢く優しい瞳を持ち、何より主人に忠実で勇敢でもある。
自分より数倍大きな魔物に向かっても臆することなく、グラーネはビッグボアの前に駆け込むと、素早く動いて注意を誘った。
その間にドレフォンは、ビッグボアの後方に回りこんで攻撃を開始した。
「ビッグボアの剛毛は刃を弾きますが、毛並みに逆らうようにすれば有効になります」
以前彼は、アリスヴェルチェにそう教えていた。
足を止めて向きを変えようとするビッグボアだったが、巨体であるがゆえに俊敏さには欠ける。
その隙を見逃さず、アリスヴェルチェは素早くその顔面に矢を放った。ストレングスの魔法は掛けているが、それでもビッグボアにとっては大した脅威にはならない攻撃力だ。
「ブモウゥゥゥ!」
けれどビッグボアは、悲鳴にも似た咆哮を上げた。弱点は鼻と眼。ジークから、そう聞いていた。
鋭い牙が覗く口元から泡を吹き、ビッグボアはその場で頭を振りまわす。
魔物のそんな様子を見ながら、アリスヴェルチェとドレフォンは少しずつ、的確に相手の体力を削って行った。
ビッグボアの足止めをするように動き回る2人だったが、やがて森の中から村人の集団が姿を見せた。
遠巻きにではあるがその人数の多さに、ビッグボアは退路を断たれたと気づく。慌てたように足をもつれさせながら移動するが、その先には村人たちが夜なべして作った罠が待ち構えていた。
何か所にも掘られた落とし穴は、大きな魔物の身体全体を落とすほどの大きさは無かったが、その足を捉えて転倒させるには充分だった。
「ブオウゥッ!」
鳴き声と共に地響きが上がり、その巨体が横倒しになった。
ドレフォンは馬から跳び下り、比較的柔らかなその腹部へ、全力で槍をめり込ませた。
アリスヴェルチェも、ビッグボアの前に跳び下り、半開きのその口の中にレイピアを埋め込む。
ストレングス・ファイア。
2種類の魔法を続けざまに掛けたその攻撃は、灼熱の刃をその口内に深く突き入れることで、魔物の頭部に致命的なダメージを与えた。
断末魔の声と共に痙攣が起こり、やがて動かなくなったビッグボアを確認すると、ドレフォンは手を上げて村人たちを呼んだ。
歓声と共に駆け寄ってくる村人たちは、アリスヴェルチェとドレフォンにお礼と労いの言葉を掛けると、早速解体作業に入る。
畑の外れから様子を見ていたジークも、アリスヴェルチェの傍に駆け寄って来た。
「お疲れ様・・・大丈夫か?怪我は無いか?」
グラーネから降りる彼女が少しよろけたのを見て取って、彼は心配そうに声を掛ける。
「うん、大丈夫。結構時間が掛かっちゃったから、疲れたけどね」
冬の夜明けの冷たい空気の中で、額に汗を滲ませたアリスヴェルチェは、肩で息をしていた。愛馬グラーネも、全身から湯気を立てている。
ビッグボアの牙が掠めたのだろう。彼女の服は何か所か、かぎ裂きができていたが、怪我にはなっていないようだった。
「アリスヴェルチェ様、ありがとうございました。お陰様で村のもの皆、安心して暮らせます。あのビッグボアの巨体ならば、この冬は村人全員、暖かいシチューを食べて過ごせそうです」
村長のベリル・スレーブが、村を代表して礼を言いに来た。
「牙や蹄などは都へ売りに行くのでしょう?そのお金は、春の水路工事用に保管しておいてくださいね」
アリスヴェルチェの言葉に、村長はしっかりと頷いた。
「はい、お任せください。あ、それと、ビッグボアの一番いい肉は、明日にでもお館へお持ちします。夏に伺った例の件の、ご報告もありますので」
村長との話が終わると、後の事は任せて館に帰るアリスヴェルチェだった。
昼食を終えた後、ジークはアリスヴェルチェを自室に誘った。
「都から手土産代わりに持って来たんだ。年代物の良いワインが手に入ったんだよ。討伐の疲れもあるだろうから、昼寝の前に1杯やるのもいいんじゃないか?」
ジークはワインボトルの栓を開け、香りと味を確認してグラスに注ぐ。
「うん、イイ感じだ。そう言えば、アリスがワインを飲んでいるところって、見たことが無かったような気がするけど・・・」
アリスヴェルチェは、彼の動作をじっと見ていたが、それに倣って香りを嗅ぐと、微笑んで答えた。
「飲んだこと・・・無いかな?でも、すごくいい香り」
そしてグラスに口をつけると、ぱぁっと顔を輝かせる。
「あ!美味しい!」
気に入ってくれたなら嬉しいと思いながら、ジークはふと頭に浮かんだ疑問を口にした。
「さっき村長が言っていた、例の件って何だい?」
「ああ・・・それね・・・うん、村人の中にちょっと気になる男がいたから、様子を見ておいて欲しいって言って置いたのよ」
「え?・・・気になる・・・って、どういう意味で?」
思わず珍妙な顔になってしまったジークだが、それに対するアリスヴェルチェの答えには意表を突かれた。
「あははははっ!ジークの顔!面白いぃ~~~」
「へっ?」
「あははっ~~~はははっ・・・面白くてぇ~~~!なんか、楽しくて止まらないのぉ~~ワイン、美味しいしっ!」
(な、なんだ? どうした?)
