3 嵐の前の静けさ? いや、そんなことは無い
アリスヴェルチェとジークが、レザンの街に戻ってくると、アルアイン公爵はもう王都に向けて出発していた。こうなると、ここに留まっていてもすることが無い。2人はとりあえず、王都ヘデントールに戻ることにした。
ジークとしては、できればもっと長く王都から離れていたかったのだが、公爵の動向を見張ると言う務めがある以上、そうも言ってはいられない。
イレーネと会うのは憂鬱だが、自制心と忍耐力を総動員して、上手く立ち回らなければならないのだ。それを考えると胃が痛くなりそうだが、覚悟を決めなければならないだろう。
王都に戻ると、王宮の中は慌ただしい空気に満ちていた。
国内の数か所から、魔物来襲の知らせが同時に届いたのだ。国王は直ちに、迎撃隊の編成をしなければならなかった。王都にいる『戦う者』たちを集め、速やかに出撃させる必要がある。
アリスヴェルチェは直ぐにステーブルベースに赴き、ユールフェストに伝えた。
一緒に行かせて欲しい、と。
以前から話していた通り、ライアン・ユールフェストは自分の隊に彼女を加えることを快諾する。そしてアリスヴェルチェ・フォーゲルは、女騎士として、魔物討伐に向かうこととなった。
一方ジークの方は、早速イレーネの相手をしなければならなくなった。
自室に伺いたいと言う知らせが届き、とりあえず公的な応接室の方へ来るように返事をする。そこならば人目もあるので、身に覚えのない変な噂もたたないだろうとの考えだ。
イレーネは荷物を持たせた侍女と共に、精一杯のおしゃれをして登場する。プライドの塊のような彼女だが、父の命もあり、何とか王弟殿下を惹きつけようとしているのだろう。
「御機嫌よう、ジーク殿下。父が領地から戻りまして、殿下への土産をお持ちするよう言われましたの」
幾つもの煌びやかな箱を、侍女たちは恭しく開いてゆく。
「お気に召す品が、あれば宜しいのですけど」
少しつっけんどんな口調ではあるが、頑張って笑みを浮かべている。
名産の極上酒、特産のお菓子、凝った造りの文房具などの他に、なかなかの逸品であるらしいひと振りの剣があった。
ジークは『戦う者』の資格は無いが、武芸一般は収めている。普段は学者として帯刀することは無いが、儀式の折などに盛装する場合は剣を下げる必要があった。
「・・・これは?」
ジークは剣を取り出したが、付けられている下げ緒に眉を顰めた。美しい飾りには、アルアイン公爵家の紋章が付いたメダルがある。
(・・・・これを使うわけにはいかないな。いや、はっきり言って、使いたくない)
公的な場でこの下げ緒を見られたら、それはもうアルアイン公爵家と縁を結ぶと公言したようなものだ。
ジークは少し考えて、剣から下げ緒を外してイレーネに差し出す。
「これは、お返しします。今は、これを付ける時ではないでしょう。かと言って剣ごとお返しするのは角が立つと思うので、下げ緒だけ、イレーネ嬢、貴女が預かっていて下さい」
イレーネの顔が、パァッと明るくなった。
(今は・・・って仰ったわね。それって・・・きっと近い将来、この下げ緒を付けて、私の隣に立って下さるということですわよね)
しかも、それまで預けるということは、イレーネ自身に持っていて欲しいということなのだ。
「か、畏まりましたわ・・・つ、謹んでお預かりさせていただきます」
頬を染めて、珍しく素の笑顔になり、イレーネは恭しく下げ緒を受け取った。
(これで、上手くいったかな?)
