太陽が沈むころ。
なるほど、普通の旅館だ。
館内を散策してみたけど、その古式ゆかしい佇まいのとおりで、特別な施設はなさそうだ。
観光地の温泉宿なら、例えばカラオケや、ちょっとした飲み屋、リラクゼーション施設に映画館まで入っているところもあるが、当然のごとく、そんなものは無かった。
ちょっとした宴会ができるであろう広間とか、番頭さんが共用の広縁と言っていた景色がよく椅子がいくつか置かれた場所、浴場(露天風呂もあるらしい!)。
番台のそばには小さな売店。売っているのはカップ麺や飲み物、おつまみやスナック、タバコ、暇つぶし用のパズル、旅行用の簡易的な下着に洗濯石鹸まで。
施設自体も、売っているものも、エンタメ感はないものの普通だった。
そして意外なことに、結構、人がいる。
浴衣を着たカップルとすれ違ったり、番台のそばでは仲居さんと談笑している男性がいたり、景色を見ているアンニュイそうな女性など、賑やかとまでいかないが、宿泊者が静かな時間を過ごしている。
……普通の旅館やないかい!!
部屋はといえば、部屋風呂はないものの、トイレとかもきれいだし。
そういえば電話やテレビはなかったけれど。
うーん。やっぱり俗世を忘れてもらうことがコンセプトの秘境旅館が打ち出した、プロモーションとか……そういう線かなぁ。
別れてしまうカップルの話があるのは恐らく……。
例えばテーマパークでよく聞く話。並んでいる最中の待ち疲れや、話題の続かない気まずさもあって、カップルが別れやすいという話を聞いたことがある。当然話が弾むカップルもいるだろうけど。
それと同じで、いつもと違う環境にくれば愛が深まるカップルもいるし、途端に別れてしまうカップルもいるのだ。
はい、結論が出ました!!
またぞろ都市伝説の正体なぞ、こんなものだろう。
自室に帰ってストンと座ると、襟の周囲からふわりと汗のにおいがした。
汗が乾いて香る頃。
いやはや、ここはやっぱり温泉でしょう!
浴衣に着替えた私は、浴場に行ってザブンと入浴。
湯の流れる音に、遠くに聞こえる沢のせせらぎ、木々のゆらめき。
これが全部タダで、浮世の垢を落とすまで、いつまでも居て良いっていうんだから、どこが不機嫌なものか! 最高だ!
ちゃっかり、時間がかかって面倒そうなレポート課題や、本も何冊か持ってきているので、もう、夏休みの半分くらい、ここにいてもいいかもなぁ。
風呂上がりには脱衣所にある昔ながらの扇風機で火照った身体を冷ます。
いいね、コーヒー牛乳まである。集金箱に小銭を入れればいいのか。財布は部屋に置いてきたから……、また今度だね。
マッサージチェアもあるじゃない!?
ありがたみを感じる年齢ではないけど、温泉の雰囲気が味わえる。これも小銭が必要だから、また今度。古き良き銭湯や温泉旅館そのものだ。
……ってお風呂も普通に、最高だったやないかい!!
手拭いを手で、ぶらんぶらんとさせながら自室へ向かう。
夏なので日は長いが、山間ということもあって空は西日でまばゆく、渓谷内は一足先に夜を感じる暗さになりつつあった。
館内の廊下は昔ながらのオレンジの電球がともり始め、昼とは違う温もりがある。
夕飯は何かなぁ~などと考えて自室の扉に手をかけると、紙が挟まっていた。挿し込まれたような形なので、私が浴場に行ってから誰かが入れたのだろう。
さては夕食の案内とか?
ひらりと落ちたその紙は二つ折り。
広げてみると、一気に現実へ戻された。
“すぐにこの旅館を立ち去ってください”