ケタケタと笑い出したアリスヴェルチェだが、ふと気づけばグラスを空にしては何度もワインを注いでいる。
「ちょ・・・ちょっと待って・・・」
慌ててワインボトルを持ち上げたジークは、その中身がほぼカラであることに気付いた。
(全部、一気に?・・・いや、最初の1杯からちょっと様子がおかしかったけど・・・)
絡み酒や泣き上戸よりは、笑い上戸の方が良いかもしれないが、ここまで豹変すると不安になる。
ワインを飲んだことは無い、と言っていたが、そう言う事があるのだろうかと思う。
貴族階級の家庭では、ディナーにワインが添えられるのが普通だ。飲酒年齢というものは存在しないので、子供も10歳くらいからは食事の時にワインを少量飲む。
フォーゲル家でも、アーネストは病弱でワインを飲むことは無かったのだろうが、アリスヴェルチェは食事のマナーを学ぶためにも飲んだのではないかと思う。
それなのに、何故?
(酒に弱いとは思うが・・・飲んだことを覚えていないとか?)
ジークが考えている間にも、状況は更に混沌としていた。
「アハハ・・・踊ってる~~」
見ればワインボトルが、テーブルの上でカタカタと回りながら弾んでいる。
「うわ!」
慌てて手を伸ばしたが、それをすり抜けるようにワインボトルが宙を飛んだ。
「飛んだ、飛んだ~~~~楽しい~~~」
「おい、ちょっと待て!」
叫ぶジークを揶揄うようにグラスも宙を舞い、ソファーのクッションが床を弾みながら浮いて回りだす。カーテンもバサバサと空気を煽るように踊り、ワインを開けた時のコルクスクリューまでもが飛び始めると、危険レベルの大混乱になった。
「アリス!止めろ、止めろって!」
酔っぱらいの悪ふざけ、なんてものじゃない。
おそらく酔うことで、普段は理性で押さえている魔法が、ダダ洩れになっているのだろう。集中なしで瞬時に、立て続けに使える魔法ゆえの大惨事だ。
本人はただ楽しいだけで、魔力を使っているという自覚も無いのだろう。
だから、止めろと言われてもよく解らず、子供の様な笑い声を立てるだけだ。
「どうしろってんだ!おい、アリス!いいから、落ち着けっ!」
飛んでくるクッションを避けながら、何とか本人に近づいてその肩を揺さぶったジークは、本気で危険を感じていた。
質素な暮らしゆえ、価値のある家具調度の類が無いことは不幸中の幸いだが、ワインボトルやグラス、そしてコルクスクリューが窓ガラスにでも当たれば、被害が大きくなる。
「危ないんだよ!止めろって・・・アリスっ!」
何度も叫んだ後、ふいに全ての物が動きを止め、床に落下した。
すぴよ・・・すぴよ・・・
ジークの腕の中で、アリスヴェルチェは気持ちよさそうに寝入っていた。
(・・・おそらくだが・・・)
安堵で力が抜けたジークは、ぼんやりと宙を眺めて考えた。
(アリスが子供の頃、こんな事があったんじゃないかな・・・)
初めてワインを飲んだ子供のアリスは、今と同じように楽しく部屋を滅茶苦茶にしたのではないか。
それを見た公爵夫妻は、娘に今後二度とワインなどの酒類は飲ませないようにしたのだろう。社交界に出る前ごろには、きちんと本人に説明することにして。
けれどその前に両親は亡くなり、アリスヴェルチェはワインなどを口に出来るような生活では無くなった。だからきっと・・・
「飲んだことが無いって、きっとそう言うことなんだろうな。と言うか・・・とにかく今後・・・いや、一生酒は飲まないで欲しいぞ」
やれやれ、と呟きながら、すやすやと眠るアリスヴェルチェを抱き上げて、彼女の寝室へ運ぶジークだった。