ウキウキとした足取りで退室していったイレーネの背を見送りながら、ジークはホッとして肩から力を抜いた。
(今だけじゃなく、これからもずっと、あの下げ緒を付ける機会が無いように願いたいものだ)
かと言って、流石に女性を騙すような言動は、気分の良いものではない。
ジークはそんな気分を振り払うように、足早に自室に戻り、書類と書物に没頭するのだった。
そんな日々が続いたある日、ジークは久しぶりにアリスヴェルチェの家に行く。
旅から帰ってから、彼女は一度も王宮を訪れていなかった。王国で起こっている魔物の来襲は後を絶たず、現在でもどこかで戦いが起こっている。『戦う者』たちの疲労は、少しずつ蓄積されていった。
それでも何とかローテーションを組み、多少の休みを入れながら、魔物の撃退は何とか達成されている。
「久しぶりだな、パンサ。アリスヴェルチェはいるかい?」
家の扉をノックすると、パンサが出て来た。アリスヴェルチェは一昨日、ユールフェスト達と一緒に王都に帰ってきていると報告を受けている。
「あ、ジーク殿下。はい、いらっしゃいます」
パンサは、彼がただの学者ではなく、実は王弟であることを聞かされていた。そして、アリスヴェルチェの現在の状況も、全て教えて貰っている。
少年から青年へと変わるこの時期、パンサは新しい望みを抱くようになっていた。
いつかは、主である女騎士アリスヴェルチェ様の、従卒になりたい、と。
「あ、でも今は、寝室で横になっておられますが」
パンサの言葉に、ジークはギョッとした。
「えっ・・・怪我でもしたのか?」
慌てて中に入り、寝室のドアをノックしながら、返事も待たずに中に入った。
「大丈夫か、アリス⁉」
アリスヴェルチェは、外の気配を感じ取っていて、ベッドから体を起こしていた。
「大丈夫よ、ジーク。ちょっとした打撲だから」
「魔物にやられたのかい?」
「ううん、魔物の方は無事に任務を達成できたわ。多人数での戦いは、沢山学ぶことも多くて大変だったけど、今後の課題も見えたの。それで今朝、早速ステーブルベースに行って稽古をつけてもらったんだけど・・・」
アリスヴェルチェは、脇腹を押さえながら眉を顰め、苦笑交じりに説明をした。
人の少ないステーブルベースだったが、責任者であるライアン・ユールフェストは朝から来ていて、やって来たアリスヴェルチェの頼みを快く受けてくれた。
多人数での戦いにおける周囲への注意力を養いたいということで、訓練場の一室を借り、数名の兵卒たちと一緒に立ち合いをすることした。
勝手気ままに動いて良いと言われた兵士たちは、互いに適当に訓練をする。そんな中で、アリスヴェルチェはユールフェストと対峙した。
激しい打ち合いと動きは、以前よりも更に成長したアリスヴェルチェによって、真剣勝負のように白熱したものになる。ユールフェストも、本気の剣さばきで動くしかない。
けれど、一昨日までの遠征の疲労もあり、周囲への配慮もあって、アリスヴェルチェは一瞬気を散じてしまった。
ユールフェストの一撃を、避けることも受けることも出来ず、彼の剣を脇腹に受けてしまう。
「ぅぐっ!」
「しまった!」
瞬間的に、ユールフェストは力を緩めたが、それでも彼女の身体は吹き飛ばされたように床に叩きつけられた。
「だ、大丈夫ですかっ⁉ アリスヴェルチェ殿!」
飛びつくように駆け寄ったユールフェストだが、周囲の兵卒たちも慌ててその場に立ち尽くす。
「・・・だ・・・だいじょ・・・・うぶ、です」
一瞬息が詰まって呼吸が出来なかったアリスヴェルチェだが、激痛を堪えて何とか声を出した。
「医師を呼んで来い!」
叫んだユールフェストの袖を、アリスヴェルチェは何とか掴んで訴える。
「ライアン様・・・大丈夫・・・ですから。・・・・」
「だが、手当てをしないと!」
「ですが、その・・・ここでは・・・」
(あ・・・そうか)
ステーブルベースは今までずっと女人禁制のような風潮があり、『癒しの力』を持つ貴族女性はいない。訓練で怪我をした場合に備えて、平民の医師を常駐させ応急手当をさせるのが常だ。重症の場合は、怪我人を『癒し手』の元へ運ぶようにしていた。
常駐の医師は男性だし、周囲の兵卒も自分も男性で、そんな真ん中で手当てを受けるのは、彼女も避けたいのだろう。
脇腹の様子を見るために、少なくともシャツはめくり上げなければならないのだし。
