ただの日常に溢れてありふれた幸せたちに
いつからこの日にそうだったかなんて覚えていない。
ただ、慣れすぎたから。私も彼も。
だから、この一つのチョコレートに何かすごい意味を見出すことなんてなくて、イベントだから、礼儀だから、慣れだから、そんな感じで、それでもちょっとは喜んでもらえることを期待して、自分が納得できる物を作った。
「ただいま、彩羽さん」
「おかえり、陽向くん」
普段と変わらない日常的なやり取りは相変わらず。先に仕事が終わって帰宅していた私は、二年前から同棲し始めた彼のために夜ご飯の準備をして待っていた。
高校時代に知り合った一つ下の部活の後輩は、昔は私と同じくらいだった背も、今では私が少し視線を上げないと顔が見えないくらいには大きくなった。玄関の段差くらいの差がちょうど良い。
真面目で一生懸命でまっすぐで、でもどこか、それ故の危なさを感じさせた彼のことを私は放っておけずに、気がつけば一緒にいることが当たり前になって、気がつけば告白されて、気がついたら恋人になっていた。
もちろん好きだし、愛していると言っても間違いではないと思っている。そうじゃなかったら、多分同棲なんてことにもならないし。
私が先に進学して、私が先に就職して、彼も後を追うように進学して、就職して、彼が働き始めて二年目に同棲の話を持ちかけられて、そこから今に至る。付き合い始めてから今まで葛藤や戸惑い、ケンカや言い合いが無かったとは言わないけれど、それよりも二人でいる時間が穏やかで、落ち着いて。
お互いがお互いの特別になっているっていう実感が持てたことが嬉しかった。
色々考えながらも一緒に食卓を囲んで食事を食べ終わって片付けたところで、私は準備していた箱を一つ彼に近づいて手渡す。
「陽向くん、これ。今日バレンタインだし、あんまりいつもと変わり映えしないかもだけど、よかったら食べて」
深いことは何もないけれど、なんだかんだでプレゼントを渡すタイミングでは緊張してしまう。
そう考えられることが、私にもまだ恋愛に対する初心な気持ちがあったことを教えてくれる。
「彩羽さん、……いつもありがとう。俺、彩羽さんが毎年作ってくれるチョコシフォン、ホント好きだし、彩羽さんのことも……」
顔を赤らめて受け取ってくれる彼の言葉に私も嬉しくなり、そして恥ずかしくもなり視線をそらして照れてしまう。
「いつも好きだよ、彩羽さん」
この子は本当にこういうことをサラッと言ってくれる。
出会った頃はこんな感じの子じゃなかったのに。むしろストイックすぎてそれ故に他人との間に壁を作って距離をとってしまうほどの不器用な子だったのに。付き合い始めてからずっと、気持ちを真っ直ぐ私に伝えてくれる。それも、軽い言葉ではなくて、ちゃんと目を見て、真正面に私を意識してくれて。
「私も、いつも大好きだよ、陽向くん」
だから私もつられて、彼に愛の言葉を伝える。
こうしたストレートな愛情表現に慣れてきたとは言っても、妙な気恥しさだけはどうしようもできないから、私は顔を赤くしながら少し変な笑いが零れそうなのをこらえて下を向く。
チョコレート一つでこうも盛り上がってしまうのは、多分私達がまだまだ大人になりきっていないから。私も彼も、まだ学生気分が抜けていない部分もあると思う。
それでも相手の言葉が嬉しいから。
私の言葉を喜んでくれるから。
きっとこの感覚はこれからしばらく何年かは続いていくんだろう。
「彩羽さん、ずっと俺の側に居てくれてありがとう。これからもよろしくお願いします」
「陽向くんこそ。私もこれからもずっと一緒がいいなぁ」
他人行儀な彼の言葉にちょっと笑いながら、私は彼と一緒にいる未来を思い浮かべて、顔の筋肉が緩むのを感じた。
「俺も一緒がいい。…………なぁ、彩羽さん。そろそろ俺たち、…………結婚、しませんか?……いや、違うな。…………俺と結婚してください!!」
『古城先輩、その、好きです!ずっとずっと、好きでした!俺と付き合って下さい!』
高校生のあのとき、大会の後で汗をかいて真っ赤な顔をしながら告白してきた彼が、今の彼に重なった。
それを思い出せるくらいには冷静で、でも、咄嗟に言葉が出てこなくて、顔が熱いことだけは感じ取れていた。心の中の答えなんて決まっている。そうじゃなかったら同棲なんて続いていない。いつかは行ってくれるだろうと思っていた言葉を渡されて、私は嬉しい筈なのに、なぜか何も言えずに変に頭が混乱してしまう。
『ありがとう、守山くん。……なんか照れちゃうね、こうやって告白される立場になるっていうのも。…………私の方こそ、付き合って下さい。いつも真っ直ぐに頑張る守山くんを見てたら、いつの間にか気になって、その…………好きになって、ました……』
あのときは嬉しさと恥ずかしさで色々喋って、そして自分からも告白し返していたっけ。
「はい」
過去とは違い、簡潔に。ただ一言だけの返事。
真面目な彼の言葉に、真っ直ぐなその気持ちに、余計な言葉は要らないだろう。
「オッケー……ってことで、いいんだよな?彩羽さん」
「うん。もちろん」
私の言葉を聴いて、彼は一気に私を抱きしめてきた。
本当に、いつの間にか男の子から男になって、成長しちゃって、私のことを簡単に隠せるくらいに大きな体になって。彼に埋もれているような感覚が心地良いって思えてしまう自分が少しだけ恥ずかしい。
「俺、絶対に彩羽さんを幸せにする」
「うん」
「彩羽さん。……愛してる」
「私もだよ、陽向くん。愛してる」
今までと同じように終わっていくと思っていたバレンタインデーは、今年はそうはならなかった。
大好きな彼が好きで喜んでくれる以外の特別な意味が薄かったチョコレートシフォンが、今年は特別な贈り物になった。正確にはそのお返しが。ホワイトデーでもないけれど。
微睡むような熱に、溺れるように身を預け、今がずっと続くかのような錯覚に沈みながら、私たちの夜は更けていった。
どこにでもあるような幸せを、今はただ、愛している相手と一緒に甘受して。
バレンタインデー用に書き下ろした短編小説です。
ちょっと擦れてて、大分甘々な話を目指しました。