「それじゃ・・・医務室に行って、必要な物を取ってくる。ここで待っていて下さい。他の皆は、退室するように!」
ユールフェストを先頭に、男性陣は急いで訓練室を出て行った。
「そんな訳で、応急手当をしてもらって帰って来たの。何とかグラーネには乗れたけど、やっぱり結構辛くて、ベッドに入って休んでいたのよ」
アリスヴェルチェの言葉に、ジークは大きなため息をつくしかない。
(遠征から帰って直ぐに訓練って・・・何と言うか・・・もう)
もう少し自分を労わってくれ、と思いながらもそれは口には出さないジークである。言っても無駄だと解っている。
「ちょっと見せて。癒すから」
ジークは手を伸ばし、彼女のシャツを捲り上げた。
大人しく自分からもシャツを捲るアリスヴェルチェだが、その下にはしっかりと巻かれた包帯があった。それを丁寧に解き、湿布の布を取り去ったジークは、やれやれと眉を顰めた。
「・・・これは、痛むだろう?」
真っ赤に腫れ上がった横腹は、紫色の内出血に縁どられている。骨や内臓の損傷は無さそうだが、湿布をしていても痛いに違いない。
ジークは掌を患部に当て、いつもの癒しの呪文を呟いて治療を始めた。
やがてそれが終わると、集中を解いたジークはふと考える。
(応急手当てをしたのは、そのユールフェストという奴だろうな・・・アリスの素肌に湿布をして、包帯を巻いて・・・)
つい、その様子を想像してしまう。
(アリスの肌を見て、触れて・・・手を回して包帯を巻いて・・・至近距離で・・・)
医療行為だと頭では解っているが、どうにもイライラが止まらない。
けれどジークのそんな感情にも気づかず、アリスヴェルチェはホッとしたように笑みを浮かべた。
「ありがとう、ジーク。すっかり楽になったわ」
「・・・うん、良かった」
ハッと我に返った彼は、彼女の頬にそっとキスを落とした。
その時、ノックの音がした。
誰か来たらしい、とジークが先にドアに向かう。開いた扉の向こうには、花束を抱えたライアン・ユールフェストの姿があった。
「誰かな?」
薄々は解ったが、それでも地を這うような低い声で誰何するジークに、驚いたのはユールフェストだった。
「えっ!・・・あ! ジーク殿下⁉」
アリスヴェルチェ本人が出て来るわけは無いと思っていたが、まさか王弟殿下が目の前に立つとは、思ってもいなかったユールフェストである。
「ラ、ライアン・ユールフェストでございます。アリスヴェルチェ嬢は、おられますでしょうか?」
それでも何とか気を取り直し、慇懃に腰を屈める。
「先ほど、訓練場で彼女に怪我を負わせてしましたので、お見舞いに伺った次第です」
「ふむ・・・彼女なら寝室だが・・・」
さて、どうした物かと考えるジークに、見舞客は彼に尋ねたい気持ちを我慢できなかった。
「失礼ですが、殿下は何故ここにいらっしゃるのでしょうか?」
ジークは、こうなったら覚悟を決めて言ってしまおうと決めた。
「アリスヴェルチェ嬢は、幼馴染で恋人だ。つい先ほど、ここに会いに来た」
落ち着き払った彼の言葉に、ユールフェストは一瞬固まったが、直ぐに立ち直る。
「それは・・・殿下は、アルアイン公爵令嬢イレーネ様とご結婚なさるのではないのですか? 王宮では、婚約も間近だと言われております。アリスヴェルチェ嬢は、そのことをご存じなのですかっ⁉」
口調を荒げて、問い詰める彼は、真っ直ぐな目でジークを睨んだ。
「アリスヴェルチェは、承知している」
ジークとしては、そう言うより他は無い。アルアイン公爵の件で、時間稼ぎをしているのだから。けれどそれを、彼に説明するわけにもいかないのだ。
ライアン・ユールフェストは、激昂した。
「殿下! 貴方は幼馴染と言う縛りと、甘い言葉で、彼女を日陰の身に落とすおつもりですか! アリスヴェルチェ嬢は・・・あの方は、そんな身の上にあっていい方では無い!確かに、没落して貧しくなっていても、高潔で常に己を律し、努力を続ける稀有な女性なのです!」
こうなると、王弟と臣下という身分など、頭の中から綺麗さっぱり消え失せる。
ユールフェストは、ジークに食って掛かるように言葉を浴びせた。
「アルアイン公爵の御令嬢と結婚し、アリスヴェルチェ嬢は愛人か妾になさるのでしょう。彼女がそんな扱いをされるなど、私は許せません。殿下は、不誠実で卑怯な男の典型です!」
「煩い、黙れ! 何も知らないくせにっ!」
ジークはとうとう、我慢できずに怒鳴り、彼の胸倉を掴んだ。
1人の女性を巡って、若い男性たちが争う光景は、城下だろうと王宮だろうと、それなりにあるだろう。喧嘩に発展することも、当然不思議ではない。
けれど、王弟殿下と臣下の騎士が、若さに任せて掴み合いの喧嘩と言うのは、流石に珍しい。
「卑怯者っ!」
「事情がある、と言ってるだろうがっ!」
ドタバタ、ボカスカという大騒ぎに気付き、アリスヴェルチェとパンサがドアから出て来る。
「な、何?・・・どういう事?」
(喧嘩? 何が原因で? こういう時って、どうすれば・・・)
呆気に取られて立ち尽くすアリスヴェルチェだが、パンサは咄嗟に2人の間に割り込んで何とか収めようと頑張った。
「お2人とも、落ち着いてくださいませ~~」
パンサの頑張りで、最後は何とか拳を収めた2人は、家の中で話をすることにになった。
「・・・どうぞ、ローズヒップのお茶です。これなら私も、上手に淹れられるの。落ち着くから、飲んでみて? ローズヒップは、ポタジェ村の特産なの。昔ジークが、イヌバラを畑の周りに植えたらどうかって言ってくれたでしょ。農作物を荒らす小動物が、嫌がって中に入りにくくなるからって。その実が沢山採れたので、村じゃスープにいれたり干してお茶にしてるのよ。色も綺麗だし、近頃は王都でも需要があるって聞いたわ」
アリスヴェルチェは、他愛ない話をあえてゆっくりした口調で聞かせた。
やがて、透明な紅色の美しいお茶と、彼女の声音に若い男たちは落ち着きを取り戻した。
これはもう、ユールフェストには全てを打ち明けた方が良いだろうと、アリスヴェルチェは決意する。
長い話になるけど、と前置きして、彼女は腰を下ろして話し始めた。
「・・・・・・・すみません、情報量が多すぎて・・・少し考えを纏めさせてください」
アリスヴェルチェの話が終わると、ユールフェストは腕組みをして目を閉じた。
ついさっきは、感情に任せてとんでもない言動をとってしまったが、そもそも彼はステーブルベースの責任者としての分別も思考力もある。
やがて彼は、きっぱりと顔を上げると、真っ直ぐにジークを見て、深々と頭を下げた。
「王弟殿下には、誠に失礼な言動を取りましたこと、深くお詫び申し上げます。お許しいただけますならば、自分を信頼して全てを打ち明けて下ったことに対して、真摯にお答えしたいと思います」
潔いほどの彼の態度に、ジークもとりあえずホッとして頷いた。
「先ず、アルアイン公爵に関しては、腑に落ちた気がいたします。ユールフェスト家でも、不審に思うところも多々ありましたので。ですので今後は、自分も公爵の動向を見逃さず、何か解ったら直ぐにご報告いたします。真っ先に、アリスヴェルチェ嬢に」
ライアン・ユールフェストは、一度アリスヴェルチェに視線を移したが、直ぐに目を伏せた。
「お二人の深い絆も、解りました。白状しますと、自分はアリスヴェルチェ嬢に・・・その・・・愛情を抱いておりまして・・・けれど、それが横恋慕だと気づきました」
(え?・・・そうなの?)
アリスヴェルチェは、目を丸くして驚いたが、彼の言葉にどう返して良いかは解らない。
(ありがとう、と言うべきなの? それとも、すみません?)
こう言う事に慣れていないのが、アリスヴェルチェなのだ。
「ですが、やはり自分の気持ちに嘘はつけません。ですから私は、アリスヴェルチェ・フォーゲル嬢に、騎士として忠誠を捧げたいと思うのです。勿論国王陛下への忠誠に変わりはありませんが、戦いの場でアリスヴェルチェ殿を命を懸けて守ることをお許しいただきたいのです」
騎士として、彼女を守りたい。
愛情を、敬愛と尊敬に変えて、心を捧げたいと彼は言う。
(宮廷的愛・・・かな? いささか古いとしか言えないが・・・)
騎士道愛とも、コートリーラブともいう奉仕の心だが、それも対象になるのは既婚女性ではなかっただろうか、とジークは思う。
それでもアリスヴェルチェを、自分の将来の伴侶と、彼が認めてくれたなら御の字かもしれない。魔物討伐の場で、彼女を命がけで守ってくれるならありがたく思うべきだろう。
「解った・・・許す」
ジークは右手をユールフェストに差し出した。
奇妙な友情が芽生えたような場面だが、その要であるアリスヴェルチェの方は、意味がよく解らず怪訝な顔つきのままだった。
そして、状況はそのまま、月日が流れた。




